お茶壷橋を渡るとすぐのところに「御感の藤(ぎょかんのふじ)」があります。改めて案内板を見てみると「大正天皇が皇太子の頃、“小田原御用邸”にご来臨の折、この藤の花の下に召し馬が駆け込み、花を散らしたので、“見事な花に心無きことよ”と、しばらく馬を止めて感嘆されたため、この名が付けられたという。」とあります。「えっ、“小田原御用邸”なってあったの?」という素っ頓狂な声に桜木直子さんは「ええ、二の丸にあったんですよ。」とのことでした。御用邸は天皇や皇族の別荘で、現在は那須、葉山と須崎にありますが、明治期には小田原のほか合計12箇所に御用邸が建造され取り壊されたようです。やはり、富国強兵を旨とする明治政府にとってみれば、御用邸が多すぎて国家財政の阻害要因となっていたのでしょう。しかし、皇族の閑院宮の別荘も小田原にあって、“カイノミヤ”の名は幼いころの私たちの耳になじんでいました。そして、閑院宮春仁王が私たちと同様に樫友会名簿に名を連ねているということも最近になって知りました。格好の居住地であり、天皇・皇族に限らず、高名な政治家・実業家・文芸家が小田原に身を寄せていたということも小田原の特徴のようです。追って、「知っていそうで知らない小田高エリア巡り」シリーズに加えることにしましょう。
この「御感の藤」のところにある池も幼い私たちにとっては「藤棚」であり、小鮒やザリガニ釣りやトンボ狩りの場となっていました。正式には「南堀」と呼ぶのだそうですが、現在は大賀ハスの独擅場となっています。千葉県で入手された2000年前のハスの実が、植物学者の大賀一郎博士の指導によって開花され1979年にここに株分けされ、それが繁殖して水物すべてを覆い隠すような状態になっているわけです。夏の早朝には美しい花を咲かせてくれますが(下の写真:8/3撮影)、水辺に花を咲かせるスイレンとは違いますので、クロード・モネが描いた「水連」とは趣が違います。小鮒やザリガニたちはどうしたのでしょうか。いずれにしても、これでは釣り竿を振ることができません。かつて水面を飛び交っていたギンヤンマなどのトンボもすっかり見かけられなくなりました。ここだけの話ではなくて、小鮒やザリガニ釣りやトンボ狩りをする少年たちの姿が見られなくなったのも「昭和は遠くなりにけり」を示す一つの現象なのでしょう。しかし、現在は近傍の松の梢にアオサギが巣食い、また、ラジオ体操仲間であり桜木直子さんの友人でもある岡崎住江さんの説によると、早朝6時前に来てみれば、ここに飛来してきているカワセミの姿も見えるそうです。南堀の平成の装いなのでしょうか。
さて次に私たちが向かったのは藤棚からすぐ近くの小田原市立三の丸小学校。本町小学校と城内小学校が統合した後の1995年(平成7年)に建築された校舎ですが、小田原城周囲の歴史的景観に合わせてデザインされたという白壁、瓦葺の武家屋敷を思わせる風情は、昭和34年(1959年)卒の昭和族卒業生にとってはなんとも敷居が高いように思われます。しかし、在りし日の校庭の南側を走っていたのが三の丸の土塁の遺構であったということを今回初めて知りました。さらに、この地がまさしく小田高の母体であった小田原藩の藩校「集成館」の所在地だったということを知って驚きました。「集成館」は、農民・二宮金次郎を登用して農村復興を図った小田原藩主・大久保忠真が、財政再建のための人材育成目指して創設したものだそうです。その東側に剣道場一棟が配置されていたそうですが、これが私たちの記憶に残る柔道場・剣道場の「文武館」のルーツだったのかと今にして思われます。
そして、三の丸小学校入口と並ぶ形で「箱根口門址」があり、江戸時代の櫓門の石垣の一部と土塁が残されています(下の写真)。ここが、戦国時代から江戸時代初期まで小田原城の大手門として使われていたようです。しかし、私たちが意識していた「箱根口」は、ここから更に60-70mほど海和を走る現在の国道1号線上の箱根口交差点周辺のことでした。この国道1号線には、小田原駅と箱根板橋駅を結ぶ小田原市電が通っており、幼い私たちは“チンチン電車”と呼んでいました。もとはといえば、東海道線が御殿場経由だった明治21年に国府津駅から小田原、湯本への連絡を図る馬車鉄道として開業したのが始まりで、その後電化し、東海道本線、箱根登山鉄道の開通や関東大震災の影響を受けて、小田原町内の交通機関として特化されたのだそうです。私たちが城山中学校を卒業した昭和31年(1956年)まで運行されていて毎日見ていたはずなのですが、こんなチンチン電車の故事来歴については今回に至るまで全く知らずにいました。ただ、“京都に次いで2番目に古い市電”という言い伝えを受けていただけのことでした。新春に行われる大学箱根駅伝は、今も変わらずこの道を通っていますが、往時は行き交う車の通行も少なかったので、国道1号線でキャッチボールを楽しんでいたほどです。小田原IC - 西湘二宮ICが4車線で完成して西湘バイパスが完成したのが昭和46年(1971年)のことですから、私たちが小田高に在学していた昭和31-34年当時は、ものすごい勢いで車社会への進展が進んでいた時期ということができそうです。
東海道沿いで発展してきた箱根口周辺は昔から商業の集積地となっていたようで「ういろう」の他に、「済生堂小西薬局」や「ちんりう」などの老舗が居を構えています。しかし、お店の名前と所在は知っていたのですが、その老舗ぶりは今回調べて初めて知り、“歴史豊かな箱根口”を改めて実感しました。「済生堂小西薬局」は、寛永10年(1633年)に武将・小西行長の弟が開業したもので、秀吉から豊臣姓を名乗ることが許されていて、伊藤博文や西郷隆盛も立ち寄ったことがあるとのこと。「欄干橋ちん里う」は明治4年創業の昔ながらの梅干屋で、創始者・小峯門弥が小田原藩主の大久保公に小田原城の料理長として京都から招かれその後漬物屋として創業されたのだとか。当日見学会が終わった後で私たちが懇親会のために立ち寄った蕎麦屋の「東喜庵」も、私の生まれ育ったところですが、「小田原で2番目に古い蕎麦屋」と聞いていました。私の祖先は小田原藩士の鈴木伴次郎だそうですが、おそらく明治期になって武家の商法で蕎麦屋を営んでいたものと思われます。ちなみに、この辺りには川もないのに「欄干橋町」や「筋違橋(すじかいばし)町」という地名が付けられているので不思議に思っていました。しかしこれも、前掲の「幸田門趾」の案内板を見て、「どうやらこの辺りにも水堀が掘られていたかららしい」と分かりました。改めて歩いて調べなおしてみると、新たな知覚が得られるものですね。桜木直子さんは、オランダで暮らしておられた経験がおありとのことで、普段は外国人のガイドをされていて、たまに日本人からリクエストがあると小田原から遠く離れた人ばかりだそうです。「小田原人は小田原のことはすべてお分かりになっているとお思いなんじゃないかしら」と、「ういろう」前でのお別れの際に少し寂しそうに話されていました。
さて、大団円は「ういろう」の博物館見学です。お約束の4時ぎりぎりに「ういろう」の店舗に着くと、すぐさま外郎武社長が自らガイドしてくださいました。私自身はこの5月7日に訪問していて、その結果を「知っていそうで知らない小田原ういろうの巻」(http://odako11.net/Happyou/happyou_sasaki/happyou_sasaki_38.html)でレポートさせていただいていますが外郎武社長のお話には全く二番煎じと感じられるところがなく、始祖の中国人・陳延祐の来日、将軍・足利義満による外郎家二代目・宗奇の京都への招聘、更に北条早雲による五代目・定治の小田原への招致のくだりを新鮮に聞かせてくださいました。同じ箱根口で、100mぐらいしか離れていないところで生まれ育った私でさえ頓珍漢な理解しかしていなかったのですから、三木、太田、植田の“朗人”トリオの理解は知れたものであり、特に「お菓子の“ういろう”は名古屋が先」と思い込んでおられていたようです。しかし、外郎武社長のご説明によると、五代目・定治の小田原移住の際に、一子相伝の薬と違って菓子の製法は弟に残してきたが、京都の外郎家は兵火にかかり絶家し、その時に仕えていた職人らによって菓子の製法が全国に広まったのだそうです。小田原在住のエッセイスト・深野彰氏が編著された「ういろうに見る小田原」図書も新発行され、ここでも外郎武社長が座談会で卓見を述べられています。どうぞ皆さんも、ここを訪れて知見を広めるとともに、「伝統」を肌で感じ取ってみてください。
外郎武社長(右下写真の中央)は、小田原市観光協会の要職も務めておられ、小田原城の改築工事も取り仕切られたそうです。今回の訪問に当たっても、黒岩神奈川県知事との緊急会議の予定が出入りしていて大変流動的だったのですが、幸運にも小田高11期同窓会との接点を持つことができました。今後、同様なコース設計で「ういろう」を訪問したい場合には私から外郎武社長宛てにお願いすることにしますのでどうぞその旨お申し付けください。
また、小田原市観光協会会員向け講座を開かれていて、その中に以下のような企画があります。「知っていそうで知らない小田高エリア巡りPart2」に適合しそうな企画ですので、参加希望者は8月30日(火)までに私宛にご連絡ください。小田高11期同窓会グループ飛び入り参加につき外郎武社長のご了解を得ることになっていますので。
・企画 戦国北条時代、日本最大の大外郭を巡る
・期日 9月9日(金) 14-17時(受付13時30分から)
小雨決行、集合場所:小田原駅西口三省堂書店前
・当日持参品 飲み物、雨具、歩きやすい靴と服装、保険証 以 上
知っていそうで知らない小田高エリア巡りの会仮幹事 佐々木 洋
(hiroshis@peach.ocn.ne.jp) |