小田原蒲鉾の起源については、はっきりしない。桃山時代であるとか、北条早雲時代とか、天明年間をその起こりとしたりしているが、わからない。いずれにしても小田原沖で釣れるオキギスを原料としていた。その他にムツ・イサキ・タカベ・カマス・ヒゴチ等を原料としていたと思われる。
小田原に於ける蒲鉾についての初めての記述は、「鶴岡八幡宮社参記」(北区史古代中世2)にある。
足利義氏が、小田原の北条氏康(1515―1571)の屋敷を訪れた際に、振る舞われた料理が載せられているが、この中に蒲鉾や梅干しの文字がある。しかし、この蒲鉾が小田原でつくられたものか、又どのような形態かは判然としない。
小田原・大磯・平塚等の相模湾沿岸でつくられていたと思われるが、特に小田原が城下町であったこと、天下の湯治場である箱根温泉という需要地があったことが、小田原が蒲鉾の隆盛に繋がったのではないか。但し江戸時代に、小田原蒲鉾が江戸に運搬され、販売されていたかは疑わしい。当時の製造上、貯蔵技術運搬に要する時間からして、おそらくは行われていなかったであろう。
江戸時代、家康が紀州(和歌山地方)から漁民を佃島に移住させ、東京湾の漁業を取り締まらせたので、西国の漁業技術が関東に伝えられた。小田原では、長縄という漁法が代表的で、承応元年(1652年)泉州堺から伝わったと記載されている。初め、タイを目的とした漁具であったが、後年アマダイ・オキギス・ムツ・ヒラメ・カレイ等を水揚げするようになり、これらが蒲鉾の原料になった。その他の漁法については、四艘張網・棒受網・手繰り網等あって、いずれも紀州の出稼ぎ漁民が、伊豆地方を経て伝えている。網漁具の伝来は漁獲量の増大に繋がり、小田原宿の需要を満たしたばかりでなく、余剰分については、加工したり、よそへ移出したりするようになった。 |