ちょっと発表

 





知っていそうで知らない小田高エリア巡り −4-
2017.09.08  3組 佐々木 洋

板橋地区散策

9月2日(土)、「駅前10時集合」よりかなり早く箱根板橋駅を降りてみますと、既に本イベントの仕掛人である遠藤紀忠兄(遠ちゃん:3組)と、脇松雄さん(小田原ガイド協会)のお二人が待機しておられました。そしてそこに、三木邦之(2組)、辻秀志(3組)、今道周雄・植田研二・太田充(4組)、中澤秀夫・山本哲照(7組)の諸兄がいずれも予定時刻以前に参集。これで11期生はベースボールメンバーの9名総揃い。これに、板橋の住人で、私(佐々木洋・3組)のラジオ体操仲間の妹分の朝倉洋子さんと脇さんが加わったのですからサッカーメンバー11名がフルメンバーになります。そこで簡単な挨拶を済ませた後すぐにキックオフ。‴知っていそうで知らない"板橋地区散策が始まりました。

<「掃海台」別荘地があったとは>

脇さんはお聞きしたところ傘寿で、喜寿周りの私たちの先輩にあたります。しかしガイド生活を楽しまれているご様子でお元気そのもの。第一の訪問先「掃雲台入口跡」に行くのにも脇さんの速い足取りについていくのがやっとのことでした。そこで、「えーと、掃雲台…‴そう‴に‴うん“ねえ。そうするとここはもと早雲台だったんですか」という問いを発すると脇さんから「はい、そうです」との即答がありました。脇さんの口から何回も出てきた「マスダドンノー」というのが実は益田鈍翁で、三井財閥の領袖格であったこの人が巨富を投じて旧道沿いの南斜面丘陵に開いたのですから「早雲のお世話になったわけじゃない」というので「掃雲」に改名したのかもしれません。いずれにしても、国道から少し入ったところに、2万数千坪と言われるこんなに広大な別荘地があったなんて、小田原市で程近くの十字町に生まれ育っていながら初めて知ったことでした。

<国府津駅から馬車鉄道に乗って >

どうやらこの益田鈍翁が小田原の板橋地区を日本でも有数な別荘地にするきっかけを作ったようなのですが、以前に住んでいた鎌倉が海に近すぎるというので山7:海3の板橋の方を選好されたのだそうです。それにしても、東海道線が小田原駅を通るようになったのが、丹那トンネルが開通した1934(昭和9年)からのことですから、この掃層台別荘の建築が始まった1906年(明治39年)はもとより、鈍翁が1914年(大正3年)に晩年の生活を始めた頃にも、鈍翁に誘われる形でここに別荘を構えた当時の要人たちは、国府津駅から馬車鉄道に乗ってこの地を訪れていたということになります。後代(昭和28年)に吉田茂が、大磯の別荘の草分けとなった吉田邸の交通の便をよくするためにワンマン道路を建設したことを考え合わせますと、明治期の財界・政界の大立者たちは、経済的ばかりでなく時間的にも相当のゆとりをもっていたものと思われます。

<小田原の栄華支えた小田原用水>

戦国時代に北条氏が城下町を潤す為に施設した‴日本最古の上水道‴と言われる「小田原用水」も、板橋地区西部にある小田原用水取り入れ口で早川の流れをとりいれており、「板橋」の地名もこの小田原用水にかかる橋に由来しているのだとか。東京の板橋区の「板橋」も小田原から移民が多かったため付いた地名かと思っていたのですが、こちらは石神井川にかかっていた橋の名前に由来しており、鎌倉時代から地名として存在していたそうですから箱根板橋とは無縁だということが初めてわかりました。しかし、まだ測定器が発達していない時代に、一定の勾配を保った水路を建設して、箱根の水を小田原東域を流れる山王川に流入させていた小田原の用水技術は見事で、日本の諸都市の見本とされたようです。主に市民の飲用に用いられたようですが、これがなければ小田原のかまぼこ産業の発展も、老舗「ういらう」の製薬業も成り立たたなかったことでしょう。「豊臣秀吉の仕掛けた石垣山一夜城による83か月間に及ぶ籠城状態に小田原藩が堪え得たのもこの小田原上水あらばこそだったのです」とガイドの脇さんも力を込めて語っておられました。

 

掃雲台入り口の公園で脇ガイドの熱弁に耳を傾ける。

なお、本日飛び入り参加の朝倉洋子さんは小田高11期筋初登場かと思えばさに非ずで、Web11「夜明けの素チャットPart7」にも登場しており、この下流筋にあたる小田原用水との‴かかわり‴についてもご紹介しています。(http://odako11.net/Happyou/happyou_sasaki/happyou_sasaki_49.html)

<小田原城大外郭の西南端部に触れる>

思わぬところで「小田原城の大外郭」に巡り合うこともできました。厳密にいうと、板橋地区は大外郭の外縁部ですから、外部から見ただけの話なのですが、「知っていそうで知らない小田高エリア巡りPart2」でただ一人北辺を見ただけでしたので、「総構え」とも称される9kmに及ぶ小田原城の大外郭の「西南端部はここにありしか」と何故か辻褄が合ったような気がしました。堀の深さは15mにも達していたそうです。大軍を擁していながら豊臣勢が一気に踏み込めなかったのは、遠目で見ても小田原城が難攻不落に見えたからなのでしょう。大外郭があったからこそ石垣山一夜城が建築されたともいえると思います。脇さんは、小田原周辺に降り積もっている関東ローム層の土質が大外郭の構築に役立ったと力説されていました。

<白秋の詩心が研ぎ澄まされた板橋の地 >

北原白秋が小田原に転居してきたのが1918(大正7年)で、一室を借りていた「伝肇寺(でんじょうじ)の境内に住宅を建て「木菟(みみずく)の家」と名付けたのだそうです。板橋地区に「みみずく幼稚園」があるのは知っていたのですが現場を訪れたのは今回が初めて。さては「みみずく」の名にも文学的な意味合いがあると思いきや、1914(大正3年)、肺結核に罹患した夫人俊子のために小笠原父島に移住したことがあることから小笠原流に建てた家が「みみずく」に似ていたからだという面白みのない話でした。しかし、3人目の夫人となった菊子さんがよくできた人だったため、ここで白秋の詩心が研ぎ澄まされ数々の名作が生まれて売れっ子になっていったのだそうです。脇さんは後で、「白秋はここに立って、伊豆大島を佐渡に見立てて『砂山』を作詞したんですよ」と説明してから♪海は荒海 向こうは佐渡よ♪と歌ってくれました。『砂山』には中山晋平版と山田耕筰版の2曲があるという説明を聞いて改めて「あっ、ほんとだ」と気づいた私でした。

<大倉喜八郎の別邸もあったのだ>

鹿鳴館の施工の他、帝国ホテルの経営、ホテルオークラの創業と、ホテル王としても有名な明治、大正期の実業家(男爵)大倉喜八郎が、冬は暖かく夏は涼しいこの地で老後を過すために、別邸「共壽亭(山月)」を建てたという話も私にとっては初耳でした。大倉商業学校(現・東京経済大学)から大倉山ジャンプ場まで、「大倉」と名がつく施設はみんな、越後新発田出身で丁稚奉公として江戸に上京し、慶応3年に鉄砲店を開業してから戦争により財を成した大倉喜八郎氏がからんでいるようですね。残念ながら現在では門のところでシャットアウトになっていますが、奥行きには、外観は御殿風ですが内部は瀟洒な造りで、関東大震災でもほとんど被害がなかった堅固な別荘建築が建っているそうです。

 

<山縣水道からの水流を活かした「古稀庵」庭園 >

いくら無知な私でも、総理大臣まで務めた政治家・軍人の山県有朋が、板橋の地に「古稀庵」を建てたということくらいは知っていました。しかしここを訪れたのは初めて。古稀の年に建てたから「古稀庵」なのだということも初めて知りました。そう言えば、根岸俊郎兄(3組)達とハイキングした時に、このあたりの山間地に、荻窪で米ができるように箱根の水を通す荻窪用水が設けられているのを見て感動しましたが、あそこにあった「山縣水道の水源池」から私設水道を通ってこの古稀庵に送水されているのだという話を聞いて、再び辻褄が合ったような気がしました。庭園好きの山縣がその築造に心血を注いでおり、作風の主題を「自然」、とりわけ「水流」に求めていて、高低差14.9mの間に上段の庭、中段の庭、下段の庭等といった形で構成され、その高低差を巧みに利用した流水やを配したことが特徴なのだそうですが、本日は庭園内に入ることができないので門前で記念写真を撮るだけにとどめておきました。

松永記念館2階で遠藤さんから「電力王」松永安左衛門について講義を受ける。  

<「電力王」松永安左ヱ門の残したもの >
さて、本イベントの仕掛人である遠ちゃんが最後の訪問先として仕組んであったのは「松永記念館・老欅荘」でした。松永記念館は、「電力王」と呼ばれた松永安左ヱ門が長年にわたり収集した古美術品を一般に公開し、広く愛好者に親しんでもらおうと昭和34年(1959)に設立された施設で、安左ヱ門の没後、小田原市に土地と建物が寄贈され、昭和55年に小田原市郷土文化館分館として開館されたものです。一方、老欅荘は、茶道にも造詣が深く『耳庵』と号した安左ヱ門が、茶会に茶人、政治家、学者をはじめ多くの著名人を招きながら晩年を過ごした別邸で、建物や庭園の造作一つ一つにも創意が込められています。
ここで、一通りガイドをしていただいたところで脇さんにはお礼の意を告げお一人いただいてから、後はリーダー遠ちゃんによる「松永安左ヱ門論」ミニ講座に全員で耳を傾けました。「茶人・美術品コレクターとしてばかり注目されがちな松永安左ヱ門の“電力王”らしいところを知ってほしい」と願う遠ちゃんの論調は物静かなものでしたが説得力があり一同の理解を深めさせてくれました。日本経済の高度成長を支えたのは強固な電力供給体制だったのですから、“電力王”の残したものは茶人・美術品コレクターとして残したものに比して遥かに大きく根源的なものであったこと、そしてその“電力王”が板橋の地に居住していたという事実を小田原人として強く記憶にとどめておきたいと思います。