栃木県南東部にも「二宮町」がありますが、これは「湘南・二宮町」の姉妹都市でも「二乃宮」がらみでもなくて、小田原出身の二宮尊徳(金次郎)に因んだ町名です。江戸時代の後期に小田原藩主大久保忠真の命により、37歳であった尊徳が疲弊し荒れ果てた桜町(現在の二宮町物井)に赴いて、疲弊した領内を復興させたのだそうです。そのせいか、江戸時代には小田原藩の領地になっていたこともあるそうですから、栃木県の「二宮町」は、寧ろ、二宮尊徳つながりの小田原市の姉妹都市なのかもしれません。しかし、「二宮」を町名に冠させるというのですから、尊徳の偉業と人徳の程は推して知るべきかと思えます。迷著「さくら狩人…福島ふとどき風土記」(http://www4.ocn.ne.jp/~daimajin/SakuraFukushima-a.htm)にも次のような一節があります。「二宮」の名前を冠してこそいませんが、“二宮尊徳つながりの小田原市の姉妹都市”が随所にあるものと思われます。
二宮尊徳がなぜ相馬なの?
「中村城」は一名「馬陵城」とも呼ばれるのだということが初めて分かりました。(中略)なおも、城址の散策を続けていますと、「二宮尊徳と相馬の仕法」と書かれた看板が目に入りました。あれれ、二宮尊徳は我が故郷・小田原ゆかりの人のはず。お堀端から程近いところに二宮神社があって我が母校・本町小学校(現在は城内小学校と併合して三の丸小学校)の校歌にも「♪♪♪二宮神社の銀杏の若葉♪♪♪」という一節があったはず。書かれているところによれば、相馬藩が財政上の危殆に瀕していた時に二宮尊徳の説く「興国安民の法」(これを相馬では「御仕法」と呼んだ由)を採用したことが相馬中村藩の人々に生きる力と光を与えたのだそうです。
♪♪♪手本は二宮金次郎♪♪♪
二宮尊徳の方法とは、単なる農村の改良などという程度のものではなく、広い世界観と人生観の中から生まれた得を以って得に報いる「報徳」というおおらかな指導理念に基づくものだったということです。理念に基づいて確固たる指導方針を打ち出した政府コンサルタント(二宮尊徳)も偉ければ、それを率先して採り入れ徹底して実践した地方公共団体の首長(相馬藩主)も同じく偉かったのだと思います。翻って、ポピュリストの小泉サンが説き、竹中先生がコンサルタント役を務めておられるカイカク路線に理念らしいものが感じられるでしょうか。同じくポピュリストで「脱ダム宣言」で名を売った田中康夫クンに率先垂範して実践する力と意欲はあるのでしょうか。やはり日本人の「♪♪♪手本は二宮金次郎♪♪♪」。「興国安民の法」、これじゃないかな、今の日本に求められているのは。小泉サンも靖国神社なんて参拝していないで、小田原の二宮神社に勉強にいらっしゃいよ。 |
実際に、2012/7に「小田原のこころを届けるプロジェクトに加わって津波の被災地相馬を訪れた時、相馬はらがま朝市の仮設店舗の建屋の中に、農産物直売所と隣接して「喰う処・報徳庵」というのがあったので驚きました。ここでも二宮尊徳は、農村復興政策や藩財政再建策を打ち立てて指導し人々を幸福にさせていたわけです。それが現在の相馬市民の二宮尊徳を敬う心につながっているものと思われます。実際、相馬市民憲章に「報徳の訓えに心をはげまし うまずたゆまず 豊かな相馬をきずこう」という1項があるそうですし、地元の人の口からも「尊徳先生」という尊称がしばしば出てきていました。報徳意識が定着している相馬で「喰う処・報徳庵」と命名されるのは寧ろ当然だというような気がして、逆に、二宮尊徳を輩出した小田原の市民の報徳意識はどうなっているのか大いに気になりました。