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ココア

2019.04.05

8組   植田武二 

 咋今では、コーヒーを飲む人は非常に増えたが、ココアを飲む人はそれほど多くないのではなかろうか。喫茶店でもコーヒー党はたくさんいるが、ココアを嗜む人はめったに目にしない。コーヒーは発癌性を抑制するとされているが、ココアも栄養という観点からすると体にいいそうである。味もまろやかさの中にコクがあって私は好きだ。しかし静的で、深い精神性があって、大人の孤独という表現にいちばんふさわしい飲み物は、コーヒーだという感じがする。

 私は散歩好きだ。運動不足を補うため、週に二、三回は外に出るようにしている。行く先は小田原の城址公園の周辺になる。多数の色とりどりの鯉が泳ぐ堀を眺め、移ろう四季それぞれの草花の中に身を置くのである。公園内にある市立図書館にも寄る。三四十分ほど雑誌などに目を通してから図書館を出て、ほぼ城址を一周して帰る。帰り道に公園の近くの喫茶店に入る。店内が広々としていて寛いだ気持ちになれるのでいつも寄る。 そこでブレッドコーヒーの香りを味わいながら、ささやかな解放感に浸り、とりとめのない物思いに耽る。私の大切な楽しみの時間だ。

 退職してから現役時代と比べて酒を呑む回数も量も減った今、コーヒーに対する私の思いは以前よりよけいに募った。が、たまに外出先でココアを口にすることがある。そういう時、必ずといっていいくらいあの過ぎ去った大戦を思い出す。私の記憶に残る最初の飲み物がココアなのである。私は昭和十五年生まれだから、四歳から五歳の折の記憶ということになる。

 昭和二十年の夏になると,小田原や周辺の町には連日警戒警報のサイレンが轟き、空襲に見舞われた。B29や小型機による主な空襲を列挙すると、

七月十六日小田原早川 一名死亡

七月三十日湯河原駅 一名死亡

八月三日 下曽我駅 一名負傷

八月五日  富士フィルム小田原工場被災

      下曽我駅周辺 六名死亡

      理研空気山北工場 二名死亡

      国府津駅 女性駅員二名死亡 駅舎全焼

      二宮駅『ガラスのうさぎ』の著者高木敏子氏被災

八月七日  山北駅 三名死亡

      民家二十軒以上焼失

      富士フィルム足柄工場 一名死亡

八月十三日 富士フィルム小田原工場被災

      湯浅電池 女学生ら十三名死亡

      小田原多古地区 防空壕直撃で十三名死亡

      小田原市立新玉国民学校 教職員三名死亡

 記録に残っている主なものだけでもこれだけある。小田原や周辺の都市は富士山を目標に飛んでくるB29やグラマンなど艦載機の通り道で、昼夜の別なく狙われた。もう敗戦は決定的だったのだ。国民は疲れきっでいた。私の家族もそうだった。そんな疲弊した生活の中で、私の家で唯一の娯楽は父が帰宅してからの夕食の後、ココアを飲むことだった。

 当時、私の家は父がある大手の運送会社に勤めるかたわら、母が銭湯を経営していた。父の仕事の関係で、家には一般家庭ではあまり手に入らないドイツ製のコンビーフの缶詰やココアがある程度備蓄されていた。このことについては少し罪の思いがする。

 そのココアを味わいながら、一家団槃のひとときを過ごす夜ごと、午後八時から八時三十分頃になると、警戒警報のサイレンが鳴り響いた。陰鬱で喘ぐような背筋が冷たくなるような音である。

 「それ、おいでなすった。定期便だ」

 父はそういうと立ち上かって電灯を消す。それから家族は国道を隔てた飛び地にある防空壕に避難する。こういう夜の連続だった。

 あれは八月十五日の未明のことだった。小田原の中心部が空襲を受け、火災が発生した。シャーツ、ザーツと夕立のような音をたてて焼夷弾が落ちてきた。火の勢いが強く、私の家がある付近にも危険が迫った。町内の人たちはいっせいに逃げた。私の家も父を残して、みんな小田原郊外の田園地帯に逃げた。母は弟を背負い、私の手をとって、姉や兄を引き連れて難を避けた。

 たんぽの中で私たちは火勢の衰えと米軍機が消え去るのを待った。火はそれこそ天の河のような巨大な帯となって夜空を覆った。私はあの夜の猛々しい紅蓮の炎に、地獄の恐怖を経験すると同時に、壮大な虚無というか世の終末の不気味な美しさと神ともいうべき別の次元の存在を子ども心に感じたことも事実だった。幸いにも、私の家は戦災免れたが。

 後年この小田原空襲の全容が明らかになった。被害を受けたのは国道一号線をはさんで国際通りの両側にあたり、現在の浜町∵三丁目、本町二こ二丁目に及び宮小路と呼ばれる繁華街を含む。焼失家屋は約四百軒、死者は十二名であった。

 空襲があったのは、十五日の一時〜二時、一機のB29戦略爆撃機によるものだった。米軍はB29で日本の都市を攻撃した際、「作戦任務報告書」という記録を残していた。戦後に公開され、各地の空襲の実態が判明した。

 一九四五年八月十四日の夜から十五日にかけて報告書に載っているのは、陸軍施設や軍需工場があった埼玉県熊谷市と群馬県伊勢崎市への攻撃で、百六十七機のB29が出撃していた。ところが小田原の記載はそこにはないという。B29は爆弾を積んだまま基地に戻ると着陸時に危険なので、余った爆弾を途中で投棄していたこ」とが分かってきた。米軍の公式記録にはない小田原空襲は、熊谷・伊勢崎空襲の帰りにたまたま一機が小田原に焼夷弾を捨てていったのではないかと考えられている。本来被害に遭うはずのない人が犠牲になった無差別爆撃だったのだ。被災者にとっては、なんともやりきれない、腹立たしいような無残な終戦当日の空襲だった。おそらく米軍機による日本最後の空襲だったのではないかとされている。

 現在の平和な日本がいつまでも続いてほしいものだが、私たちの子どもの頃と違って、今の子どもたちはありとあらゆる食べ物や飲み物に恵まれている。 戦争中は貴重品だったココアもなんら珍しくない。だから、ココアに対する私の思いなど老人の感傷にすぎないだろう。また私の戦争体験もいろいろな人の体験談を読むと、ごく軽いものといえる。

 しかし、戦争体験が風化した現在でも、ココアを飲むときまってあの神経を磨滅させるような恐怖に満ちた苦い空襲を思い出すのである。

 

(編者注記)本稿は植田君が2016年10月10日発行の「文章散歩」Vol.87 秋号に掲載されたものを載せさせていただいた。

 



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