ちょっと発表



2016.02.03
7組 斎藤良夫
 「平壌脱出記」の感想と一言

 松永長雄氏の「平壌脱出記・港町の一団」その1の「運命の賽」を興味深く、また重い気持ちで拝読しました。
 先ずお聞きしたいのは、松永長雄氏は何時お生まれなのですか、そして、執筆後はどうなされていたのですか。
 経歴の中に「平塚学園」の項がありました。友人で現在平塚学園で事務を担当している剱持雅章氏(国府津在住)に松永氏がどんな方でしたのかお聞きしました。
 また、このWeb誌にも掲載頂いた作家、五木寛之氏は、やはり引揚者で、テレビ番組の中でその体験が紹介され、合わせて母親の遺髪をガンジス河に流す映像がありました。ここでは、西日本新聞のインタビュー記事を使用させてもらいました。

 剱持雅章氏からのメールです

 「なお、剱持氏は国府津出身の画家「安藤軍治」画伯の遠縁で安藤作品のコレクターでもあります。最近入手した安藤作品も紹介します。

            

 「斎藤良夫様
ご無沙汰しておりま す。松永先生についは、私が奉職した年に退職なされましたので、直接お話したことはありませんが、他顧問先生と同様、授業よりも、主な仕事は先生の指導的立場だったように思えます。たとえば研究授業の指導等。先生方々から尊敬されている先生です。顧問の先生は私が若い時には、お話しすることもはばかられる存在の方々でした。
安藤画伯の作品画像をお送りします。2月14日に、寄り合い処で蓄音器の会をしたいと思っています。もしかしたら、小田原市主催の蓄音器を聴く会を開催した、村田さんが都合がつけば、特別の蓄音器を持ってきていただけるとの連絡が入りました。もし実現できればすばらしいと思っています。小田原市のホームページにのっています。タウンニュースにも紹介されています。劔持」

 


 五木寛之氏のインタビュー記事です。(戦後70年の証言「引き揚げ極限の生」=2014/12/04付西日本新聞朝刊=五木氏の両親はともに教員で師範学校の宿舎で暮らしていた。ソ連軍が侵攻してきた時の状況です。
「《ソ連兵に自動小銃をつきつけられて、裸の父親は両手をあげたまま壁際(かべぎわ)に立たされた。彼は逃げようとする私を両腕で抱きかかえて、抵抗するんじゃない!と、かすれた声で叫んだ。悲鳴のような声だった。ソ連兵の一人が、私をおしのけて裸の父親のペニスを銃口で突っついた。そして軽蔑(けいべつ)したようになにかを言い、仲間と大笑いした。
 それから一人が寝ている母親の布団をはぎ、死んだように目を閉じている母親のゆかたの襟もとをブーツの先でこじあけた。彼は笑いながら母の薄い乳房を靴でぎゅっとふみつけた。そのとき母が不意(ふい)に激しく吐血(とけつ)しなかったなら、状況はさらに良くないことになっていただろう。
あのとき母の口からあふれでた血は、あれは一体(いったい)、なんだったのだろうか。病気による吐血だったのか。それとも口のなかを自分の歯で噛(か)み切った血だったのか。まっ赤(か)な血だった。》=エッセー集『運命の足音』(2002年)」。
 五木氏の話によると、ソ連兵は吐血した母親に驚き、布団ごと母親を外に投げ出したという。裸の父と私は何もできずに見守っていただけという。五木氏は当時朝鮮の旧平壌第一中学校1年生、終戦時は12歳だった。母はこの後、何も語らず、食事も拒み、その年の9月20日、41歳で亡くなったという。
「あの日がいつだったか、史料とも突き合わせてみるが、はっきりしない。大声で何か叫んだ記憶がある。母さんだったか。お父さんと叫んだ気もする。幼い弟と妹がどこにいたのかも記憶がない。フラッシュ撮影のように一瞬、鮮明になったり、消えたりする。
長い間、忘れよう忘れよう、記憶から消そうと、努めてきたことです。自分をえぐって書いたものですからね。あれがもう、最初で最後です」。
 五木氏はその後母親の遺髪を長い間持ち歩き、そして、ガンジス河に流した。松永長雄氏の記事に添付された平壌市内を流れる「大同江」(Taedoggong)は、五木氏の記憶と一体になっており、この母親の記憶が五木氏の「死生観」の原点になっていると話していました。
なお、下記にインタビュー記事の全文を掲載します。




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