2015OHCD 11期主催公開講演レポート Home



その3 「地域は消滅するか」 講演会場で思ったこと

2015.06.08   常任幹事 3組 佐々木 洋

不意に現れた“失楽の人”
 太田・佐々木のOS常任幹事コンビが早目にきて講演会会場(3-4教室)の準備をしておりますと、「よお、太田ミッチャンじゃないか。分かる?オレだよオレオレ」とオレオレ詐欺のような言葉を吐きながら不意に入室してくる人がいました。この人も同じミッチャンの田中道夫さん(3年生時1組)で、ミッチャン同士は小田高在校時代以来、無慮約60年ぶりの再会なのだとか。「今日たまたまOHCDに来てみたら11期生主催の講演会があるというのでのぞきに来たんだよ」と田中のミッチャン。「そう、それじゃ今日の講演会のこと事前に知らされてなかったんだ」と太田のミッチャン。しかし、「でも、せっかく来られたんだから講演を聴いていってくださいよ」と続けるOSコンビに対して、「残念だけど、今日は別の予定が組んであるので」という言葉を残して田中ミッチャンは空しく会場を後にして去っていってしまいました。田中ミッチャンに限らず、このように11期生主催の講演会やその後の懇親会のことを知らずに過ぎてしまったために同窓生との交流の“楽”しみを“失”っていた11期同窓生の“失楽の人”が存外多いのではないでしょうか。

見習いたい2組のクラスの結束
 11期生主催の講演会については小田高全体の同窓会(樫友会)のOHCDに関するポスターにもホームページにも掲載されていないので、各クラスの幹事がクラス・メンバーにお知らせするしかありません。良いお手本は同クラスの三木邦之さんが講演するとあって“応援”に参集し、今回の講演会で“最大派閥”(32人中10人)をなした2組のやり方ではないかと思います。今回、会場誘導“看板”を作って掲示するなどして“応援隊長”の役割を果たした下赤隆信さんが、2組クラス幹事としても“看板男”ぶりを発揮して、講演会に先立って昼食会を行なう手だてを整えていたのです。講演会の後の懇親会まで引き続き参加した2組メンバーは全28人中の6名にとどまり、3組と“最大派閥”を分け合うところとなりましたが、この例を見ても、学年合同の集いよりもクラスの集いの方が遥かに吸引力が強いように思えます。私たち11期生は学年合同の結束を保ち続けてきましたが、いつの間にか、その基礎となるべきクラス毎の結束が疎かになってきているのではないでしょうか。11期生学年合同の集いのきっかけとなった小田高卒業30周年記念行事の頃に立ち返ってそれぞれのクラス会を活性化していけば、“失楽の人”を少なくすることもできますし、学年合同行事を“一部の人たちだけがしている他人事”とするTheyの意識を“自分たち自身が楽しむ行事”というWeの意識に変えていくことができるのではないか愚考しています。

他学年同窓会の模範になっている!
 隣室(3-3教室)では、5期同窓会公開講演「憲法を考える」を開催されていました。その幹事さんからお聞きしたところ、私たち11期の平成23年度講演(太田充「福島原子力発電所の事故と放射線の影響」)に刺激を受けて5期主催の講演会を始めたのだそうです。この講演会の他にもゴルフの会などを随時行っているそうですから、学年合同の結束力には私たち11期と同等以上のものがあるようです。しかし、11期と違って学年合同の結束力の基礎となるべきクラス会が組織されていないので、学年合同行事が5期同窓生から“一部の人たちだけがしている他人事”と見られている面が強いようです。いずれにしても、私たち11期の活動が他の学年の同窓会の模範になっているというのは嬉しい話でした。このように11期が樫友会の各学年同窓会の中でもトップクラスを走っていることは間違いのないことですから、更に、クラス会活動を蘇生させることによって「全員参加」の機運を盛りたてていけば「樫友会中No.1」の位置を不動のものとすることができると思います。お互い後期高齢者の仲間入りする時期ですので、メンドクサイことはしたがらなくなっていますが、こんな時期だからこそ小田高同期同窓生との交流から大きな“老後の楽しみ”が得られ、後期高齢を“高貴幸齢”に変えることができるとも思います。クラス会活動が不活発になっているとお感じのクラス幹事各位におかれましては、ダマサレタと思って試してみてください。

史上初! 父娘間のQ&A
 講演者の三木邦之さんの娘さんの葉苗さんがお友達4人を引き連れて来場してくれたのも今回の嬉しい出来事でした。ちょうど空いていた最前列の席にご案内したので、話に熱が入ってくるとツバキが飛ぶようになるという三木さんのお話が事実なら大相撲の「砂かぶり席」ならぬ「ツバキかぶりの席」に座していただいて、つい目の前で父が聞き娘が聴くという構図になりました。この日は2組勢の高橋(旧姓・秋山)佳子さんが紅一点として受講することになったのですが、お陰で“女性派閥”が一気に高まったばかりでなく、講義終了後の質疑応答アワーでは、娘が発するQに対して壇上の父がAを返すという前代未聞の仕儀となりました。三木葉苗さんが作成して受講者全員に配布してくださったチラシ「美の基準についての覚え書き」の全文を以下に掲載しますので、講義内容の理解を一層深めるとともに、三木ファミリー内で娘が父親に対して抱く尊敬の念や信頼感の強さをお読み取りください。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


「美の基準」についての覚え書き
2013年9月   三木邦之さんのご令嬢  三木菓苗さん

 80年代後半、大きな大きな経済の波が、真鶴町にも押し寄せてきました。この小さな半島に、持ち上がったリゾートマンション建築計画は、全部で43棟。そのすべてが国の建築基準法・都市計画法に見合ったものであり、県の指導にも従っているのだと、当然のように、財産権・建てる権利を主張してきます。
 国の法律で、真鶴町は守れない。
「きちんとした拘束力のある、この町独自の条例をつくる必要がある。」
自己水源の乏しい、真鶴半島の現実的な弱さを武器に、基準以上の大きさの建築物には、水を供給しないという「水の条例」。建蔽率・容積率に加え、風致地区や、細かな基準を設けて、景観を守る「美の条例」。
 2段階の条例構想をかかげて立ち上がったのが、私の父でした。

 このように小さな町が、独自の法律を設けるというのは、並大抵のことではありません。開発業者だけでなく、国や県も圧力をかけてきます。そして、規制の厳しい条例に、住民からも様々な主張が起りました。
各所をまわり、「話し合い」に力を尽くす日々。

 当時の父との会話で、私の胸に深く刻まれているものがあります。
「建蔽率50% 容積率200%という数字を見て、厳しすぎるという意見があるが、今現在、この真鶴にたつ建物の中で、この基準に反しているものなどほとんどない。自分たちはずっとこのように暮らしてきた。
もちろん土地所有権・財産権を主張することはできる。けれど、自分の権利を主張することで、隣の人の権利を侵すようなことはよそう。ただ、それだけのことなんだ。」

 ”美”という主観的なものを、どのように客観的な言葉におきかえるのか?

 「この土地に人が住み、集落を形成し始めた頃から考えると、真鶴には千年の歴史がある。その時間の重みを加えることで、その営みを言葉にかえることで、真鶴独自の“美”を客観的、かつ、普遍的なものにすることができる。」1993年に制定され、翌年に施行された「美の基準」によって、当時の開発計画の、ほぼすべてが白紙に戻されました。
私は今日も、懐かしい町並みを歩き、鬱蒼としたお林に分け入り、木々の隙間から、かがやく海を眺めています。

 その暮らし方ひとつで、その生き方ひとつで、私たちは、大きな力に打ち勝つことができる。それが「美の基準」が私に教えてくれたことです。 できあがった条例の素案をもって、説明にまわる父は、「これを真鶴の“決意”と受けとめて欲しい。」といいました。

 施行から来年で20年。
平易であたたかく、芯の強い言葉で綴られた真鶴の決意が、改めて多くの人に読み継がれ、受け継がれていくことを心から願います。