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「明治小田原庶民史 植田又兵衛の生涯」を読んで

2019.02.14

4組   今道周雄

畏友植田謙二氏から近著である頭記の表題の書を頂いた。本書では幕末から、明治、大正へと生きた植田又兵衛氏の生涯を中心に、小都市小田原が明治という大きな変革期に、世界や国内からどのように影響をうけ、変化していったか、が描き出されている。

植田又兵衛氏の生涯を支えたのがロシア正教であったということを知り、以前から抱いていた疑問「なぜ小田原にロシア正教の教会が存在するのか」という疑問が解けた。

 私が小田原のロシア正教会を初めて知ったのは、故廣石君の葬儀の時であった。彼がロシア正教徒とは知らなかった。ロシア正教の儀式は私がそれまで知っていた教会の形式とは違って、長い鎖の先につけた香炉を振り、盛装した司祭が祈りを捧げる、という映画でしか見たことのない葬儀であった。

 それ以来、なぜ小田原にロシア正教が根付いたのかを知りたいと思っていた。植田又兵衛は明治十年(1887年)にロシア正教の洗礼を受けている。日本にロシア正教を布教した聖ニコライ(イオアン・デミトリヴィチ・カサートキン)は1860年8月にシベリヤを横断へ出発し、1861年に函館にやってきたという。ニコライ師が布教を始めてから20年余りで小田原での布教が始まっていたのだろう。

 又兵衛が選んだロシア正教は、又兵衛の苦境時には心の支えとなり、一方、日露戦争時には迫害の理由ともなった。宗教に国籍はないが、それを広める人に国籍があり、信ずる人にも国籍がある。信心とは難しいものだ。

 又兵衛は明治22年に町会議員となり日清戦争(明治27年)を経験した。明示34年に町会議員の職を辞した後も、大海嘯(明治35年)、日露戦争(明治37年)と次々に襲い掛かる難事に渾身の力を振り絞って対処した。一方では教育の重要性を認識し、明治34年に自ら植田塾を立ち上げた。家業の材木屋の仕事にも精を出し、一方では和算、漢文を教えるという精力的な活動の裏つけは、やはり信心にあったのだろうか。

 本書は著者の綿密な調査による、正確な著述が特色となっている。製材の方法や和算の記述はその部分だけでも教科書になりそうだ。

小田原という町の歴史に、単なる郷土史ではない視点を与えて頂いた植田氏に感謝する。

                

 



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