ちょっと発表



都バスの思い出

  2014.04.02    2組 下赤隆信

 どのくらい前のことだったか記憶は定かでないが、東京は江東区の門前仲町から、錦糸町までバスに乗ったことがあった。その時の忘れられない小さな出来事がある。

 バスは座席がほぼ埋まるくらいの乗車率で、大方が地元の老人といった乗客だった。
 後ろのほうに座っていたお婆さんが一つ前の座席に移った。小柄で小奇麗ないでたちの、いかにも東京下町のご老人と言ったお婆さんだった。
 後で考えてみると、降りるバス停が近づいたので、通路側の席で、また窓側の席にすでに人が座っている席が、降りるのにも都合が良く、乗ってくる新しい乗客のためにいちいち席を立たなくても良いと思ったのではないか。

 次のバス停で何人かが乗ってきて、一人のご婦人がそのお婆さんが前に座っていた席に座った。そして、あらっといって立ち上がると運転席に行き何かを差し出した。大振りの財布だった。
 乗客の1人が、あのお婆さんのものではないかと言ってそのお婆さんの肩を後ろから突っついた。他の乗客もそのお婆さんのものだろうと口々に言いだした。
 お婆さんは、身の回りを確かめていたが、自分の財布だと気がついたらしく、後ろをむいて先ほど肩を突っついて知らせてくれた人に礼を言ったりしている。

 次のバス停に止まったときに誰かが、運転手さんのところにあるんだから取りにいったら、とうながした。お婆さんはにこにこしてしばらくためらっていたが、そうするうちにバスは発車してしまった。
 下町の人情のこまやかさというのだろうか、乗客の全員が自分のことのようにはらはらしだしたようで、私の斜め前の紳士然とした老人は読んでいた新聞を膝に置いて身を乗り出して、早く行きなさいなどと言っている。そのとなりのちょっと粋筋の人かと思える初老のご婦人も半分腰を浮かして運転席を指差してあそこにあるんだから、取りに行きなさいと子供を諭すような口調になっている。

 次に止まったときにまた誰かが、早く取りに行ったら、ほら荷物はそこに置いといて、などと言って世話をやいている。しかし、お婆さんは席を立たない。バスはお構いなしにまた発車してしまう。
 次に停まったときには何人もの人が、せきたてるように取りに行きなさいとうながした。しかし、お婆さんはにこにこしていて席を立たない。
 この婆さんはことの次第がよく飲み込めてないのではないかと心配になってきた。
 中には、1人での外出が憚られるような人なのではないかという意味のことをささやく人もいた。
 あの紳士然とした老人は、早く行けばいいのに、などと半分癇癪をおこしたように急き立てたりしている。こうなると下町の人情を通り越して、下町のお節介に近くなってくる。
 つぎのバス停で、お婆さんはゆっくりと席を立ち、みぎひだりの座席の背につかまりながら運転席の後ろまですすんで行った。脚が悪いように見受けたので、降りる停留所がくるまで立つのを待っていたのだろう。
 なんだねえ、降りるんだったんだよ。なら、早くそう言えばいいのに、とほっとした感じでつぶやくおかみさん風の人もいる。
 運転手から自分の財布を受け取って料金を払い、振り返って誰へともなく頭をさげ、お婆さんは降りていった。
 乗客一同はやれやれといった感じで、またもとのおしゃべりや読み物に戻っていった。

 降りてからお婆さんはバス停の脇に立って、バスのドアに向かってふかぶかとお辞儀をした。
 見ているとお婆さんは、バスが走り出すときに叮嚀にまたお辞儀をした。少しバスが走ったころ後ろを見るとお婆さんはまだ同じところに立っていて、走り去るバスにもう一度お辞儀をした。

 じつは、そんなお婆さんの様子を見ていたのは私一人だけであった。私は、一番後ろの一段高い席に座っていたのでそれが見えたのだが、他の乗客には見えなかったであろう。よっぽど、あのお婆さんがお辞儀をしていると皆に伝えたかったが、乗客は安心したのか、みなもうそのことから関心がはなれてしまっている様子なので、しばらくためらっているうちにバスはずい分走ってしまい、お婆さんの姿は小さく遠くなっていた。

 都バスに乗ることはあまりないが、なにかの用事で乗ったりすると、このお婆さんのことを思い出す。


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