ちょっと発表



2018.5.18     6組  榮 憲道 

みみずく寺と白秋と

    はじめに      

 5月10日付にて、遠藤紀忠さんが『北原白秋が最も輝いた小田原時代』というタイトルで、伝筆寺の住職浅井皋月さんの講演会(6/14)の案内を載せております。今回の講演会に残念ながら参加出来ませんが、私は10年ほど前にその伝筆寺を訪ねており、そのエッセイに纏めて投稿した記憶が懐かしく蘇り、「11期WEB」の私の投稿履歴を探したが見当たりません。よく考えた結果、その以前にあった「4・6組ホームページ」か、当時所属していた短歌誌に投稿していたのかも・・と思い至った次第である。
 このエッセイにある”高校時代の友人”とは「11期WEB」(ホームページも)の生みの親、今は亡き吉田明夫さんのことです。先代の住職が彼とその旅館を大変気に入って、ずっと長い間家族ぐるみの親しい付き合いをしていたと聞いて、私は吉田さんを介して伝筆寺を訪問をしており、そのエッセイが次の『みみづく寺と白秋と』である。
 多分皆さんの多くは読んでおられないだろうし、読んだ人も全く記憶の外であろうかと勝手に解釈して改めてここに披露いたしました。誠に余分なことかも知れませんが、拝読いただければ幸いです。

.      みみづく寺と白秋と
                                    榮 憲道

 北原白秋が福岡の有明海に面した水郷の町・柳川の生まれであることはよく知られているが、彼が「小田原は生れた土地、母の里に次いで最も懐かしく最も意義の深い芸術の母胎」と記しており、第二の故郷として愛した町が小田原であることは余り知られていない。
 私もそんな史実を知ったのはごく近年のこと、たまたま白秋が小田原で住んでいたという伝筆寺(でんじょうじ)の住職一家と高校時代の友人が親しい関係とわかり、一度訪ねてみたいと考えていた。そして、その後を継がれた娘さんの浅井皋月(こうげつ)さんと若干のメール交換をして連絡を取り、早春のある日伺うことになった。
 細雨に煙る小田原城の脇を通り、その裏山に当る天神山の急な坂道を500㍍ほど登ったところに寺はあり待ち構えていた皋月さんとご主人も交えて、1時間ほどいろいろと歓談した。
 伝筆寺は鎌倉末期に創建された浄土宗の古刹で関東初の念仏道場とのことであるが、別名みみづく寺とも呼ばれる。これは、北原白秋が境内の竹林に居を構え《木兎の家》と名付けたことがその由来である。”引越し魔”と呼ばれた彼が、たった一度だけ長く自宅を構えたのがその家 であり、物質的にも精神的にも一番幸せな生活を送ったという。
 白秋が住んだ家は今はなく、「みみづく幼稚園」となっており、お母さんが園長をされている。園歌は白秋の「赤い鳥小鳥」であり、11月2日に毎年「白秋忌」が営まれているという。 境内には童謡「かやの木山」で知られるカヤの木が大きな枝を広げており、その下にはカヤの木地蔵が祀られていた。
 白秋は、小田原に移住した大正7年、鈴木三重吉の創刊した「赤い鳥」に協力、その童謡部門をしばらく担当した。彼が小田原時代600編という童謡を創作したが、作曲家山田耕筰と組んだ「この道」「からたちの花」「ゆりかごの歌」「砂山」「まちぼうけ」「ペチカ」など、正に日本を代表する名歌となって今でも広く親しまれている。また、大正10年に佐藤菊子と再々婚、11年に長男(隆太郎)、14年に長女(篁子)をもうけている。戦後も二人は「とても懐かしい」と時折り伝筆寺を訪ねて来たとのことであった。
 再び短歌への情熱が生れた白秋は、大正11年、齊藤茂吉と互選歌集を編む。13年には前田夕暮、土岐善麿、釈超空らと超結社「日光」を創刊、15年(昭和元年)再度上京、全国各地を巡ったりしながら歌道に邁進したそうである。白秋は短歌・童謡だけでなく、自由詩・短唱・民謡、新詩文など日本語の音域を拡ろげ、更には記紀歌謡・風土記等の世界に分け入り、古語の復活を果たそうとしたが、病魔のため未完に終わり、昭和17年阿佐ヶ谷に57歳で他界した。せめてあと10年は生きてほしかった人物である。
 辞去する際、皋月さんから白秋が自筆の短冊のコピーを戴いた。


・篁(たかむら)の南(みなみ)面(おもて)のひのたむろ世にうま酒を楽しみにけり


「竹薮の陽だまりの中で寛ぎながら酒を飲むのが何よりも楽しみである」との意であるが、白秋の落ち着いた生活ぶりがうかがえる歌である。
 帰り路は、皋月さんが薦める尾根道伝いに小田原駅に向かった。雨はすっかり上がり春の陽光がまぶしいくらいに輝いている。その道は、太閤秀吉が一夜で城を築いたとされる名高い石垣山が早川を挟んで間近に望まれ、その先におだやかな相模の海、右手には箱根の山々が重畳と連なっている。
 道筋には白秋の歌が刻まれた案内板が次々に現れる。《白秋のからたちの小径》と名付けられており、白秋が散策しながら数多くの詩歌・童謡を作ったのであろう。その道は尾根伝いに八幡山に続き、さらに進むと、鬱蒼と茂った林の先に、私の母校・小田原高校の正門が見えてきた。ここからは、通い慣れた百段坂を下れば小田原駅は直ぐであった。





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