ちょっと発表



   故根岸俊郎君の思い出 

2021.04.20  3組 辻 秀志

 この3月末に、小田高で3年間同じ3組だった根岸俊郎君が逝去された。パーキンソン病を患ってから数年が過ぎた最近に、その病気が元で階段から転落し、腰回りの骨を折ってから、介護付き老人ホームを3カ所移って、最後にはテニスガーデンの横の老人ホームに半年ほどおられた。  

 本当に、彼と私とは長い付き合いでした。小学校4年生で同じ組になり、ちょくちょく彼の家に遊びに行ったのが始まりです。小田高のすぐ南側に自宅があり、樫林にクワガタやカブトムシを取りに行った。中学ではクラスは違っていたが、小田高に進学してから3年間、理工系の進学希望者の3組で学んだ。慌ただしく過ぎた高校時代の果てに、大学受験ではお互いに失敗して、浪人生活を送るしかなく、浪人列車(6:05発の東海道線)のボックスシートに向かい合って座り、黙々と勉強しながら1年間を過ごした。結局、大学は別々に生活して過ぎたが、元旦には小田原の旧友と徹夜麻雀をするのが常で、彼の好きな手は対々(トイトイ)でした。

 就職して共に小田原から会社へ通っていたが、彼は日産自動車に勤め、実験課にいた時は小田原から鶴見まで性能チェックを兼ねて毎日車で通う時もありました。私が鴨宮に家を建てて車が必要になった時には、日産の中古車を見つけてきて購入を斡旋してくれました。お互いに子供が小学生だった頃、夏休みの夜に家族を連れて、小田高の校庭にゴザを敷いて横になり、望遠鏡で土星や木星を眺め、星座や流れ星を見つけて過ごしたりもした。  

 定年を迎えて、別会社に移ったり、自営の道を選んだりしたが、随分前から休日はテニスで明け暮れていました。二人とも、小田高出身者が大半の八幡山ローンテニスクラブに属し、楽しい仲間に囲まれて過ごしました。夏合宿は仙石原中学の校庭にあるテニスコートで始め、その後、大概は山中湖や道志村での1~2泊の夏合宿をしました。富水に小田原市がテニスガーデンを作ってから現在まで、専らその人工芝コートでテニスをエンジョイしてきました。  

 思えば、高校3年の体育の時間はいつも決まってソフトボールでしたが、体力溢れる根岸君はサード、4番バッターで活躍し、私はセカンドの守備位置に甘んじていました。社会人になってから共にゴルフを始めましたが、彼の球の飛びはすごかった。  

 根岸君の理系の才能と行動力は凄くて、中学の気象観測部に始まり、高校時代は望遠鏡での天体観測部に熱中し、成人後のハイキングでは地図と磁石と距離計を駆使してテニス仲間を引き連れて先頭を歩き道案内をしてくれました。

 会社を辞めてからの根岸君は、テニスのない日は箱根富士の山を闊歩し、1日中歩き回ることも多かったようで、“一緒に連れて歩く犬が可哀そうだ”と同情する人もいたくらいです。箱根連山の山々から始め、十里木高原、伊豆半島の大室山、城ケ崎や南端の石廊崎、万三郎山、万次郎山、長者岳、沼津アルプスなど伊豆の山々から富士箱根山麓まで、歩き回ったところは挙げ切らない。

 浪人列車で通っていた頃に見初めた奥さんと横濱プリンスホテルで華燭の典を挙げ、私は勿論臨席させてもらった。数人の小学校以来の友と家族付き合いを続け、「未達会」と称する仲間と共に人生を過ごしてきた。 「刎頚之友」である根岸君とのこの世での付き合いが、ここで終わるのは真に残念です。 “献体”をして世の医学・歯学の進歩に寄与せんとする人間愛と行動力と情熱には頭が下がるばかりです。心からのご冥福を祈ります。