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2014.03.18    3組 佐々木 洋

さくら狩人・湘南桜錯乱物語  Part 2〜5

Part 2   二宮・吾妻山公園  (探訪日:2013/3/22   


枝垂れ桜の御出迎え
「吾妻山」と言えば、なんといっても、山形県と福島県にまたがる「吾妻連峰」が有名で、その最高峰の「西吾妻山」は標高2,035mありますが、ここ湘南・二宮町の「吾妻山」は標高136.2mの小ぢんまりした山です。
しかし、山高きが故に貴からず、“低きが故に卑しからず”で、ここに二宮町がしつらえた「吾妻山公園」を訪れた私は大いに心を癒されました。吾妻山公園入り口まではJR二宮駅北口より徒歩で僅か約5分。早くも枝垂れ桜が顔をのぞかせて私を迎えてくれました(右の写真)。
 


“湘南の壁絵”大山が見えてきた
 公園入り口から階段を上っていくと、枝垂れ桜の遥か向こうに大山が見え(下写真左)、更に行くとソメイヨシノと木々の緑の先に大山の姿が大きく見えてきます(下写真右)。丹沢山塊に属していて標高1251.7mの大山は、「丹沢の山高さベスト10」にも入っていませんが、これも“山低きが故に卑しからず”で、静かに孤高を保っている姿は端然としており、もし、「銭湯湘南」でもあったら、その壁絵は富士山ではなくて、大山にしたいくらいです。
 

路傍を飾るヒザクラたち
 路傍には、レンギョウにスイセン(下写真左)やナノハナ(下写真右)などのヒザクラ(緋桜ならぬ非桜)たちが咲き競って心を癒してくれていました。この他にタンポポやヤマブキ、エニシダなどもあり、日本の春に咲くのは黄色い花が多いですね。遠くマルコポーロの昔から日本が「黄金の国」と呼ばれたのは、そう評した西欧人が春の日本を訪れたからに違いありません。しかし、ここ吾妻山では、5月にはツツジ、6月にはアジサイ、7-8月にはコスモスと四季折々色とりどりの“ヒザクラ”たちが咲くのだそうです。こんなところにも二宮の人々の、さりげないオ・モ・テ・ナ・シの心が感じられます。
 


オープンでフラットな憩いの場
 吾妻山の山頂部分は、フラットな芝生広場になっていて、何を象徴しているのか何やら趣のある木がポツンと立っています(右の写真)。私が登ってきた二宮町役場近傍の「役場登り口」から約700mですから約20分で到着することができます。オープンで視界が開けていて、爽やかな空気が漂う芝生広場は、休日になると家族連れや若者たちでにぎわう二宮町民の憩いの場になっているようです。周辺に植えられているソメイヨシノが目の高さにまで咲き揃って私を迎えてくれました(下の左右の写真)ので、私も憩いの一時を満喫することができました。
 
 
     

最大の売りは「360度の大パノラマ」
 しかし、吾妻山公園の最大の売りはなんと言っても「360度の大パノラマ」です。南方を眺めれば、穏やかな相模湾の先に伊豆の山々が見渡せ、よく晴れた日には大島や利島、初島も見ることができるそうです(下の左右の写真)。一方、山側には、大山から連なる丹沢山塊と箱根連山を一望でき、見晴らしの良い時には、箱根山地と丹沢山地の間に広がる足柄山地の矢倉岳の富士山まで手に取るような近さに感じられるのだそうです。また、相模湾の海岸線と平行するように西湘バイパス・国道1号(東海道)・東海道本線が東西に横断しているのが見え、北部には大磯丘陵(大磯地塊)とよばれるなだらかな丘陵地の中に東海道新幹線と小田原厚木道路が見え隠れしています。こんな海山の自然と人工の交通網の眺望を兼ね備えているところは、標高2,035mを誇る「東北の吾妻山」とて太刀打ちできるところではなく「湘南の吾妻山」ならではのものだと言えましょう。
 

「吾妻山」らしく“東”屋もしつらえられており(下左の写真)、その近傍では“ヒザクラ”のレンゲツツジが鮮やかな彩りを添えていました(下左の写真)。
 


二宮町民の“吾が妻”だったのだ
 帰路は、浅間神社と吾妻神社の前を通って「梅沢登り口」に降りました。昔ながらの参道だそうで山頂から約500m、そして、ここから東海道線のガードをくぐれば梅沢海岸ですから、吾妻山は相模湾岸の山であったということが改めて良く分かります。
 「吾妻宮」は小ぢんまりした吾妻山にふさわしく小ぢんまりしていますが、どこか瀟洒な感じがする神社です(右の写真)。ここで私は「吾妻山」の名前の由来が、日本武尊(やまとたける)がその妃の弟橘媛(おとたちばなひめ)の亡骸を山頂に埋めた時に「吾妻はや」と嘆いたことにあり、この吾妻神社はその弟橘媛を祀ったものだということを知りました。先ほどからら大切にされ愛されている様子がそこはかとなく伝わってきていたのですが、吾妻山は二宮町民の心の“吾が妻”になっているのかもしれません。
 



二宮のあれこれ

「中郡」のイメージを代表

 二宮町が隣の大磯町とともに構成するのは神奈川県「中郡」ですが、これは、戦国時代に小田原を拠点に関東地方を支配した後北条氏は、相模国を西郡(足柄地域)、中郡(相模川以西)、東郡(相模川以東)、三浦郡(三浦半島)に分けて統治した名残だそうです。その中郡から秦野市や伊勢原市が分離独立していったので“現在の中郡”は“往時の中郡”の南部に当たることになります。いまどき「郡」と言えば“田舎”とか“目立たない土地柄”というイメージが伴いがちですが、隣の大磯町には「高級住宅地」というイメージを伴ったネームバリューがあるのに対して、この二宮町は確かに知名度の点でイマイチイマニの感が否めません。箱根駅伝の時には二宮町内の国道1号線沿道をランナーが走るのですが、心なしか「二宮」の名前が画面に映し出される機会も少ないようですし、大磯町と違って“湘南の地”として喧伝されていることもありません。その意味では二宮町が「郡」のイメージを代表しているようです。面積も神奈川県内では開成町、真鶴町に次いで3番目に狭いのだとか。吾妻山に似て“小ぢんまりした町”と言えそうです。

「神奈川二中」というが如し
 「二宮」の名前は、町内にある川勾(かわわ)神社が「相模国二之宮」と呼ばれることに由来しています。因みに、一之宮は寒川神社(寒川町)、三之宮は比々多(ひびた)神社(伊勢原市)、四之宮は前鳥(さきとり)神社(平塚市)。これに相模国の五之宮ではなくて一国一社の八幡宮として別格扱いされる平塚八幡宮と、相模の国の国府(今の県庁)が置かれた柳田郷(現在の大磯町国府本郷)の柳田大明神の合計6か所の神社を合わせ祀る相模国総社(「国府六所宮」)として六所神社が開設されたようです。ですから、「二宮」は、旧制中学校のナンバースクールとして、一中(現在の希望ヶ丘高校)、三中(現、厚木高校)、四中(現、横須賀高校)と並び称された「二中」(現、小田原高校)のようなものです。しかし、“教えることは学ぶこと”ですが、“書くことも学ぶこと”ですね。この駄文を書くに当たって改めて我が母校の由来をインターネットで調べてみたところ、「藩校諸稽古所→集成館→文武館→小田原学校文武館→小田原講習所→ 六郡共立小田原中→神奈川県二中→神奈川県立二中→神奈川県立小田原中→神奈川県立小田原高→(小田原城内高と統合・改編)神奈川県立小田原高等学校」とありました。「文武館」と言えば、我が生地の箱根口の我が母校の本町小学校(現、三の丸小学校)の並びにあったあの「文武館」なんでしょうね。確かに柔道の稽古が盛んに行われていましたが、小田原高等学校の系譜にかかわっていたとは思いもよらぬことでした。

「長寿の里・二宮」は詐称(?)
 二宮と言えば「長寿の里」と幼少のころから聞いていましたが、2008年4月の厚生労働省発表の統計によると、全国市区町村別平均寿命の男性長寿全国1位は同じ神奈川県でも横浜市青葉区の81.7歳。神奈川県民全体の平均寿命は、2005年のデータによると男79.5歳で女86.0歳だそうですから、二宮町民の平均寿命の男79.6歳、女86.1歳は、男女ともほぼ神奈川県の平均レベルだということになります。このため「二宮は“長寿の里”じゃなくて“凡寿の里”だ」とか「町内に若い人が少ないっていっているだけのことじゃないのか」などと自嘲されている二宮町民もおられるようです。2000年の国勢調査時に3万人以上あった二宮町の人口は21世紀に入ってから減少傾向にあり、2009年3月1日現在29,597人に減少しているそうです。しかし、“田舎”を求めて“都会”から“外来民族”が流入してきて人口が増加する以前の二宮は、もっともっと小ぢんまりした町であって、“二宮原住民”の皆さんが、ここで長寿生活を謳歌されていたからこそ「長寿の里」の異名が付けられていたのではないでしょうか。黒潮の流れる相模湾に面している上に、海際まで迫ってきている山が大山降ろしを防いでいるため、冬も比較的に暖かい温暖の地である二宮町の土地柄を見ると、“二宮原住民”の皆さんが心穏やかに日々を過ごされてきた様子が垣間見られ、「長寿の里」はあながち詐称ではないように思えます。

ソッポの方の二宮町

 栃木県南東部にも「二宮町」がありますが、これは「湘南・二宮町」の姉妹都市でも「二乃宮」がらみでもなくて、小田原出身の二宮尊徳(金次郎)に因んだ町名です。江戸時代の後期に小田原藩主大久保忠真の命により、37歳であった尊徳が疲弊し荒れ果てた桜町(現在の二宮町物井)に赴いて、疲弊した領内を復興させたのだそうです。そのせいか、江戸時代には小田原藩の領地になっていたこともあるそうですから、栃木県の「二宮町」は、寧ろ、二宮尊徳つながりの小田原市の姉妹都市なのかもしれません。しかし、「二宮」を町名に冠させるというのですから、尊徳の偉業と人徳の程は推して知るべきかと思えます。迷著「さくら狩人…福島ふとどき風土記」(http://www4.ocn.ne.jp/~daimajin/SakuraFukushima-a.htm)にも次のような一節があります。「二宮」の名前を冠してこそいませんが、“二宮尊徳つながりの小田原市の姉妹都市”が随所にあるものと思われます。

二宮尊徳がなぜ相馬なの?

「中村城」は一名「馬陵城」とも呼ばれるのだということが初めて分かりました。(中略)なおも、城址の散策を続けていますと、「二宮尊徳と相馬の仕法」と書かれた看板が目に入りました。あれれ、二宮尊徳は我が故郷・小田原ゆかりの人のはず。お堀端から程近いところに二宮神社があって我が母校・本町小学校(現在は城内小学校と併合して三の丸小学校)の校歌にも「♪♪♪二宮神社の銀杏の若葉♪♪♪」という一節があったはず。書かれているところによれば、相馬藩が財政上の危殆に瀕していた時に二宮尊徳の説く「興国安民の法」(これを相馬では「御仕法」と呼んだ由)を採用したことが相馬中村藩の人々に生きる力と光を与えたのだそうです。
♪♪♪手本は二宮金次郎♪♪♪
二宮尊徳の方法とは、単なる農村の改良などという程度のものではなく、広い世界観と人生観の中から生まれた得を以って得に報いる「報徳」というおおらかな指導理念に基づくものだったということです。理念に基づいて確固たる指導方針を打ち出した政府コンサルタント(二宮尊徳)も偉ければ、それを率先して採り入れ徹底して実践した地方公共団体の首長(相馬藩主)も同じく偉かったのだと思います。翻って、ポピュリストの小泉サンが説き、竹中先生がコンサルタント役を務めておられるカイカク路線に理念らしいものが感じられるでしょうか。同じくポピュリストで「脱ダム宣言」で名を売った田中康夫クンに率先垂範して実践する力と意欲はあるのでしょうか。やはり日本人の「♪♪♪手本は二宮金次郎♪♪♪」。「興国安民の法」、これじゃないかな、今の日本に求められているのは。小泉サンも靖国神社なんて参拝していないで、小田原の二宮神社に勉強にいらっしゃいよ。

 実際に、2012/7に「小田原のこころを届けるプロジェクトに加わって津波の被災地相馬を訪れた時、相馬はらがま朝市の仮設店舗の建屋の中に、農産物直売所と隣接して「喰う処・報徳庵」というのがあったので驚きました。ここでも二宮尊徳は、農村復興政策や藩財政再建策を打ち立てて指導し人々を幸福にさせていたわけです。それが現在の相馬市民の二宮尊徳を敬う心につながっているものと思われます。実際、相馬市民憲章に「報徳の訓えに心をはげまし うまずたゆまず 豊かな相馬をきずこう」という1項があるそうですし、地元の人の口からも「尊徳先生」という尊称がしばしば出てきていました。報徳意識が定着している相馬で「喰う処・報徳庵」と命名されるのは寧ろ当然だというような気がして、逆に、二宮尊徳を輩出した小田原の市民の報徳意識はどうなっているのか大いに気になりました。

“日本一の二宮” に
 しかし、“二宮尊徳つながりの小田原市の姉妹都市”である栃木の「二宮町」は、2009/3に真岡市に編入されました。これのよって、湘南の「二宮町」が、日本で唯一の「二宮」を名乗る自治体となったわけです。相変わらず「小田原以東の東海道線の駅前の中でなぜか二宮駅前だけはマンションがほとんど建たない」だの「町内に5階建て以上の建物がほとんどない」だの 「大手企業や大手チェーン店が少なく在来の商店街も流行っていない」などといった自嘲の声が呟かれていますが、せっかくOnly 1の「二宮」になったのですから、SMAP「世界に一つだけの花」の♪NO.1 にならなくてもいい もともと特別な Only one♪に倣って、諸々のあげつらわれている弱点を逆手にとって、“こぢんまりした吾妻山”を擁する「世界に一つだけの“こぢんまりした癒しの町”」への道を進んでほしいものだと願っています。





Part 3   渋田川河畔(平塚市)&金目川(花水川)河畔(大磯町)  (探訪日:2013/3/24)   
渋田川河畔の桜並木

両岸を彩る高密度なソメイヨシノ
 平塚市から程近い辻堂に住んでいながら「渋田川」の名前を知ったのは、SGテニスクラブの長老格の吉川正芳さんから「渋田川の桜は見事なもんじゃよ」とお聞きしてからのことでした。それ以降、平塚市真土にある「大塚山公園」は、真土大塚山古墳を模して再現した古墳のある素敵な公園ですが、そこから程近い西真土にお住まいの吉川さんから、ご自分で歩いて行って観賞されてき桜の様子をお聞きするにつれ、「いずれは行ってみなくちゃ」と思い続けてきたものでした。そして、その「いずれ」が本日ようやく、週末恒例の大磯城山公園テニスコート詣での“行きがけの駄賃”のような形で実現することになりました。「大塚山公園」の横を通って、渋田川河畔に着いたのが7:30a.m.ちょい過ぎ。2級河川だということで、川幅こそ細いのですが両岸にソメイヨシノがかなりの“木密度”で立ち並んでいます(下の上段の写真)。ただ、桜の木の数が多いというだけではなくて、近づいてみると、個々の桜の“花密度”も高いということが良く分かります。(下の上段の写真)
 
 
 

 

爽やかなアクセント添える小米桜
 右を向いても桜、右を向いても桜の桜一色の光景(下の上段の写真)の中に、白さを際立たせて咲いているユキヤナギ(雪柳)の姿が見えました(下の下段の写真)。「万緑叢中紅一点」は“ひときわ目立つこと”を意味する表現ですが、「万桜樹中白一点」もまた捨てたものではなく、文字通り雪のように白い花が爽やかにアクセントをつけてくれていました。そういえば、ユキヤナギ(雪柳)の別名はコゴメザクラ(小米桜)でした。「そうか、これも“桜”探訪のうちか」と妙なところで納得してしまいました。
 
 
 


上流には華やかな芝桜も
 この渋田川は、伊勢原市日向の大山の麓から流れ出して、平塚市と大磯町の境となる金目川に合流しています。
そして、4月の上旬から中旬になると、 伊勢原市を流れる渋田川の上流の両河畔にはシバザクラ(芝桜)が咲き乱れるのだという話を後になって聴きました。次の写真は伊勢原市のホームページから借用してきたものですが、確かに、渋田川の岸辺をピンクと白で彩るシバザクラ(芝桜)は“本家の桜”よりも華やかに見えます。「いずれは行ってみなくちゃ」という“桜”探訪のポイントがまた一つできてしまいました。
 


金目川(花水川)桜並木

“ブランド山”高麗山の麓を起点に
 大磯城山公園でのテニスを終えて、今度は大磯町高麗に向かいました。ここは、小田原高校の後輩でSGテニスクラブの会長をしている松並壯クンの縄張りです。先輩から“さん”付けで呼ばれることをきらうこの人は、「松並」などというしおらしい名前を名乗っていますが、並みいる日本人の中でも超ユニークな性格の持ち主で、「奇人」や「変人」などといったありきたりの言葉ではとても表現し尽くすことができません。そして、なかなかの一家言(時々、“いい加減”じゃないかと思うこともあるのですが)でもあります。例えば、松並一家言によると、この「高麗(こま)」という地名は、その昔朝鮮半島北部にあった高句麗の滅亡とともに難をのがれた人達が船で渡来し、大磯に上陸して居着いたことに由来しているのだそうです。
 下の左右の写真の背景に写っている「高麗山(こまやま)」は、大磯丘陵の東端に位置している標高僅か168mの山ですが、これを“ま抜け”扱いにして「小山(こやま)」などと呼んだりしたら、往年の朝鮮渡来人の罰が当ろうというものです。実際に、この高麗山は、広葉樹の自然林が残っていることもあって、「21世紀に残したい日本の自然100選」に選ばれており、古くは歌川広重も『東海道五十三次』の「平塚宿」にこの姿を描いています。
 そして、午後の金目川(花水川)沿いの桜狩りは、この“ブランド山”の高麗山の麓を起点として始まり、松並壯クンとテニス仲間で小田高先輩後輩の介護役として加わった三井美奈ちゃんとのMMコンビが行をともにすることになりました。
 


“花見ず川”だったとは!
 「金目川(かなめがわ)」は、秦野市の大山南西斜面に源を発し、秦野盆地を南東方向に流れて平塚市に下り、平塚市内では北西から中央部を流れて唐ヶ原(とうがはら)で相模湾に注いでいます。この川の名称は、中流部に位置する旧金目村(現、平塚市金目地区)に由来しているそうですが、このように「金」の付く地名がこのあたりに多いのは、松並一家言によると、朝鮮からの渡来人に「金」姓が多かったことによるのだとか。なお、金目川は、平塚市徳延付近で、午前中に桜狩りをした渋田川と合流していますが、「“金目川の流路のうち”、平渋田川との合流点から相模湾に注ぐ河口までの約2.5kmの間を“花水川”と呼ぶ」とありますから、ここでは「金目川(花水川)」という曖昧な表現を使わざるをえません。そして、この「花水川」の名の由来は、単純に「岸辺に桜が多いことによる」とする説の他にもいくつかあるようですが、私は「鎌倉時代、桜の名所であった高麗山に源頼朝が山桜を見物に来たが前夜の春の嵐で散ってしまい、花を見ずに帰ったことから花みず川となった」というダジャレっぽい説を支持したいと思います。しかし今日のところは、以下の写真のように、“花を見ず”どころか、花に満つ“花満川”の光景を心ゆくまで堪能することができました。

 
     
 
     
 
     
 
     
     
 
     
 
     
 


大 磯 物 語

大磯には大磯がない
 「湘南の発祥の地」とも「海水浴場発祥の地」ともされている大磯ですが、松並一家言によると、この「大磯」も韓国語の「オイッソ」に由来しているそうで、「大磯には大きな磯がない」というのがその論拠になっています。「オイッソ」の方は一家言じゃなくて“いい加減”なんじゃないかとマユツバしてインターネット・サーフィンをしまくってみたところ、韓国語教師をされている方が、「オゴ イッソヨ」は「来よる)」に当たると何故か博多弁に翻訳されている文章が見つかりました。一方の「大磯には大きな磯がない」については、「磯」を広辞苑で引いてみると、「海・湖などの水際、特に石や岩の多い所」とありました。確かに、大磯港に隣接した照ヶ崎海岸に狭い岩礁があって、丹沢山の深い森で繁殖しているアオバトが海水を飲むためここまで来るので有名ですが、決して「大きな磯」ではありません。ですから、「大磯」を文字通り解釈すると「オオイソ」ではなくて「オオウソ」ということになってしまいそうです。
more“丘陵の里”than “海浜の街”
「大磯」と言えば、南に相模湾に面ししていて、漁港がある上に砂浜が長く広がっており、カリフォルニア州南部の港湾都市「ロングビーチ(Long Beach)」を模したか「大磯ロングビーチ」が海浜に立つ大磯プリンスホテルに併設されていることもありますので、“海浜の街”というイメージが強いように思えます。しかし、実際には、丘陵地帯が町域面積の6割を占めていて、特に、町の東西を貫通し町域を南北に二分する東海道線の北側は我らがテニスのアジトである大磯城山公園も含めて“丘陵の里”になっています。そして、高麗山を東端とする大磯丘陵(大磯地塊)が二宮町を通って小田原市内にまで達しています。温暖にして、山あり海ありの大磯は、格好の避暑・避寒地として注目され、明治中期から昭和初期にかけて、伊藤博文や、山縣有朋や西園寺公望、大隈重信、陸奥宗光、岩崎弥之助、安田善次郎といった政財界要人の別荘が多く建てられるようになり、明治40年(1907年)頃の大磯には150戸以上の別荘があったと言われています。また、大磯に保養所や研修所を設ける企業も多く、わららがSGテニスクラブのアジトとなっている大磯総合公園も、旧三井財閥の別荘跡地が県立公園として整備されたものだそうです。
神奈川県西部のミッドフィルダ―
 ワンマン宰相として有名な吉田茂が大磯に転居してきたのは首相退陣後のことでしたが、晩年も政界への影響力を保持していたため、「大磯」は吉田茂を示す別称ともなっていました。小田原から大磯に至る西湘バイパスや、大磯を通る国道1号(東海道)は、東に向けて平塚市、茅ケ崎市、藤沢市を通って、ワンマン吉田茂のために開設された横浜市戸塚のワンマン道路に続いています。
別荘地となる以前の大磯が、宿場町として栄えていたというのも、大磯が古来、交通の要路としての立地条件に恵まれていたことを示しているようです。慶長5年(1600)の関が原の合戦に勝利をおさめた徳川家康は、慶長6年には東海道に宿駅の制度を設けて、その整備を行ない、次いで慶長9年には一里塚をつくり、街道筋にはマツやエノキなどが植えられたそうです。鎌倉時代は古東海道の宿駅であった大磯が東海道の宿場町として栄え、一層交通の要路としての重みを増してきたものと思われます。
更に時代を遡った中世に、相模国の国府が置かれていたということも同様に、大磯の交通の便がもともと良かったということを裏書きしているように思えます。大磯プリンスホテルあたりの地名に「国府本郷」という地名が残っており、相模国の総社として相模の国のナンバー寺社を統べる六所神社の「国府祭(こうのまち)」もこの国府本郷地内にある神揃山(神集山)で毎年行われています。神様たちもきっと足の便が良い大磯に集まりやすいのでしょう。
慶長年間に植えられたものと思われる大磯の松並木の東海道を走って、平塚と小田原の間でタスキをつなぐ箱根駅伝のランナーの姿を見ていると、大磯が神奈川県西部のミッドフィルダ―なのだということが良く分かるような気がします。

 

Part 4  鎌倉山&源氏山公園・葛原岡神社(鎌倉市)  (探訪日:2013/3/25)   
鎌 倉 山
「さくら道」を行く
 鎌倉山は、鎌倉市の西部に位置していて、北は笛田、西は手広・腰越・津、南は七里ヶ浜・稲村ヶ崎、東は極楽寺に接しています。いかにも“鎌倉市を代表する山”であるかのような仰々しい地名がつけられていますが、実際は、標高100m程度の裾の広がったなだらかな丘陵地帯で、ほぼ全域が山林となっています。しかし、七里ガ浜側からの坂道を登り切ったところからは、七里ヶ浜の海や江ノ島、更に逗子マリーナを見渡すことができるそうです。鎌倉山には国道や県道が通っていないので、神奈川県道32号藤沢鎌倉線常磐口交差点から笛田を経由して市道大船・西鎌倉線に合流する約3kmほどの市道(さくら道)を登っていくと、道路沿いを中心に住宅が点在していて、路傍の満開のソメイヨシノが私を迎えてくれました(下の写真)。

 
 
 

 

「高級別荘地」途上地であった
 この地が「鎌倉山」と呼ばれるようになったのは昭和初期だそうです。大正15年に「大船-江の島自動車専用道路」建設が政府から許可されると、日本自動車道株式会社が設立され、その副業として沿線地の開発が始められて、深沢村(現鎌倉市深沢地域)裏の、景観の良いこの丘陵が別荘地として開拓され「鎌倉山」と名づけられたのだとか。電線の地中化など高価格となるような施設工事は行われること無く坪単価は安かったのですが、分譲にあたって「大船~鎌倉山~江ノ島間を結ぶ自動車専用有料道路による東京への好アクセス」、「上水道・電気・電話完備」などの利点が強調され、さらに最低分譲区画を500坪としたため「高級別荘地」のイメージがアピールされ、近衛文麿、藤原義江、田中絹代など政財界・芸能界の著名人もこの鎌倉山の別荘の住人となったそうです。しかし、一般の別荘地分譲販売が全くはまったく振るわなかったため、別荘地開発事業は失敗に帰し、戦後、別荘の多くが進駐軍に接収されてさびれたこともあって、高度成長期以降に今度は住宅地として再開発されたのだそうです。現在も“高級”住宅地のイメージがあり、かつての別荘に店舗を構えた「ローストビーフの店 鎌倉山」や、これも元料亭を広大な回遊式庭園付きの料亭に変えた、そばと会席料理の店「鎌倉山 檑亭(らいてい)」などの鎌倉山ならではの高級イメージの店や料亭があります。

 

山のテッペンの運動公園
 鎌倉山の頂上部分に、鎌倉市で唯一の本格的な運動公園である笛田公園があります。普通は、 運動公園というと普通平地にあるものですが、 鎌倉市には平地が乏しく、しかも、平地では彫り進めていくと、保護を擁する文化財などの遺物が発掘されて、地盤整備事業が中断される恐れがあるからなのでしょうか、このような丘陵地に運動公園が設けられたものと思われます。しかし、それだけに、見晴らしの良い日にはここから富士山を眺望することができるそうですから、サッカーや野球などのスポーツに疲れた鎌倉市民も目を癒すことができそうです。
 

 

源氏山公園・葛原岡神社
「いかにも源氏」で「いかにも山」
 源氏山公園に入っていくと、源頼朝像があり(下左の写真)、山並みの眺望もできますので(下右の写真)、どこが鎌倉でどこが山なのか皆目見当がつかない鎌倉山と違って、「いかにも源氏」で「いかにも山」という感じがします。「源氏山」の名前は、奥羽を舞台とする後三年の役(1083-1087年)で八幡太郎義家が出陣するときに、この山上に源氏の白旗を立てて戦勝を祈ったことに由来していて、別名「白旗山」または「旗立山」と呼ばれたこともあるそうです。

 
 
 


源氏山と美を競う葛原岡神社
 源氏山公園は、北鎌倉、大仏へぬけるハイキングコースのルート上にあり、近くには葛原岡神社、銭洗弁天や佐助稲荷があるということは知っていました。そして、行き帰りの車窓から銭洗弁天があるのは確認することができたのですが、葛原岡神社との出遭いは実は偶然によるものであり、源氏山公園からの帰途に道に迷った結果でした。我が愛車Airwaveは、走行距離10万キロ超で、桜ならウバザクラですが、若いソメイヨシノとの思わぬ出遭いにより、心なしか元気ばかりでなく元気まで取り戻したように見えました(右の写真)。葛原岡神社の名前は、このあたりの地名「葛原岡」に由来し、南北朝時代に南朝の後醍醐天皇に仕えた日野俊基が祀られています。鎌倉幕府討幕のための謀議に加わったことによって葛原岡で処刑された日野俊基を祀る神社がなぜ明治21年になってから、源頼朝の像がある源氏山公園と隣接したこの葛原岡に創建されたのか
 
疑問でしたが、明治維新後、南朝(吉野朝廷)が正統とされ、日野俊基が倒幕の功労者として評価されるようになったからだと分かりました。 現在は、源頼朝の源氏山公園が南、日野俊基の葛原岡神社が北と所を変え、ともに名高い桜の名所として覇を競っていますが、本日のところは、下の写真のように、枝もたわわに花びらを咲かせている日野俊基の方が圧倒的に優勢勝ちのように見えました。

 

 

鎌倉と「湘南」
鎌倉山別荘地開発事業挫折の謎が解けた

 改めて「湘南」をWikipediaで調べてみたところ次のような記述がありました。「相模湾」、「海水浴」や「別荘地」をキーワードとしたこの解説は、ごく素直に大方の日本人のもつ「湘南」のイメージに合っているように思えます。そして、湘南発祥の地と言われる大磯が有数の別荘地とされるのに至ったのに対して、ここ鎌倉市の鎌倉山別荘地開発事業が挫折してしまったのは、鎌倉山からは「相模湾」を眺望することはできても「海水浴」に出動するのに不便だったからではないかと改めて思えてきます。

明治期の「湘南」は、山と川が織りなす景観を持つ相模川以西地域に限られていたと考えられる。明治維新により、当時西欧で流行していた海水浴保養が日本にも流入し、適した保養地として逗子や葉山、鎌倉、藤沢など相模湾沿岸が注目されて別荘地となり、湘南文化が芽生える。



徳冨蘆花“定義”により“湘南”イメージ定着

 更に、Wikipediaには以下のような記述が続いています。「徳冨蘆花が勝手に“湘南”を定義した」ことになるのですが、この定義が日本人の心に広くフィットするものだったからこそ「湘南」のイメージの定着に大きく寄与したものと思われます。私自身も、葉山御用邸、鎌倉高校前駅、江の島、烏帽子岩などを車窓に見ながら海沿いに走る伸びる国道134号と、それに続く西湘バイパスに、それとなく「湘南」のイメージ重ねてきましたが、結果的にはこれも徳冨蘆花の“定義”に合致しているということが分かります。そしてまた、由比ヶ浜、材木座海岸といった海水浴場を擁する「鎌倉市は当然湘南に属する」というのが一般的な認識になっているものと考えられます。

1897年、赤坂から逗子に転居した徳冨蘆花が逗子の自然を國民新聞に『湘南歳余』として紹介する。翌1898年、元日から大晦日までの日記を『湘南雑筆』として編纂して随筆集『自然と人生』(1900年)を出版する。これを端緒に「湘南」は、当初の相模川西岸から、相模湾沿岸一帯を表すように変化する。



イメージ乱す湘南ナンバー

 ところがメンドクサイことに「県行政区域」というのがあって、「鎌倉・逗子・葉山」は、「湘南地域」に含まれずに「横須賀三浦地域」と呼称されるのだということが分かりました。これによると、「湘南」育ちの印象が強い石原裕次郎は、逗子市で青年期を過ごしているのですから「湘南外れの男」となってしまいます。一体、このような「許し難い湘南の定義」をした行政主体はどこなのか探ってみたところ、“諸悪の根源”は国土交通省の地方支分部局である「神奈川運輸支局」であることが分かりました。中央官庁の支局の内部で、出先オフィスの担当区域を決める過程で、“勝手に”「湘南ナンバー」該当地域が決められていたのです。

神奈川運輸支局:神奈川県東部(横浜市横須賀市鎌倉市逗子市三浦市三浦郡

  交付されるナンバープレートは「横浜」ナンバーになる。1964年の「横浜」「相模」分割までは神奈川県全域を対象に「神」ナンバーを交付していた
湘南自動車検査登録事務所:神奈川県西南部(平塚市藤沢市小田原市茅ヶ崎市秦野市伊勢原市南足柄市高座郡中郡足柄上郡足柄下郡
  ・交付されるナンバープレートは「湘南」ナンバーになる。
  相模湾沿岸のいわゆる「湘南」区域のみならず、足柄平野一帯や箱根も含まれる。逆に「湘南」の一部とされることのある鎌倉・逗子・葉山などは神奈川運輸支局の管轄区域(横浜ナンバーの区域)となる。

神奈川県議会の立法課題なのだ

 徳冨蘆花が一般的認識として受け入れられる勝手に“湘南”を定義したのに対して、神奈川運輸支局が一般的認識とかけ離れた「湘南地域」を勝手に定義したのは、まさに悪代官のする所業です。“純正湘南”のはずの「鎌倉・逗子・葉山」が「湘南地域」から外れたのと裏腹に、“どう見ても湘南じゃない”内陸部の秦野市や伊勢原市といった山間部の地域まで「湘南」を名乗るようになりました。しかも、同じ内陸部の厚木市は「湘南地域外」となるヤヤコシサ。箱根までも「湘南地域」に入って湘南ナンバーが罷り通っているのですから、横浜ナンバーを付ける鎌倉市をはじめ横須賀市・逗子市・三浦の地域は「横浜地域」ということになるのですが、こういうことで良いんでしょうか皆さん!もともと、「湘南」の呼称範囲を正式に決定するという重大課題は、県民から選出された県会議員で構成される立法機関の県議会で決定すべき事項であり、行政機関の一部である神奈川運輸支局が専決できる問題ではないはずです。このような神奈川運輸支局による憲法ならぬ県法違反によって神奈川県の宝である「湘南」のイメージが損なわれているのを、行政府の長である黒岩知事が黙って見ていて良いものなのか。まずは、国会議員に負けずに、自らが立法府の一員であることを完全に見失っているように見える神奈川県会議員各位の猛省と行政府に対する強力な突き上げに期待しています。
*以下のURLの鎌倉紀行(奇行?)の迷著「いざ鎌倉・紅葉狩り」も併せてご笑覧ください。 http://park20.wakwak.com/~yokosan2/kigukai-gyoji-kamakura.htm

 

 

Part 5  大口(南足柄市)・山北町  (探訪日:2013/3/26)   

南足柄・大口の桜まつり

行きがけの“大口”のお駄賃
 山北を目指して愛車Airwaveを走らせていたところ、山北町地内に入る直前と思しき意外なところで見事に満開のソメイヨシノの群落に出遭いました。そこで、車を停めてみると(下の左の写真)、「文命堤」という立て看板があり、「南足柄・大口桜まつり」とありました。東芝の菊名寮に長く住みついていた私としては、横浜線に続く大口・菊名・小机の3駅を「大口聞くな小突くえ」という戯れ句に慣れ親しんできましたので、こんなところで「大口」に出遭って少々驚きました。ここは南足柄市の酒匂川の畔の文命堤「大口広場」だったのです。そこで、山北町にわたる酒匂川の橋状に行ってみると、下の右の写真のような、山並みを背にして「大口広場」で咲き誇るソメイヨシノの姿を目にすることができました。これこそ望外の喜びというものでしょう。行きがけにしては、かなり“大口”のお駄賃をいただくことになってしまいました。
 

 

“暴れ川”と文命堤と大岡越前と
 酒匂川は、富士山の東南麓と丹沢山地の西南部を主な源流とし、JR東海の御殿場線と並走するように流れ、丹沢山地と箱根山の間を抜け足柄平野のほぼ真ん中を南下し、小田原市で相模湾へ注ぐ神奈川県下で2番目の大河です。昔から「暴れ川」と呼ばれ、氾濫は繰り返しては近隣の田畑や人々に甚大な被害を与えていたのですが、特に、宝永4年(1707年)には富士山の宝永噴火があり、酒匂川にも降砂が流れ込んで河床が上昇、この地にあった大口堤なども決壊したそうです。そしてその後の享保11年(1726年)に築造されたのが「文命堤」なのだとか。なぜ「文命」なのか疑問に思ったのですが、これは、治水工事に尽力したという伝説のある中国の古い皇帝の名に因んでいるのだそうです。文命堤築造の現場責任者に当たったのは田中丘隅なる人物ですが、これを任命したのは第8代将軍の徳川吉宗が信頼していたという大岡越前だとのこと。このこんなところで桜の園に出遭ったのも驚きでしたが、ここでかの「大岡裁き」で有名な大岡越前の名前が出てきたのにはもっとビックリしました。もっとも、よくドラマ仕立てされている「大岡裁き」はその殆どフィクションらしく、実際の大岡越前は、上司に当たる徳川吉宗と二人三脚で享保の改革の推進に当たっていたようです。この文命堤も、吉宗が破綻危機に陥っていた幕府財政を再建するために、全国各地で新田開発を進めており、その一環として酒匂川の治水工事が行われた時に築造されたもののようです。

 

「母なる川」の畔で踊る桜たち
 大口広場には、下の写真のように、東屋も設えられています。本日は週日(火曜日)のせいか花見客も少なく、ソメイヨシノの花の天井のもと、ゆっくりと散策を楽しむことができました。

 
 

 酒匂川は、文命堤ができてからも「暴れ川」ぶりを発揮したようですが、時代を下って、関東大地震で各所に設けられていた農業用水が破損を被ったのを機に、いくつかの用水路を統合して「文命用水」が開設されて以来、開成町や南足柄市等の水田を灌漑する「母なる川」に変身しているようです。ここが、「文命東堤(大口堤)」で他に「文命西堤(岩流瀬堤)」があるということも後になって知りました。この地に土手を築いて稲作をしやすい環境にして足柄平野を穀倉地帯にしたいという江戸幕府の願いが今叶えられているようです。ここ大口広場のソメイヨシノは、下の写真のように、一風変わった樹形をしたものが多いのですが、「母なる川」の畔でこぞって春の到来を喜び踊っているように見えました。

 
 
 
 
 

 

やまきた桜まつり(山北町)

今は“穏やかな岩流瀬”
 南足柄市大口から橋を渡って山北町に入ると「ようこそ水源の町山北へ・岩流瀬」という看板があり、道路際のソメイヨシノの並木が出迎えてくれました(下左の写真)。「岩流瀬」が「がらせ」であり、ここに「文命西堤(岩流瀬堤)」が築かれたというのも後になって分かったことですが、「岩を流す瀬」という物凄い地名から、このあたりで酒匂川が「暴れ川」の本性を発揮していて、その氾濫を防ぐために岩流瀬堤の築造が重大課題になっていたのだと察することができます。しかし今は「暴れ川」ありし日の面影はなく、道路際の一つ奥には緑地があって、人知れずソメイヨシノが咲き揃って、“穏やかな岩流瀬”の春を謳歌していました(下右の写真)。
 



幼かりし頃の御殿場線に思いを馳せる
 御殿場線山北駅の駅舎(下左の写真)も、駅の近くに展示されている退役蒸気機関車(下右の写真)も、背景をソメイヨシノが飾って、すっかり春の装いです。私が幼少の頃には、御殿場線を走っているのはこのような蒸気機関車だけでしたから、機関車がトンネルに入ることを告げる汽笛が聞こえる都度慌てて立ちあがって窓ガラスを締め切り、煙が車内に入りこんでくるのを防いだものでした。
 


名実ともに「さくらの湯」
 そもそも私が山北が花見スポットであるということを知ったのは、2012/10/16に小田原のテニスクラブHLTCの仲間と大野山にハイキングに来てからのことでした。大野山ハイキング・レポートに以下のように書き綴っています。
“桜の里”山北の「さくらの湯」で疲れを癒す
 私たちが向かっている「さくらの湯」は山北駅のすぐ近くにあります。8年ほども前に「さくら狩人…福島ふとどき風土記」http://www4.ocn.ne.jp/~daimajin/SakuraFukushima-a.htmを“インターネット出版”している私としては、「さくら」の名を乱用するのは許せないと思っていたのですが、「さくらの湯」に行きつくまでの道すがら、御殿場線沿いに立ち並んでいる見事なサクラ並木を見て、山北が知られざるサクラの名所であるということがわかりました。「このあたりで、御殿場線列車が来るのを待ち構えていて撮れば素晴らしい写真が撮れるから」と親切に指導してくれる加藤カンちゃんの言葉に刺激されて、来年は「さくら狩人」の西神奈川版を“インターネット出版”するぞと心に決めたのでした。来年のことを言っているのでへッへッへッとどこかで鬼が笑っているような気がしますが、この能のない高齢者は結構意固地な高齢者でもありますので、一度決めたことはコケの一念でやりとおすことでしょう。
 言ってみれば、今このように「さくら狩人・湘南桜錯乱物語」を書き綴っているのも、もとはと言えばこの「さくらの湯」がことの発端だったのです。そして、再び訪れた「さくらの湯」の近辺。そこは秋のうらさびしい光景とは一変していて、名実とも「桜の湯」の春爛漫の景色になっていました。

 

 

御殿場線沿いの散策
 御殿場線沿いに散策を始めてみると、線路の両側にほとんど切れ目のない桜並木が立ち並んでいるのが見えます。
 

 桜並木の遥か上部には東名高速道路が走っているのが見えます(下左の写真)。渋滞で悪名の都夫良野トンネルもここから程近いところにあります。そして、文字通りの花道を電化されて御殿場線の列車が時折通り過ぎていきます(下右の写真)。
 

 

跨線橋上からの花見と洒落る
 跨線橋も何基か架けられていて、それぞれ違った“花道”の姿を観賞することができます。HLTC大野山ハイキングの時に加藤カンちゃんが言っていた「このあたりで、御殿場線列車が来るのを待ち構えていて撮れば素晴らしい写真が撮れるから」の“このあたり”が“どのあたり”だったのか、おぼろげな記憶を辿って探りながらすべての跨線橋に上がって次のような写真を撮ってきました。跨線橋には、親切なことに、下を御殿場線列車が通過する時刻が掲示されています。“御殿場線列車が来るのを待ち構えている”人が多いので、跨線橋上の撮影場所を確保するためには、早めに来て陣取りをする必要があります。

 
 
 
 
 

 

念願の写真“とったど〜”
 さて、“加藤カンちゃん御用達”と思しきポイントで待ち構えていると、遠く“花道”の中央に姿が見えてきて、
 
 
 ぐんぐんと姿が大きくなり、
 
 
 瞬く間に眼下を通り過ぎていってしまいました。
ほんの短かい時間でしたが「念願の写真“とったど〜”」と叫びたくなるような満ち足りた一時でした。
 

 

山 北 の A B C
神奈川県3位の広さ

 山北町は、神奈川県の最西端に位置する町で、北西部は山梨県、南西部は静岡県と境を接しています。面積は224.70km²で、神奈川県の自治体の中では横浜市や相模原市に次ぐ広さですが、町域の大半は丹沢大山国定公園として指定されている丹沢山地です。町内には丹沢湖もあるため、キャンプやハイキングなどの行楽客が延べ人数にして年間約150万人以上も訪れるそうです。町の人口は12千人弱(2010年現在)ですから大変な集客力のある町と言えそうです。

かつては東海道線の要衝
 国道246号や御殿場線などの主要な街道や鉄道路線は町の南部に集中し、町域を東西に貫通していて、市街地もそれに沿っています。従って、「山北町」の名前は「山の北にある町」ではなくて「山が北にある町」という意味なのでしょう。東名高速道路も北にある山の部分を通っていて、町内にインターチェンジはありません。明治時代は、東海道本線の開業とともに、国府津から沼津に迂回する鉄道の要衝として栄えていましたが、同線が丹那トンネルの開通によって経路を変更し、国府津から小田原を経由するようになると、国府津から山北を通って沼津に至る区間は御殿場線となり、鉄道中継地としての役割は大きく低下しました。JR東海としてもIT投資の採算性なしと見ているのか、未だにICカード改札機が配備されていません。「北」の「山」を通る東名高速道路が「町」をバイパスしている姿を見ていると、東海道本線の歴史がここに再現されているような気がします。

“水源のまち山北”とは
 山北町長はホームページで「川や湖は“水源のまち山北”のシンボル」であるとしています。そして、山北地内にある「丹沢湖」は、三保ダムによって玄倉川(くろくらがわ)、世附川(よづくがわ)、中川川(なかがわがわ)の3つの流れを堰き止めて作られた人造湖で、これが神奈川県民の水瓶として機能しているようです。しかし、「丹沢湖」が具体的にどのような形で水源機能を果たしているのか定かではありません。また、山北地内には、酒匂川の支流である「滝沢川」から流れ落ちる日本の滝百選の一つ「洒水の滝(しゃすいのたき)」があって、その水も「全国名水百選」に選ばれているそうですが、だからと言って、「滝沢川」を貴重な水源とするのは無理があるように思えます。この点では、山梨県の道志村が「横浜市の水源」と名乗って実際に然るべく機能しているのと聊か趣が違うようです。要するに、山北町は、「丹沢山地の豊かな自然に恵まれており、その自然環境が、“結果的に”神奈川の水源としても重要な役割を果たしてる」ということなのではないでしょうか。

つづく


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