ちょっと発表


“凡俗”の先に見えたり“ポピュリズム”
2016.09.19  3組 佐々木 洋

 参院選の結果に何ともやりきれない思いに駆られていた私の目に、コンビニの店頭に置かれていた「週刊新潮」7月21号の表紙の「ワイド特集・参院選我ら凡俗の審判」という表現が飛び込んできました。そして、「そうだ“我ら凡俗”なのだ!」と「凡俗」に痛く共感するところがあって早速1冊購入に及びました。同誌には別に「“ポピュリズム”すなわち愚民主義について」という記事もありました。今道周雄さんは「民主主義の衰え」http://odako11.net/Happyou/happyou_imamichi/happyou_imamichi_3.htmlを嘆いておられますが、その後の都知事選にかけて、「凡俗」と「ポピュリズム」が私にとってこの夏の芳しからぬキーワードとなりました。

 一方、無所属(自民党推薦)の中西けんじさんのポスター(右の写真)に「まずは経済。だから中西!!」とあるのには驚きました。経済は強大な下部構造であって、上部構造である政治が大きく動かせるものではありません。それなのに「だから中西!!」と一人狼気分で請け負おうとする姿はドン・キホーテ的であり全く滑稽です。「こんなおバカちゃんは落選に決まっている」と思いこんでいたところ、なんと当選。党籍も「無所属(自民党推薦)」から「自民党」になっていました。おそらく安倍首相と並んだ写真から「アベノミクス」が有力な得票源になったのでしょう。


 自民党の「公認」と「推薦」の違いは良く分かりませんが、自民党は三原・中西で2議席確保。これとは別に創価学会信者の票をかき集めた公明党の三浦信祐氏が当選したので、自民・公明の与党が神奈川4人選挙区のうちの75%を占めることになりました。全国的にも、参議院総議席の3分の2を自民・公明で占めることになり、“いつの間にか”憲法改定の準備態勢が整ってしまいました。憲法学者の大半が憲法違反だという安保関連法案を強行採決してから初めての国政選挙だったのですから、与党は改憲問題について国民の支持を受けるべく、選挙の主要論点として掲げる必要があったのではないでしょうか。「ポピュリズム」(: populism)は、理性的な知的判断よりも、情緒や感情によって左右されがちな大衆を重視するところから「愚民政策」とされることがあります。元テレビタレントの知名度や「アベノミクス」といった情緒的な表現を用いて票を集めることによって、国民が意識していないうちに、法体系の基本である憲法の改訂体制まで作られてしまっていたのですから、まさに「愚民」扱いされていたことになります。「凡俗」感は「愚民」だからこそ感ずるものなのかもしれません。

 「ポピュリスト」として名を馳せていたのが元首相の小泉純一郎氏でしたね。「改革」を歌い文句にしていましたが、理性的な知的判断がしがたく、至って情緒的で感情的な表現でした。「郵政民営化は改革の本丸である」などと語っていましたが、何が「改革」であり何が「本丸」だったのでしょうか。安倍首相の「アベノミクス」も小泉元首相の「改革」と同じくらい理性的な知的判断が難しいもののように思えます。経済学部出身の私なのですが、どこに「エコノミクス(経済学)」があるのか全く分からないので「アベノーエコノミクス」と呼んでいます。確かに、円安基調に転じたために日本経済が復調したのは事実ですが、円相場が下落したのは、黒田東彦氏が日銀総裁に就任してメンドクサイ低金利政策を打ち出すのよりずっと前のことでした。“歴史的低金利の時代”なのに安倍さんが「一層の金融緩和」などと叫ぶものだから、「日本は貨幣を大増発するのじゃないか」と日本の“信用不和”を口にする外国人の友人が複数人いましたよ。歴史的に何度か出されている「徳政令」は“借金帳消し策”ですが、貨幣を大増発してこれが流通すれば貨幣価値が大幅に下がって、政府の財政支出が軽減されるのですから、外国人から見たら「日本政府徳政令発令」と思えたことでしょう。また、「デフレ脱却」とこれも“常識っぽい”表現もされていますが、経済学で教えている「デフレ」は供給過剰による需給バランスの失墜によっておこるものですから、市場活動が継続されるうちに解消されるものです。しかし、“社会の公器”と情緒的に称されているマス・メディアもこぞって情緒的な報道を続けるものだから、“愚民”は「今はデフレなんだもんね」と、理性的な知的判断を捨て去って思い込まされているように思えます。

 しかし、参院選に続く東京都知事選に小池百合子女史が立候補してから、この“凡俗・ポピュリズム”路線に面白い兆候が現れてきましたね。圧倒的に知名度が高い小池女史がダントツで当選したところは、参院選神奈川区の三原じゅん子と全く同じ風情で、ここまでは“凡俗・ポピュリズム”路線さながらですが、小池女史が「自民党公認」でないところが大きく違いました。“女渡世人”と評されるほどしたたかに国政の世界を渡ってきた小池女史ですが、自民党総裁選挙で石破茂陣営についたお陰で“干される”形で退屈しきっていたところ、なんと東京都知事への転換の好機が訪れたので矢も楯もたまらず立候補したのでしょう。そもそも今回の都知事選は、前知事の舛添要一氏が参議院議員時代に得ていた政治資金のセコイ使い方が発火点になっていて、都政の実務履行云々には何のかかわりもなかったはずです。ところが、本来“凡俗・ポピュリズム”路線が大得意なはずの自民党本部が、実務派の増田寛也氏を押し立てて“マジメな選挙”を仕掛けていたので、支援を求める百合子女史には取り付くしまがなく“崖の上から飛び降りる”気持ちでの出馬となりました。東京都在住の同期生で、年甲斐もなく「小池百合子頑張って!」と叫んでいた男が「お粗末なのは自民党都連です。慎太郎の長男もいつも暗い顔をしていてさえません。」と嘆いていましたが、自民党都連に“凡俗・ポピュリズム”路線に抗するすべがあるはずがありません。実際に、自民党支持層の半数までが小池百合子投票に流れたそうではありませんか。

 さて、「百合子グリーン」を訴求した“マジメな選挙”で勝ち得たと思い込んでいる都知事の座の何たる座り心地の良さ。国政の場では、one of them(自民党員のうちの一人)でしかなかったのですが、お山の大将である都知事には大きな自由度があります。しかも、現在進行中の諸件は自分が仕掛けたものではないだけに気楽に批判できますし、かつてニュースキャスターを務めた実績もこれありですので、批判した結果をマスメディアを通じて“小池百合子都政改革”であるかのようにして伝えさせるのもお手の物です。しかし、リオ・オリンピック閉会式では、相当に高価なお召し物だそうですが、これを着込んでオリンピック旗を受け取るというミットモナイ姿を世界中のテレビの前にさらしてしまいましたね。まさか“厚化粧”を国際的にアピールしたかったのではないでしょうに。  

 もともと東京オリンピックについても安倍政権は、何の責任権限もない「オリンピック大臣」を選任するかと思うと、これとは全く別に、得体のしれない「オリンピック組織委員会」で事を運ぶという“ポピュリズム”を用いて、国会議員の先生方や舛添前都知事を“凡俗”扱いしてきました。リオデジャネイロ五輪の閉会式で、安倍晋三首相がスーパーマリオ役として登場して大人気を博しましたが、安倍首相をサプライズ起用したのはオリンピック組織委員会の森喜朗会長だったのだそうです。“新凡俗”で何も知らされていなかった小池新都知事自身も時ならぬ安倍首相の登場にビックリしたことでしょう。せっかくの国際的舞台へのデビューの機会だったのですが、安倍マリオの陰に隠れた“変なおばさん”という印象しか与えることができなかったのが気の毒です。小池女史も、「豆腐屋じゃあるまいし2丁だの3兆だのと」などとぼやいてばかりいないで、2020年東京オリンピックに備えての準備状況についてマジメに調べてからリオに臨むべきでしたね。世界中のテレビ視聴者の中でも“マジメに物を考える”タイプの人にとっては「日本」と「東京」の不整合さが気になったところではないでしょうか。“東京”オリンピックなのですから、舛添前都知事のように国政サイドに対して受け身に終始するという“不適切な”姿勢をとることはやめて、東京都主導の企画推進体制を執り、これに国政を巻き込んでいくようにされたらどうかとマジメに思っています。「小池百合子もマジメに頑張って!」と声援を贈ります。

 さて、そうこうするうちに、東京都が築地市場の移転先としている豊洲新市場で、土壌汚染対策として行われているはずの厚さ4.5mメートルの盛り土が主要な建物の地下の地盤で行われていなかったことが明らかになり、ここでまた、小池都知事による記者会見と相成りました。小池女史は自分自身が“鬼の首をとってきた”ような表情をしていましたが、何のことはない、最近行われた日本共産党都議団の現地調査によって発覚したものです。この問題についても、専門家委員会が作られていて全面盛り土の提案がなされていたのですが、委員会はあくまでも委員会。臨時組織であって、恒常的な都庁の組織の中で定められた権限と責任が割り当てられているわけではありませんから、全面盛土の提言をしただけで終わり、後にこの提言を無視した施工をした都庁の部門を取り締まる権限も責任もなかったんですね。ここでも“ポピュリズム”が用いられており、当時の石原慎太郎知事や都議会議員たちを“凡俗”扱いにして知らせぬままでいたわけです。そんなわけで、“凡俗・ポピュリズム”路線に陥っている国政と都政を“凡俗・ポピュリズム”選挙で選ばれた都知事が裁くという構図になっていて、小池百合子女史の姿が新聞やテレビ画面に登場する回数が急増している昨今ですが、この“小池フィーバー”が“脱凡俗・ポピュリズム”の方向に向かっていかなければ価値がありません。小池女史が、したたかさをむき出しにした表情で、徒に都庁の役人たちと対決するような姿勢を見せているのが気になります。自分が国政の中で沈滞している間に、それぞれそれなりの都政実務を積み上げてきているのですから、命令や指示に偏するだけでなく支援・協力の姿勢をとって都庁の役人たちの潜在力を引き出していってもらいたいものだと思います。