ちょっと発表



人生の転機を迎えたこの1年
~救急車と入院、妹の死、老人ホーム~

2021.03.09  7組 山本哲照 alleinganger@jcom.zaq.ne.jp

 7組の山本哲照です。私は現在(2021年3月9日)「介護付き有料老人ホーム」に単身で入居しています。施設の名称は「ココファンレジデンス小田原」です。所在地は小田原市蓮正寺ですぐ近くに「小田原テニスガーデン」「小田原アリーナ」などがあります。事業主は「株式会社学研ココファン」で我々の青春時代に「学参」の出版社として旺文社と並び称された学習研究社が2004年に設立した会社です。「介護付き有料老人ホーム」とは都道府県の指定(認可)を受けた有料老人ホームで、介護保険制度上では「特定施設(特定施設入居者生活介護)」というサービスに分類されます。24時間介護スタッフが常駐し、掃除・洗濯、食事・入浴・排泄などの介助サービスが受けられます。私は2020年11月2日に入居しました。但し私は現在介護認定は受けておりませんので介護保険の対象にはならず、「自立者」という扱いで入所していますから、施設に対しては介護保険に相当する料金を別に支払う必要があります。外出は自由にできます。きちんと手続きを踏めば外泊も可能です。
 昨年(2020年)の今頃(2月頃)は「新型コロナウィルス感染症」が話題になり始めた頃で、私の日記に初めて「新型コロナ」という名称が出てくるのは1月29日でした。この頃は自分が「老人ホーム」という施設に入ることになるとは夢にも思っていませんでした。こうなるまでには色々な紆余曲折・有為転変がありました。2020年を振り返ってみるとちっぽけな私(山本哲照)のささやかな人生の中では大きな転機を迎えた時期でした。
 そこで11月2日に老人ホームに入居するまでの私の2020年を振り返ってお話してみたいと思います。但し、ダラダラと時系列に沿って述べても関心のない方には面白くもおかしくもない事でしょうから、2020年に私に起こった大きな出来事「私を置き去りにした救急車」「9歳下の実妹の死と初めての入院」「老人ホーム入居」の三つの出来事について3篇に分けてお話します。

第1章 夜中に救急車に置き去りにされた!
1.新型コロナウィルス感染症

 2019年12月頃中国・武漢に端を発した「新型コロナウィルス感染症」は私の日記(3月12日)には「WHO(世界保健機構)によりパンデミック(世界的大流行)と認定された」という記述があります。日本でも不要不急の外出は控えるようにという要請が行政から出されていましたが、私はお濠端通りの旧ナックビル6階のフィットネスジム「フォービー」に週に3日くらい通っていました。但し不特定多数の人が触れる機会が多い各種のマシンによる筋トレは封印し、主にトレッドミルでのウォーキング、エアロバイクでの自転車漕ぎを行い、終了後はストレッチというトレーニングでした。そのジムも4月10日から休館。
 それからは行政の言う「ステイホーム」を忠実に守る生活を続けました。当時の私は小田原市城山の城山陸上競技場直下の分譲マンションで独り暮らしをしていました。時折食品などを買い出しに出かける以外大体は家に居ましたが、前述した通りマンション自体が起伏に富んだ丘陵地帯に建てられた(マンション前にある公園のフェンスには「この地点の海抜42,5メートル」と書かれた標識が掛かっていました。)ものですから周辺を歩くだけで結構運動になりました。 

 特に駅前周辺で買い物をしてからお濠端通りに出て、三の丸小学校、藤棚、二宮神社、競輪場、相洋高校前で右に自動車道に沿って短い歩行者専用道を上がり、小田高西門前、城山競技場に沿って下ります。慈眼寺という黄檗宗の寺院の前で左折すると私の居住している共立城山マンションに着きます。買い物をした後小田原駅を通り抜けて駅西口から城山競技場までのルートを通ればずっと早く帰宅出来ますが、わざと遠回りの上り坂を歩いて身体に負荷をかけていたわけです。

2.山道を10キロ歩く

 2020年5月13日(水)は抜けるような青空と無風。ウォーキングには絶好の日和でした。こんな日は少し遠出をして長い距離を歩いてみようと思い立ちました。13時40分に家を出て2007年2月初旬まで住んでいた小田原市久野のマンション「小田原サニータウン」の方角に向かいました。マンションの前を流れている山王川を少し上流に向かうと星山という地区に出ます。星山寺(しょうさんじ)という曹洞宗の古刹の前から山道が始まります。サニータウンに住んでいた頃はよく歩き回ったものでした。特に当時一緒に暮らしていた亡母が動けなくなって水之尾の老人保健施設「水之尾」に入所していた1999年7月から翌年2月頃までは週に三日この道を通って水之尾の施設まで歩いて母に面会に行きました。この道は車の往来には狭く勾配もきつい道です。

 登り切った所に「わんぱくランド」があり、昔は「辻村農園」と呼ばれた「辻村植物公園」があります。私は辻村植物公園の中に入り込む山道を進み「水之尾毘沙門天神社」を経由して箱根塔の峰方面に行く道に出ます。この道を左に向かって下り始めるとすぐ競輪選手専用の宿泊施設があり、水之尾行きのバス終点の停留所があります。「老人保健施水之尾」を左後方に見ながら下ると本通りは小田原ケーブルテレビや城南中学校などを経由して競輪場保面に下る道です。私は水之尾を過ぎてすぐ左斜めに「白秋童謡の散歩道」」と名づけられた小径に入って行きます。この道はすぐに左に眺望が開けて小田原市内を見渡せます。すぐ下には佐伯眼科や関東学院大学の建物があり、遥か彼方には荻窪のミカン畑。もっと遠方には相模湾の海原の白い波頭も見えます。
私は母が老人保健施設水之尾を退所した後も家から星山を越えて辻村農園、水之尾、慰霊塔のある城山公園、城山競技場などを経由して久野のサニータウンまで歩くのを習慣にしていました。今日歩いたコースの後半はまさにその時のコースで、帰宅時刻は16時10分。歩いた時間は2時間30分。歩数は14500歩。距離は10.4キロでした。

3.救急車に袖にされた!

 その翌日。起床時から腰に痛みがあり、時間が経っても一向に収まらず歩いたり、前屈みになる時には立っていられないほど痛みます。ソファに座っていても痛み普通に立ち上がることもできません。今まで経験したことのない腰痛に一日中悩まされました。その日(14日)はベッドに何とか横になって就寝しましたが、夜中に3回も尿意で目が覚め激痛に悩まされながらも用を済ませて2回まではベッドに戻れました。ところが3回目は用を済ませてから歩けなくなってしまいました。立ち止まったまま動けないのです。もしかするとこういう事態になるかもしれないと思い、すぐに手が届くテーブルの上に固定電話の子機を置いておいたのが役に立ち、それを使って救急車を呼びました。

 そしてスローモーション映画を地で行くような動きでザックに着替えや健康保険証、身分証明書、各種診察券、カード、現金などを詰め込んでおきました。救急サイレンの音は聞こえませんでしたが10分後に3名の救急隊員が到着しました。型通りの問診を受け玄関前に置かれたストレッチャーに乗せられる前に検温されて熱が37度1分あることが分った途端に救急隊長の態度が変りました。「日中ならともかく今は夜中で救急指定病院しか搬送する先はないが、救急指定病院は今の時期発熱している患者は絶対に受け入れてくれない。この場でいくら探しても無駄だから貴方を連れて行くことはできない。翌朝9時を過ぎて一般の病院が開いた時間になってもまだ症状が治らなかったら、改めて救急車を呼んでください。その時ならなんとか対応できるでしょう」と言って、痛さで泣いている私を置き去りにして救急車は無情にも帰って行ってしまいました。

4.内科と整形外科に受診

 救急車が帰って行ったのは午前4時頃だったと思いますがその後はソファに腰かけるというよりも寝そべるような姿勢で時間が過ぎるのを待ちました。すると痛みは段々収まって行き、少しずつ身動きもできるようになりました。病院が業務を開始するという午前9時頃には緩慢ながら何とか立ち居振る舞いもできるようになったので、救急車を呼ぶ気はなくなりました。ただ、腰痛よりも便意はあるのに排便できないつらさに加え熱も36、6度あり、軽い吐き気もあります。思い切って最近行きつけになった渡邊内科クリニックに電話したところ、来院するように言われタクシーで行きました。腰痛の原因はやはり起伏のある山道を10キロ余も歩いたことで、腰痛で骨や腰椎に異状があると便秘の原因にもなるとのことでした。排便促進剤と痛み止めの湿布薬を処方してくれました。念のため18日には竹田整形外科クリニックで診断を受け、レントゲン撮影の結果骨や筋肉には異常はなく、やはり普通の腰痛と診断され、ようやく救急車の出動まで引き起こした腰痛騒動は収拾しました。

5.これからのことを考え始める
 
コロナのおかげで「不要不急の外出を控え、ステイホームを忠実に守る生活」の中で訪れた五月晴れの好天に誘われて出かけた10キロの山歩きが思わぬ騒動になってしまいました。しかしこの出来事は私に今の生活を見直させる大きなきっかけになりました。
 母を2000年5月に亡くして以来マンションでの気ままな独り暮らしを続けてきました。食事には気を配り飲酒は週に2日(日曜、水曜の夜)、1974年10月に皇居1週のジョギングを始めてからの運動習慣はウォーキング、ダンベル運動、スポーツジムでのエアロビクス・エクササイズ、マシンを使った筋トレなどと形態を変えながらもこの時期まで続いていて私の健康維持に役立ってくれました。しかし80歳という年齢は否応なく私の身体に衰えをもたらしていました。10年前までは週に3日くらい行っていた丘陵地帯のウォーキングも翌日に腰痛を引き起こすほどの負担になっているし、頻繁に起こる便秘や不快な吐き気、風邪をひいて夜中に高熱で眠れないときなどは暗闇の中、一人暮らしの不便さが身に沁みて先行きに不安を覚えることも一再ならずあり、こういう自由で何物にも束縛されずぬるま湯につかったような生活はどこかで終止符を打たなければならないと考えるようになりました。
 それについては第2章以降で順次お話して行きます。最後に私が暮らしていた二つのマンション、腰痛を引き起こした散歩コースなどの写真をご覧ください。

1981年から2000年まで母と暮らした久野の小田原サニータウン

植物公園内の標識

無人の辻村公園

水之尾毘沙門天

 

白秋童謡の道の案内板

一人で暮らしていた共立マンション

 

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