ちょっと発表




 佐々木さん、吉田さんへ
2015.12.21   3組 遠藤紀忠

 佐々木洋さんの「魚名魚字Part11サケの巻」に関連した情報を下記に記しました。

 “鮭はさかなの王様である” これは吉田さんの『グルメレポート』からの引用ではなく、北海道出身の作家渡部惇一著「これを食べなきゃ・わたしの食物史」(1995年集英社刊)に書かれている件です。この本の一部を紹介します。

 鮭はさかなの王様である。(中略)
 わたしがサケを魚の王様とする第一の根拠は、その姿の見事さである。銀色の鱗を身一杯にまとい、背ビレをたなびかせながら川をさかのぼるサケの姿は、精悍で逞しく、しかも威厳にあふれている。(中略)
 これを王様とする第二の根拠は、身が美味しく、どの箇所といえども捨てるところがないことである。(中略)
 サケの第三の魅力は、その生態がミステリアスなことである。(中略)
 サケは本当は甘い魚である。淡泊ななかにほどよい甘味が隠されている。このことが最もよくわかるのはルイベである。ちなみにルイベはサケの身を凍らせたもので、かってアイヌ人は秋に獲ったサケを雪の中に埋めておいて、賓客がきたとき、雪のなかから取り出して刀で刻んで出した。

 今はこれに薄く生姜醤油をつけて食べるが、口のなかにしばらく含んでいると、凍った部分が溶けてきて、さわやかな甘味が口中に広がってくる。

 酒のつまみとして親しまれている「鮭とば」の語源について
トバの語源はアイヌ語のトバ(“群れ”の意)、トパ(注-1)またはトゥバ (注-2)に由来しています。アイヌは脂の無い後半のサケやホッチャレを割いて背開きにして干揚げたアタッ(アダチ)を冬の食料としましたが、このアタッ(アダチ)が現在のトバの原型といわれています。尚、トバを“冬葉”と命名したのは標津漁業協同組合です。現在“鮭冬葉”で販売しております。 秋サケトバの天日干し(11月、標津)  (写真:北海道新聞 05-11-16)
  (注-1)トパ 更科源蔵著の「コタン生物記」には「老魚になった、いわゆるホッチャレは、頭も尾も      つけたまま、二つ割にして乾かし、それを叩いてシカやマスの油をつけて食べた。これをトパ      (頭を二つに割るので、頭二つの意)といった」とある。
  (注-2)トゥバ 「ものと人間の文化史 鮭・鱒Ⅱ」赤羽正春著 法政大学出版局 2006年刊
      によればアイヌの伝統的なサケ干物について以下の記述がある。
      トゥバは片身ずつにおろし、さらにそれぞれ二条ずつ縦に切り裂いた短柵状にして干すもの。



 サケは本来白身魚である
 サケは白身魚であるが、カロチノイド系色素の「アスタキサンチン」を多く含む甲殻類を摂取し筋肉中に沈着することにより身は赤くなる。筋肉中の色素はサケの種類により異なり、最も赤くなるのがベニザケでありシロザケの5~6倍の色素を有する。サケの♂は成熟すると表面が赤色で覆われる婚姻色を呈する。この赤色は筋肉中に蓄えられた赤色のアスタキサンチンが表面に出てきたものであり、成熟時の身は退色し色が薄くなる。 

ベニザケオスの成熟魚 写真:「サケ学大全」2013年 
一方♀の筋肉中の色素は成熟時に卵に移行するので、成熟時の身は退色し色が薄くなる。尚、タイの表面は赤くなるが、この赤身はやはりアスタキサンチンである。ただしマダイでは筋肉中にアスタキサンチンを蓄積することはなく、身がサケのように赤くなることはない。

 サケとシャケ、「南部の鼻曲り」とサケの属名「オンコリンクス」(“鉤鼻”の意)
市川健夫著「日本のサケ」によれば
『サケの語源は裂けの意で、肉がさけやすいからだといわれるが、一説によると古語にサケの親をスケということから訛ったものとされている。東京ではサケをシャケと発音している。夏目漱石の『吾輩は猫である』に「しゃけの一切れや二切れで相変わらずたあ何か。人を見くびった事をいふねえ」とあることでも、シャケが東京で用いられた事がわかる。イキのよい魚河岸の魚屋が、サケと酒が同音なので明治初年にシャケと訛っていいはじめたのが、その語源であったともいわれている。

シロザケオス(鼻曲り)
 「南部の鼻曲り」などとよくいうが、これは受精間近の雄のシロザケは、第二次性徴として鼻がわん曲してくる。これは南部に限ったことではないが、適切な表現であろう。サケ属の学名はラテン語のオンコリンクス(Oncorhynchus)でギリシャ語のオンコス(鉤)とリンクス(鼻)であり、南部の鼻曲りと同意であるという。』

 イクラはロシア語で魚卵の事です。現在日本でイクラといえば鮭の卵をバラバラにほぐし塩または醤油で味付けをしたものをイクラと呼んでいます。単にイクラと云えば通常は塩イクラを指し、醤油で味付けしたものは醤油漬けイクラまたは味付けイクラといい塩イクラとは区別しております。イクラは本来塩イクラしかなく醤油漬けイクラの出現により市場には塩イクラ、醤油漬けイクラの二種類が並び、現在では醤油イクラの生産が塩イクラの生産を上回っています。更に近年になり飲食店で独自の味付けイクラをつくるために塩味も醤油味もついていない生イクラ(塩、醤油等の味をつける前の状態)が生産され、流通しております。(中略) 「イクラは1904~1905年頃、日露戦争出兵時のロシア人がキャビアの代用品として食べたのが最初といわれる。昭和初期に、日本の市場でキャビア(当時は『カビア』)として出回っていたのはイクラであった。」日本語源大辞典(小学館)

 Nichiroサーモンミュージアム(㈱ニチロのホームページ)によれば「昭和初期になると、ニチロではカムチャッカの工場でイクラを製造樽詰めにして函館へ運び、函館で缶入り(注意:缶詰ではない)をしていました。一部はカムチャッカでも缶入りをつくっていました。」と当時の缶入りイクラ、ポスターを写真で紹介しています。
 昭和17年(1942年)に大著「鮭鱒聚苑」には塩イクラについては「イクラはシベリアの漁村で造り始めた」と書かれており、醤油漬けイクラについても『バラバラにした鮭卵を醤油に1/5程の酒と砂糖、味の素を少し加えたものを浸々(ひたひた)になるようにかけて1時間位経過して食べると美味しい。

 
昭和初期の日魯のポスター、イクラの缶、ラベル

 生筋子を此の調理法で味わうと塩にしたものより旨い』と書かれている。 カムチャッカ、樺太でのサケマス漁業・工場稼動が開始されたのが100年以上前の1900年(明治33年)であり、当然現地ロシア人とも交流があったことより、すでにこの頃よりイクラは現地の日本人に伝わり現地の日本人はイクラを食べていたと想像されます。

 以上“知ったかぶり”をご披露しました。

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