ちょっと発表



2016.02.01
7組 斎藤良夫
 団塊スタイル

 NHK Eテレの番組「団塊スタイル」(2016年1月29日放送)に作家の五木寛之氏(83歳)が出演し、83歳現役パワーの秘密や、苦しみの末にたどり着いた死生観などを熱く語っていた。そして、視聴者からのいろいろな質問、例えば「これまでに自慢できることは」の問いに、「そんなものありません----強いて言えばこれまで生きてきたことかな」と答え、また、「何歳まで生きたいですか」という同年代の女性の質問に対して、こんな「長生きのコツ」を披露していた ----。


 「部屋を汚くしておく」「アレを見られちゃ大変だから、片付けるまで死ねない」----NHK・Eテレの番組「団塊スタイル」(2016年1月29日放送)の中で、作家の五木寛之氏(83歳)は、長生きのコツについてこう話していた。視聴者からの「何歳まで生きたいですか」という質問に、「世の中の移り変わりを、一年でも長く見ておきたいという気持ちはある」と、具体的な数値はあげずにこう答えたあと、間をあけるまでもなく、心持、身を乗り出すように語った。

 「----あとネ、ひとつボク、これは奇矯な提案なんだけど長生きのコツというのはひとつあの部屋をネ汚くしておくっていうのは---もう、ボクの仕事場なんてもうホントに信じられないようなもうホントなんていうかゴミ屋敷なんですよネ。下着はあっちこっちに脱ぎ捨ててあるはこれはこうなっているは本はこう崩れかかているは死ぬに死ねないですよネアレを見られちゃ大変だと思うから。やっぱり信号でもネあの赤信号なんか気をつけて渡らないようにするし身体にも気を付けるしだからどんなに苦しい時でもアレを片付けるまでは死ねないというだからあんまりみ、身ぎれいにして死んでもいいというのはダメですヨそれは----」。最後の「(身ぎれいにして死んでもいいというのは) ダメですよ」の口調には力が込められていた。
司会者はあきれ顔で、時には声をたてて笑いながら五木氏の話を聞いていた。私も思わず苦笑しつつ、なぜか<勇気>をもらった気持ちになった。こどものころ母親から「よくオマエは人さまをあんな部屋に入れられるネ」と言われるほど乱雑で、その傾向は今も続いているからだ。後日インターネットで番組の反響をみると、私と同じような投稿を目にし、ちょっと<安心>もした。

 五木寛之氏(1932年9月30日生~)に、私は一度、講演を依頼したことがる。「読売・日本テレビカルチャーセンター」の記念式展のイベントの一つとして、東京・九段会館で話してもらった。その時、演壇というか踏み台の高さやマイクの位置などかなり細かい点まで注文があった。できるだけ話しやすく、聴衆からすれば聞きやすくするためで、講演の中身は失念してしまったが、五木氏のその細やかな配慮に感心し、今も覚えている。

 これは、私が聴衆の一人として体験したことだが、落語家の立川談志師匠(1936年1月2日~2011年11月21日=75歳没)の講演(高座ではありません)で、テーブルの右上に大きく花を盛った花瓶がどんと置かれていた。師匠はそれを抱えるようにして脇にどけて話に入った。師匠からも聴衆からも花が邪魔になって顔が見れないばかりでなく、花が気になって話を聞くのに身が入らないからだ。
最近はさすがにこんな光景は少なくなり、花などの飾りは講師の脇や後ろに置かれるようになった。今回の番組で五木氏の講演風景も紹介されていたが、でっかい花が五木氏とかなり離れた位置に置かれていた。
私は新聞記者という職業柄いろいろな方たちにインタビューをした。会社の応接室や会議室、自宅なら応接間や客間が普通だが、時にはざっくばらんに家族と一緒の居間や自室に通されることもある。読売新聞社会部時代の昔の話だが、ある民法学者はステテコ姿で孫を抱えて取材に応じた。家族が動き回る中、お互い、畳に胡坐をかいでの話だった。

 また、元裁判官のお宅に伺った時、「勲章」が無造作に畳に落ちていた。聞けば、孫のオモチャだという。私は春秋の叙勲にあわせて勲章の特集記事を掲載したことがある。大阪の造幣局まで行った。友人の父親
は、「勲記」とともに勲章を額に入れて居間に飾っていた。それだけに、この裁判官の勲章の扱いには少なからず驚いた。

 この2件の話はともに取材の中身は忘れてしまったが、その光景だけは今も脳裏に焼き付いている。居間、特に自室で取材していると、これまでの著書や話だけからでは分からない、その人の姿が見えてくる。
部屋が乱雑だったという思い出は1件ある。「添田知道」氏(1902年6月14日~1980年3月18日=77歳没。演歌師、作家、評論家)に「香具師」についての取材で都内の自宅に伺った時だ。1階六畳間(平屋だったかもしれない)に本や資料が山と積まれ、その真ん中に文机が隠れるようにしてのぞいていた。わずかばかり残された畳のヘリに座って話を聞いた。「歌謡史の原稿を台湾に送ったのだが紛失してしまった。残念でならない」と嘆いていた。膨大な量だったらしい。今のようにコピーをとっておける時代ではなかった。

 添田氏の取材では、この部屋の様子と行方不明になった歌謡史原稿の話が印象に残っている。後年、添田氏の遺稿などは神奈川近代文学館に寄贈された。文学館の作家記念展に足を運んだことがあるが、その整然とした展示をみて、あの膨大な資料を整理した関係者の苦労がしのばれた---。

 さて、我が家。本や資料の量は五木氏とは到底比較にならないほど少ないが、「汚れ」というか「乱雑さ」においては多分ヒケをとらないだろう。声を大にして言うべきものではないことはわかっているし、家人たちから後片付けを迫られているのが現状だ。二つのがん手術、胃がんによる胃の全摘から6年目、前立腺がんの放射線手術から5年目。この1月31日に節目の満75歳を迎えた。家の中を見回し、いくつかの部屋の現状を見る限り、五木氏の言葉を借りるなら、私はまだまだ生き続けなければなさそうだ----。



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