ちょっと発表



小田原蒲鉾の話し

1組 石黒駒士
本稿は2019年5月12日の樫友際に石黒さんが講演した原稿を頂き、編者がWEB用に編集したものです。大変量が多いものなので分割して掲載します。
江戸時代〜明治

  江戸時代に入ってから、焼くほかに茹でたり、蒸したりする調理法が始まった。喜多川李荘(守貞)が著した「守貞漫稿」には、三都共に杉板面に魚肉をうす高くし蒸す。蓋(けだ)し、京阪には、蒸したるままを白板という。板の焦げざる故也。多くは蒸して後焼いて売る。江戸にては、焼いて売ることなく、皆蒸したるのみを売ると、ここに関西の焼き蒲鉾と関東の蒸し蒲鉾は違っていたことがわかる。

  江戸後期になると、魚屋も問屋制になり、さらに江戸の魚問屋が、魚の買い付けや漁業資金の貸し付けを条件に、魚を江戸に移送させるようになった。又、魚の加工保存に欠かせない塩についても、江戸初期には小田原から前川にかけての砂浜で塩田がつくられ、塩の生産も盛んだった。後、北条時代から続く梅干し・塩辛・塩蔵魚・塩干魚の製造をさらに増加させたことから、小田原は魚の集散地としての位置を固めていったといえる。小田原の魚座の魚問屋は、70戸にのぼり、市内はもとより箱根・松田・御殿場・秦野・厚木・八王子等各地への荷送りも盛んだった。

 天保6年(1835年)当時の旅日記「東雲寺草」別名木賀の山踏みに土産に蒲鉾を貰うとある。すでに江戸では、元禄元年(1688年)日本橋神茂が蒲鉾の製造を開始している。[籠淸の製造開始は文化11年(1814年)としている。]

二宮尊徳全集弘化3年(1846年)の項には、須走村で小田原藩主一行が、蒲鉾を賞味したという記録や、安政7年(1860年)には、雨坪村(南足柄市)の熊沢屋 矢野七兵衛が、名主の就任祝いの膳に蒲鉾・大蒲鉾・末広蒲鉾・竹輪・ツミイレの五種類の蒲鉾を出したという記録、さらに翌年の貰受品明細帳にハンペンなどが載せられている文章が、南足柄市史近世資料編2に収録されている。

 さらに弘化3年11月、江戸にいた二宮尊徳のもとへ、蒲鉾五つ右品 小田原在所表より使いをもって、山崎金吾右衛門当18日芝屋敷へつき、同人より使いをもって右品昼前差し越し云々。翌年正月にも蒲鉾2枚、竹輪3本が届けられている。但し、未だ揚げる(油で)品が記されていないのは、未だなかったのだろう 。

 又、開成町史資料編近世2に宮之台村名主 青陽軒 草柳士愛が天保5年(1834年)、半弁(ハンペン)の製法が料理献立を絵入りで解説している「料理献立調味方法見聞集」に収録されている。一般の口にはなかなか入らなかった蒲鉾が、町人階層に移行し始めたのは、天明元年(1781年)頃からといわれているが、さらに現在のように大衆食品になったのは、明治35年(1902年)頃から。それは、動力による蒲鉾製造機械の発明と以西底曳き網漁業の発達による安価な原料魚(グチ)が大量に入手できるようになったから。

 元治元年(1864年)4月生まれの私の曾祖父石黒清次郎が書いた「顧往時」によると、5月から9月までは、板橋箱根方面への行商、10月から翌年4月までは内売りをし、結婚用又は祝魚を商う事を専ら、業となすとある。明治5年9歳の時に蒲鉾製造業を開始せり。同時に塩干品や塩蔵品もつくり売っていた。カツオ・マグロの節、魚糟等もつくっていた。

 明治16年(1883年)3月、細谷市郎兵衛が東京上野で開かれた第1回水産博覧会に提出した魚類図鑑によると、蒲鉾の原料となった魚には、オキギス小釣具にて漁す。体長25センチから35センチに至る。年八千尾・イサキ釣網で漁す。魚体15センチから30センチ、3月から6月まで漁す。年産6千尾ムツ、水深300尋(約450メートル)で漁す。10月から翌3月まで年産8万尾があげられている。ムツが主体だった。体長60センチ、秋には小ムツが大量に定置網にかかった。安くて美味しい。オキギスの正式 和名はギス。地方では、ダボと呼ばれていた。ダボ延縄という底延縄釣具を使い漁す。

 この他に、揚げ物や竹輪の原料としてタチウオ・スミヤキ(クロシビカマス)・シイラ・アマダイ等の白身の魚、鮫類のオナガ・ヨシキリ・ホシザメ・ネズミザメ(モウカ)・・・(延縄で)千度小路の漁業者は、昭和30年頃まで、この漁法で操業していた。

 

グチ キグチ

シログチ

クログチ

オキギス

タチウオ シイラ スミヤキ
アマダイ オナガザメ ホシザメ ヨシキリザメ

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