ちょっと発表



2018.5.30    6組  榮 憲道 

憧れのひと

<初めに>
 5月28日、恒例の小田高同期テニス会が辻秀志さんを中心にして開催された。前回の3月時は9人だったが、今回は13人(男性7人、女性6人)の盛況で大いに盛り上がった。特に”同期”にこだわらない会風に加え奥さんともどもの参加者も多く、まだしばらくは安泰であろうと感じている。そしてアフターテニスは近くの「バーミアン」での会食で、運動のあとのビールの味は格別に旨い。その折、樫友祭(5/13)での江木紀彦さんの「情報通信技術」なる講演のことや懇親会の話もあったが、やはり話題の中心はテニスのことであった・・・。
 5/22付で、そのテニスの仲間でもある佐々木洋常任幹事から今年の樫友祭・懇親会の様子が詳しく報告され、楽しく読み進んでいったが、何と城内高校から”瀬戸(相田)松子さん”が参加したことが記され、写真まで載っている。本当にびっくりし、懐かしく見入った。実は彼女とは大学時代より大変親しくて現在まで賀状を欠かさず、事前に彼女が顔を出すのが判っていたら、私も参加したかったなと感じている次第である。
 私は5/10付にて、遠藤紀忠さんからの伝筆寺の住職浅井皋月さんの講演会(6/14)の案内に対して『みみづく寺と白秋と』という昔のエッセイを勝手に載せたが、今回は佐々木さんの記事から、私と彼女との”青春”を記したエッセイ(2005年、当時所属していた名古屋のエッセイクラブに発表したもの)を引っ張りだして、また臆面もなく披露したくなり若干補正してここに載せた次第です。山本哲照さんが彼女とバイト仲間だったとか、私は小田原駅前の箱根登山デパートが出来た年から毎年バイトをしており、”相田さん”も誘って一緒に仕事をしたことがありますが、ここではないでしょうか? 今は遠く離れた名古屋に住みこんな歳になって、小田原にはいろいろ繋がりがあったんだなと実感している私です。
 そしてこのエッセイは、確か彼女にも何年か前に送っておりますので、笑って許してくれるでしょう。

                                                                                               (2018.5.30)

  憧れの女(ひと)
                  6組   榮 憲道

 昭和31年(1956)、白山中学を卒業した私は、白線の帽子に樫の校章、憧れの小田原高校に入学した。旧制神奈川二中、県下有数の進学校である。
入学早々バンカラ応援団の洗礼を受けた。放課後、校庭の脇の松林に集合させられ、校歌をはじめ応援歌・寮歌の類を叩き込まれた。文武両道の校風で、陸上部・サッカー部・軟式テニス部は当時全国制覇の強豪校としても名を知られていた。校舎は八幡山の頂きにあり、眼下に天下の小田原城を望む。そして、そこには小田原城内高校がある。名門の女子高であり、いろいろな面で意識したものである。
 大井町から酒匂川に架かる報徳橋を渡って栢山の駅に向かう一人の女子学生がいた。胸には白梅のバッジ、いわずと知れた城内高生。《マドンナとはこういう女性を指すのかー》、くりくりした明眸に黒髪をなびかせ、凛として歩む姿に魅せられた。
 高校三年の夏だったか、小田原高校を会場にして某予備校の模擬試験が2日間に亘り実施され、参加した。その最後の試験科目は得意の英語。時間より早く答案を提出した私は校門を出た。すると、すぐ後に続くひとりの女子校生――彼女であった。小田原駅への急な石段を踏みしめる。数歩遅れて彼女の靴音。息づかいさえ聞こえそうな至近距離である。しかしそのとき、私には話しかける勇気がなかった。なにごともなく小田原駅に着き、なにごともなく別れた。
    ~ ~ ~ ~ ~ ~
 早稲田大学に入学し、小田急線で通学した関係で御殿場線稲門会(地域の早稲田大学OB・学生の親睦団体)の会合に出席した。すると何たること、そこに彼女が座っているではないか。
栢山駅から早稲田に通学するのは二人だけとわかり、急速に親しくなった。確かに小説も書く文学少女であったが、煙草は吸うし酒もいける。深窓の令嬢のタイプとはまったく違う。異性を感ずることなく付き合える稀有な間柄となった。
「おでんを食べたい」という彼女に、「まかしとき!」。新宿駅西口『思い出横丁』の焼き鳥屋に飛び込み、「ああ、勘違い!」。おじさん族の好奇心の目にさらされた。あわてて焼き鳥を頬ばり、そそくさと飛び出したこともある。
お互いの家を行き来し、映画を観たり、ハイキングやスケートに行ったり、同じ店(小田原駅前の箱根登山デパート)でバイトしたり・・・。さては稲門会の飲み会の帰り、同じ方向の二人はともに体を支えあいながら、よろよろと夜道を辿ったこともたびたびであった。
 卒業後も時々会っていたが、お互いに結婚し住む場所も遠く離れた。現在は賀状の交換だけになっているが、最近の彼女は長年務めた教職を去り、悠々自適の生活を謳歌しているようである。
 会わなくなってすでに40年近く経ったが、今もなお忘れえぬ“憧れのひと”である。

                                                              (2006年 1月作品)



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