ちょっと発表



小田原蒲鉾の話し

1組 石黒駒士
本稿は2019年5月12日の樫友際に石黒さんが講演した原稿を頂き、編者がWEB用に編集したものです。大変量が多いものなので分割して掲載します。
戦後

 マッカーサーラインとは第二次大戦後の日本を占領統治していた連合国軍最高司令部(GHQ)の文書SCAPIN第1033号「日本の漁業および捕鯨に認可された区域に冠する覚書」によって決められた日本漁船の活動可能域の事である。GHQのダグラス・マッ+カーサー最高司令官のなで発せられ、SCAPINによって決定されたことから、この名称で呼ばれることになった。

朝鮮半島南部を軍政統治していた米軍政府は、マッカーサーラインを無原則な線(arbitrary line)としており、確固たる根拠によって惹かれた線ではなかったようである。すなわち、GHQによる統治の都合上設けられたものであり、最終的なそちでもなかった。

サンフランシスコ講和条約締結に伴って廃止されたが、代わって大韓民国大統領 李承晩によって一方的に「李承晩ラインが設定された。

李承晩ラインは1952年(昭和27年)1月18日、韓国初代大統領 李承晩が大統領令「大韓民国隣接海洋の主権に対する大統領の宣言」を公表することにより設定された韓国と周辺國との間の水域区分と資源との主権の保護のための海洋境界線である。日韓漁業協定が締結された1965年(昭和40年)6月22日以降、相矛盾する李承晩ラインは自動的に無効・廃止された。

 昭和22年の神奈川新聞には、小田原蒲鉾組合では、正月用煉り製品配給、資材確保に努力している。配給対象は、小田原・藤沢・川崎の三市民で、薩摩揚げ一人2枚の確保に見通しがついた。出来れば若干でも板付蒲鉾を食膳に送りたいと、資材入手を手配していると報じられ、復興への意欲、小田原蒲鉾の名声回復への努力が伺える。又、底曳き網漁業の操業海域の制限・緩和によって、グチの漁獲量も回復の兆しをみせ、板付蒲鉾も復活し始めた。

    昭和25年以後、製造工程に本格的に機械化が進み、板付蒲鉾の生産高が向上した。ところが韓国が、李ラインを設定して、原料魚のグチの操業海域に制限がしかれたため、昭和29年になると漁獲が減少する事態が起こる。そのため漁獲量は大幅に減少し、魚価は暴騰した。

※   李承晩ライン:1952年1月18日~1965年日韓漁業協定の設立まで

※   昭和42年小田原漁港完成。翌年、小田原魚市場完成、営業開始。

※   昭和51年(1976年)200海里規制制定

小田原蒲鉾の特徴

  1.   身が白く、テリがあって外観がきれい、扇型・末広型・地紙型
  2.   特有の香り
  3.   食べると足(弾力)があって、関西のものに比べて甘い
  4. 空板について: 身の水分を板が調節してくれる機能性、山が高く粘着性がある。板に付けて蒸すので、必要不可欠 空板は、節がなく樹脂が少なく、曲がらず、反らないもの、いやな臭いがなく、脂が出ないもの・・・・モミ・ブナ・エゾマツ・シラベを使用
  5. 普通の蒲鉾   300g~330g  大阪方面は板面に薄く身を付ける
  6. 成分: 一般的には、水分70~80%  ,食塩2~3%  ,タンパク質15%前後 , 脂質2~2.5% <小田原蒲鉾>  水分67~68% , 食塩2.5~2.8% , 糖質15~16%,  脂質ほぼ0% ,粗タンパク質10~11%, 関西(大阪)ものに比べ、食塩少なく糖質多いタンパク質(特にミヨシン・ミヨゲン…食塩に溶けやすく加熱で凝固する)は、食塩 水に溶け込み、魚肉タンパクのコロイド溶液(ゾル)ができる。これを成型し加熱して凝固させると蒲鉾の足ができる。

[小田原の蒲鉾業者について]

  創業者先祖が鮮魚商の例が多い。大正12年の関東大震災後、蒲鉾製造を専業にするようになった。それまでは、冬は蒲鉾屋、夏は鮮魚商。(5~9月行商、10~4月内売、婚礼用祝魚を商う「籠淸」石黒清次郎(文治元年(1864年)4月生まれ)は、小新宿の出で、小野という籠屋のわかれ(米屋兼業)、屋号を籠淸とした。最初は、鮮魚商山田又市氏の市場(明治末、3軒の市場があった)に出入り。山田又市氏の山又をとって商標にした。第4代目組合長。末弟駒吉(大正10年~昭和7年まで7代目組合長)を養子とする。

※ 廃業した蒲鉾業者:日之出かまぼこ・伊勢善・柴田屋・日比藤・日比与・日比栄・小野清・かね春・高源

 


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