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  秋野不矩展

2020.06.17

8組   植田武二 

 平塚市美術館に「秋野不矩展」を見に行った。平塚市美術館はここ数年、優れた女性画家の展覧会を開催している。一昨年は片岡球子、昨年は小倉遊亀、そして今年は秋野不矩である。秋野不矩は、テレビで何度か見ていたが、ぜひ本画を見たいと思っていた画家だった。

 秋野不矩(一九〇八〜二〇〇一)の人生を大まかにまとめると、彼女は静岡県磐田郡二俣町(現・浜松市天竜区)に生まれた。千葉出身の南画家・石井林響、京都の竹内栖鳳門・西山翠峰に師事し、家族や庶民の生活に温かな目を向けた作品を官展に出品したのち、戦後一九四八年には、旧来の日本画を排し新時代の日本画をめざす創造美術(現・創画会)の結成に参加。当時はまれであった男性ヌードをテーマに造形的な人物表現に取り組み、上村松園賞を受賞するなど注目を集めた。

 また一九四九年から京都市立美術専門学校で教鞭をとり後進の育成に尽力したほか、石井桃子の文による『いっすんぽうし』、有吉佐和子文の『かみながひめ』などの絵本原画にも才能を発揮した。

 さらに一九六二年に大学の客員教授としてインドに滞在してからは、ダイナミックなインドの大地や慎ましく生きる人物をテーマに独自の画風を築いた。生涯で十四回インドを旅した不矩の作品は、自然に根差した異国的なインドの姿が捉えられている一方で、ざらざらとした輝きをもつ日本画の顔料で常に何物にもとらわれることのない自由な画境を生み、現代日本画の新たな境地を展開している。

 七十年余りに及ぶたゆまぬ画業によって一九九九年には文化勲章を受章、多くの功績を残し二〇〇一年に九十三歳の生涯を閉じた。

 秋野不矩の作品が多くの人に慕われるのはなぜだろう。現代の社会はるつぽのように東西が混淆としていく只中にあって、我々は国際化と個性のバランスを保ちながら、ここ日本に住んでいる。不矩はエキゾチックなインドを描きながら、むしろこうした時勢に先駆けて広い世界に感動し、その素朴な感動を我々の目の前に描き示してくれている。

 我々を魅了してやまない秋野不矩芸術を培ったのは、一つは静岡県の天竜川に抱かれながら感じた大正という時代性であり、もう一つはいうまでもなくインドの大地であった。不矩の幼少期は大正期と重なる。大正の前半は明治のモノトーンから一気にカラーになったと言われるように、明るく自由な雰囲気に彩られ、美術の世界では桃山時代の再来とも評されるような色彩豊かな時代であった。不矩が生まれたのは明治四十一(一九〇八)年だから、幼少期から青年期にかけこの大正時代を過ごしたことになる。

 画家のインド滞在のきっかけは一九六二年、日本画を教えていた京都市立美術大学で、インドから帰国した研究者・佐和隆研に「日本画の先生でインドに行ってくださる方はありませんか」と尋ねられ、自ら手を挙げたことによる。  インドについての知識もなく、英語もできないのに行く気になったのは「われながら不思議」だったという。

 この頃彼女は離婚して四年が経ち、また六人の子どものうち末っ子が十七歳まで成長して一段落つくという、たちどまって作家としての行く末を考えるよいタイミングであった。私生活の上からも、次なる飛躍を期してのインド訪問だったと言えるのではなかろうか。

 過去にインドと日本との関わりについて少し触れると、明治期では岡倉天心もインドとは少なからぬ縁がある。大正期には現実にこの国を実際に見、体験して描いた日本画家が現れる。今村紫紅や荒井寛方らがそうである。今村紫紅は『熱国の巻』でスケールの大きい色彩豊かなインドを描いている。戦後になると文学作品にもインドが登場する。 代表的な作品では三島由紀夫の『豊饒の海』や遠藤周作の『深い河(ディープーリバー)』、最近の芥川賞作品にもインドを題材にしたものがあった。仏教発祥の地であるこの国と日本は古から関わりがあったのだ。私もインドで生まれた作品を中心に秋野不矩を取り上げたい。

 不矩は前述したように生涯で十四回インドを旅している。過去にインドを訪れた画家は多いが、彼女が特異なのはまるで故郷のようにその地に溶け込んだことで、雄大な自然や過酷な環境で暮らす動物、慎ましく素朴に生きる人々を温かな目で描いている。

 初の渡印は一九六二年、ビスバーバラティ大学(現・夕ゴール国際大学)での日本画指導であったそのため学生や人々の姿を描くことが多く、休暇中に自然豊かなラジヤスタン地方を訪れて感銘を受け、ガンジス河やオリッサ州の寺院が画嚢を肥やした。そしてケララ州のヒンドゥー寺院の壁画調査を経て各地を巡り、人間的な神像や貧しい環境の子どもたちの姿に共感をもった。九十年代半ばにはアンコールワット、最後の旅行となる二〇〇〇年にはアフリカまで行っている。

 不矩が描く自然や建築物は、かつての仏教やヒンドゥー教の聖地や人々の息づかいが感じられる。日本画家としての美意識が反映していて、類いまれな秋野不矩芸術が成立している。

 いくつかの作品を取り上げてみる。

『糸』 (縦91.0cmX横52.5cm 紙本着色・額)以下秋野作品はほとんどが紙本着色・額である。一九八二年の現代女流画家展の出品作で不矩は七十四歳。初のインド訪問から二十年が経った時期の作品である。黄土色の壁の手前で黒い肌の女児が糸を紡いでいる。黄土と肌の黒、糸の白に加えて少女の首にさげたハイビスカスの赤がアクセントになっている。渡印前から不矩の描く人物がそうであるように、手足が画面から切れており、画面はモダンで斬新である。取材地はネパールと国境を接する東インドのビハール州で、最も貧しい州だという。

『砂漠の街』 (138.5×262.0) 画面全体に建築物が描かれている。作家の言葉を引く。「ラジャスタンの砂漠を行くラクダの休む街。昔の城壁(フォード)の跡が民家に使われていて人々が住んでいる。屋上に登る細い階段もあって半開きの扉の奥に誰かがいる。強烈な陽射しがくずれかけた壁に影を刻している。」不矩が描きたかったのは名所旧跡というより、今も人の気配が感じられる生活の場だったのだろう。普遍的で原初的な精神性が内在している。一九七七年のジヤイサルメールでの取材である。

『帰牛』 (77.0X155.0)  一九九〇年代のオリッサ州コナラクでの作品である。作家の言葉。「オリッサ、コナラクに太陽神の寺院がある。その寺院の近くのホテルに滞在していた。雨が降り出し、道や畑なども浸水するくらいに洪水のように降った。夕方そのわきを水牛の群れが角を並べて渡って行くのが印象的であった。」という。突然の大雨の後に太陽が顔を出したすがすがしい空気を、水面に箔を用いることで巧みに表現している。黒い水牛とのコントラストが鮮やかである。

 水牛を描いたものといえば不矩の作品には他に二点のすぱらしい絵がある。

 『渡河』 (143.0x365.0) 氾濫する暗緑色に濁ったダヤ川、滔々たる流れを下る黒い十三頭の水牛の群れ。

 『ガンガー(ガンジス河)』(118.8×233.5) 雨季の黄土色のガンジス河に晴れ間が射し、増水した河を十頭の黒い水牛が縦に連なって渡っている雄大な光景には神々しさが表れている。

 これらは私の最も好きな秋野作品で、まさに白眉である。

 その他に『たむろするクーリー』 インドの駅のホームに群がる赤いシャツに赤いターバンをつけたクーリーがいる。わずかな賃金で多くの客をとるために、一生懸命で実に生き生きとしている。クーリーのたくましく生きる姿にいつも感激すると作家は言う。また『テラコッタの寺院』、『オリッサの寺院』など歴史を感じさせるヒンドゥーの寺院、そして不矩最後の海外旅行となったアフリカでの二〇〇一年の『砂漠のガイド』。サハラ砂漠に赴き。特徴的な風紋の向こうにガイドを描き、見果てぬ画境を追い続けた不矩の気持ちが泰み出ている。

 秋野不矩のインドでの旅行譚は、それぞれのエピソードが生き生きとした冒険譚で、インドで死んでも本望といい、どこか理想郷としての乾いた風土を謳歌した彼女の姿が感じられる。インドの混沌とした矛盾に対峙するのではなく、むしろ親近感をもって接したので、壮絶な生と死を見つめたり社会的な貧困を暴くといったことには作家の興味はなかった。不矩の興味のありかは、土着的で原初的なものに向けられていて、それらが生き生きとした生活に直結しているところに惹かれていた。

 不矩が描きたかったのは、現実に目の前にある文化遺産の姿だけでなく、いにしえの人々の営みであり、その土地に流れる雰囲気や気配だったのかもしれない。

展覧会図録参考

 

(編者注記)本稿は植田君が2020年7月10日発行の「文章散歩」Vol.102 夏号に掲載されたものを載せさせていただいた。

 



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