ちょっと発表



                                     2014.11.03 山崎 泰
「 私と日本橋 -9- 」

 今回は、歴史と老舗の街人形町を中心にご案内いたしますが、以前も人形町を紹介しましたが、江戸時代の人形町周辺は、花街や歌舞伎小屋の中村座と市村座を中心に江戸随一の歓楽街として栄えており、歌舞伎は当時の上流階級の娯楽であり、一般庶民は薩摩浄瑠璃や人形芝居が人気を博しており、その需要に伴い多くの人形師が住み着き、いつの頃から通り名が人形町通りと呼ばれ、昭和8年に正式に町名を「人形町」とした。人形町通りを境に北東側と南西側に分けて、北東側をご案内いたします。
 地下鉄人形町駅A4出口から小伝馬町方面に160m程に堀留超バス停を右折して次の通りを左折し30m程に戸田屋商店がある。


  「戸田屋商店」                  堀留町2-1-11 TEL 03-3661-9566
 明治5年(1872)初代小林大助が木綿金巾(かなきん)問屋を開業して142年注染(ちゅうせん)の浴衣と手ぬぐいで名高く、注染とは型染め技法を用いて浴衣や手ぬぐいを製造・販売しているが、現六代目は「かって木綿は高価で大事に使われ、反物を浴衣に仕立てて、古くなると手ぬぐいにし、その後おむつとして使い、“おむつ”は反物を六つに切ったことからその名が付き、さらに雑巾にして、最後は生地を裂いてはたきにしていた」と語ったが、私達もおぼろげに記憶に残っている。
 昭和8年(1933)に代表商標名を「梨園染」に改めたが、浴衣は平安時代の貴族が入浴の際着用した“由加太比良(ゆかたびら)”が起源で、手ぬぐいは鎌倉時代に誕生し、江戸時代に広く普及したといわれ、現在では歌舞伎や舞踊の世界を始めとして愛用されているところから「梨園染」の名称で江戸の粋を届けているとのことであり、梨園染製品は浴衣、手ぬぐいをはじめ扇子、団扇、暖簾等に形を変えている。
 梨園染のデザインは、生活や自然、文化に起因しており、その構図はおおらかで大胆、繊細で緻密という相反する性格を持っているとのことで、四季、歌舞伎柄、小紋柄をそれぞれに熟練と職人による手作業であり、梨園染の手ぬぐいは裏表がなく、上から下まで繊維の芯まで染料を浸透させているからだという。
 戸田屋商店から人形町通りに戻り、人形町駅に戻り50m手前にうぶけやがある。

 


  「うぶけや」                   人形町3-9-2 TEL 03-3661-4851
 天明3年(1783)に大阪南区で初代が創業し、幕末の頃長谷川町(現在の堀留町)に江戸店を開業し明治維新前に現在の人形町に移り、現八代目は江戸期から続く職人と商人を兼ね備えた“職商人”として刃物研ぎの技術と継承をまもっている。
屋号の「うぶけや」とは“初毛でも剃れる”包丁、剃刀、“切れる”鋏、“抜ける”毛抜きということから「うぶけや」と名付けられた。
 趣のある外観から店内に入ると、総桑で作られた大きな陳列棚や唐傘天井網代編が見事であり、右側のガラスケースの中に日本で初めて造られた“裁ちばさみ”が飾られており、明治初期に洋服を着る人を見かけるようになり、五代目が入谷の刀鍛冶職人の弥吉に造らせた“裁ちばさみ”であり、長さ40cmで鋏というよりはまさに刀のような鋭さと美しさがあり、現在の店主の感想は“ほっそりとしていてそれでいて鋭く、綺麗であり、当時の西洋ばさみはどちらかというとボッテリとした形だったが、弥吉は勿論西洋ばさみを模写したが、日本の風土や感性を織り交ぜたオリジナリある裁ちばさみを造ったのだと思う”と言う。
 八代目は花柳界の芳町が近く、3歳から長唄囃子を学び、東京芸術大学音楽部で長唄囃子鼓を専攻し、卒業後家業に入り研ぎ師の修行に出され、その際邦楽の稽古ではプロになるものは師匠に教わるのではなく、見よう見まねで覚えるのだと叩き込まれ、それが研ぎの技術の研鑽にも重なり腕を磨き、研ぎの技術も雅楽器の演奏と同じく姿勢や手の角度が重要であり、研ぐ段階で音の変化が起こることも気付いたという。
包丁、鋏、毛抜きを商っているが、鋏でも“裁ちばさみ”や“糸切り鋏”、“赤ちゃん用爪切り鋏”に“食用鋏”といろいろあるが、この“食用鋏”とは“懐中鋏”とも呼ばれ、芸者衆がお客のために食べにくい食材を小さく切るのに使ったのが始まりであるようです。
 230年以上の伝統は現在23歳の九代目に受け継がれ、“若い感性は大事だが職人は芸術家とは違い、一日掛けて1つのものを仕上げるのではなく、均一性あるものを沢山扱い、切れて、綺麗に仕上げることが大切である”と伝えている。
店の奥にある工房では製品のみならず他店の刃物の研ぎ直しも引き受けている。
 うぶけやから人形町通りを人形町駅に戻り駅を越して2つ目の路地を左折して5~60mに㐂寿司がある。

 


  「㐂寿司」                    人形町2-7-13 TEL 03-3666-1682
 明治後半に柳橋に店を構え“芳町の㐂寿司”と言われていたが、大正12年に二代目がこの地に店を移し、置屋を改装して建てた店舗で趣がある。
㐂寿司の味と言えばなんといっても江戸前鮨始祖御三家(浅草弁天山美家古、銀座二葉鮨、華屋与兵衛の与兵衛寿司)の与兵衛寿司の伝統を引き継ぐ正統派江戸前鮨の老舗ならではの隠れた仕事を取り入れた握りであり、今では作れる職人がほとんどいないという品書きに、手編巻きや印籠詰といった名前が載っている。
 昼は2,625円~3,675円の8貫握りが人気で写真は一番安い2,625円の握りで、キュウリ巻、鮪、墨烏賊、かじき、帆立貝、玉子焼き、蛸、こはだ、やり烏賊の煮物に大根のなまり漬けであり、酢で浅く〆たこはだや柔らかく煮た蛤やいかに穴子などは常連客に人気で、いかや穴子に添える“つめ”は、穴子の頭や中骨に鰹節や昆布、大根や人参を加えて24時間煮つめ、手間のかかるこういった作り方をする処は減っており、筋を剥がした鮪やかじきには煮切りが引かれ、形が独特な玉子焼き、おぼろを挟んだ海老であり、シャリは白酢、赤酢、塩だけで砂糖は一切使わず、米自体の甘みを引き立てている。
 素材や材料も厳選し、海老以外はすべて天然ものであり、現三代目と2人の息子で脈々とその伝統の味が引き継がれている。
 㐂寿司を出て人形町通りに向かい一つ目の路地を左に15m程の路地を左折し20m程に芳味亭がある。

 


  「芳味亭」                 人形町2-9-4 TEL 03-3666-5687
 昭和8年(1933)の創業で、人形町の表通りから1本入った閑静な路地裏に、昭和の民家の佇まいでガラス戸をガラリと開けて入る和風の洋食屋であり、1階はテーブル席で急な2階への階段(女性のスカートでは心配)は座敷になっており、明治座で公演する役者や柳橋や深川の芸姑衆や街の人々にも愛され、作家の東野圭吾の作品に出ていたり、向田邦子もこの店が御贔屓で、そのエッセイにも店の様子を描いている。
 洋食屋であるから牡蠣料理やグラタン、ハンバーグ、ポークソテー、ビーフスチュー(この店のメニューはシチューを“スチュー”と記している)等が1,300~1,800円の価格帯であり、コース料理も4,300~8,800円と決して安くはないが、昭和の味とお箸で食べる洋食屋である。
 開店当時から変わらぬ人気メニューが「洋食弁当」であり、並が1,550円で上が2,400円であり写真は上であるが、並みにビーフスチューが入るのが上で、デミグラスソースで煮込んだ柔らかなお肉がたっぷり入ったビーフスチューとロースハム、サクッとした衣と濃厚なホワイトクリームが絶妙なカニクリームコロッケ2個(コロッケ1個と一口カツ1個が普通で希望でコロッケが2個もできる)と爽やかな酸味を効かしたポテトサラダといろんな味が楽しめるが以外と量が少なく、店の中で出すのに“弁当”とかシチューを“スチュー”と記しているのを聞くことを失してしまいました。
 ビーフシチューやハンバーグなどの決め手となるデミグラスソースは“一か月かけて煮込み、何度も濾すことで、なめらかで深いコクとツヤのあるソースに仕上げており、このソースが当店の一押しである。
 芳味亭を出て人形町通りに出てすぐ左に板倉屋がある。

 


  「板倉屋」                 人形町2-4-2 TEL 03-3667-4818
 初代藤井貞三は当初乾物屋を営んでいたが、明治の中頃人形町の名物を模索していたが、菓子専門職人の吉本民生と商品開発を研究し、当時大阪で流行っていた“釣鐘まんじゅう”を元に明治40年(1907)に創業し、当初“焼きまんじゅう”という名前で売っており、その姿は七福神の全身像であったが、現在は顔だけが並んでおり、初代が人形町の名前にちなんで 「人形焼」と命名した。
七福神は布袋尊、弁財天、恵比寿、毘沙門、大黒天、寿老人に福禄寿であるが、板倉屋の七福神には福禄寿の顔が無く、店主いわく“当店の人形焼は六つの神様にお客様の笑顔を合わせて七福神になるのです”と話す。
店頭では1個(100円)から販売しており、カリっとした香ばしい皮の中から柔らかでふっくらとしたこし餡が顔を覗かせ、創業以来の手焼きを守り、素材も全て国産品を吟味し、北海道十勝産の小豆としゅまりという品種の小豆をブレンドしたこし餡や、きめ細かい生地は卵黄に砂糖や蜂蜜などを加えて一晩寝かせ、翌朝メレンゲ状にした卵白と小麦粉を合わせて、三代目と四代目が毎日丁寧に手焼きで仕上げており、保存料や添加物を一切使わないので日持ちは三日である。
 日露戦争時に餡の入手が難しかった頃に、餡の入っていないカステラの「鮎焼」や「戦時焼」(ラッパ、戦旗、戦車、装甲車、ピストル、大砲、鉄兜、背のう、飛行機等)や「レトロ焼」(魚介類等)に煎餅(ビンズ、玉子、絹巻、みそ、格子、生姜つまみ、しそ巻、花一輪、黒子丸)もなかなかのものです。
 この様に記していて二つの疑問が出てきまして、一つは初代から性が藤井で発売元も藤井商店であるのに、板倉屋の名はどうしてか、二つ目は七福神の中で何故福禄寿が抜けたのかであるが、何時か確認してみたいが野暮かな。
 板倉屋から左に甘酒横丁の角に玉英堂彦次郎がある。

 


  「玉英堂彦九郎」              人形町2-3-2 TEL 03-3666-2625
  天正4年(1576)信長に頭が上がらない家康が武田信玄と戦いの真最中の頃、京都で玉英堂を創業して以来、様々な銘菓を手掛けていたが、江戸時代から御所に菓子を納める“御州濱司(おんすはまつかさ)”の称号を授かったことから、州濱の形が紋のモチーフになっている。
江戸開府と共に、江戸進出の折に考案された菓子が、当主が三代にわたって寅年生まれだったことから「虎家喜(とらやき)」と名がつけられ大好評となった。
 “彦九郎”と名前が付いているのは、寛政の三奇傑(林子平、蒲生君平、高山彦九郎)の尊王思想家で吉田松陰をはじめ幕末の志士と呼ばれる人々に多くの影響を与えた人物で、二宮尊徳や楠正成と並んで戦前の修身教育にも取り上げられた、高山彦九郎が酒を飲みに来た店ということでその名をつけたとのことで、店の隅に木像の高山彦九郎が鎮座している。
昭和29年に甘酒横丁の通りの名前の由来となった甘酒屋の「尾張屋」の跡地に移り、ここを本店としたが、尾張屋がどうなったかは定かでない。
 「虎家喜」はたんなるどら焼きではなく、秘伝の技法で作られた皮は驚くほど柔らかく、餡は小豆そのままの食感を生かした粒餡をつぶさずに使っており、一見ハンバーガーに似ており、とらやきの包の中に薄いパラフィンが皮に張ってあり、それを剥がすと皮に虎模様が浮き出る趣向である。
 もう一つも見た目からは想像がつかない品があり、写真に載せましたが、この店の代表作の「玉饅(ぎょくまん)」であり、素朴な紅白の饅頭のように見えるが、中身はカラフルな5色の層になっており、栗を中心につぶし餡、紅で染めた白餡、うぐいす餡を重ねて山芋で作った皮でくるんでいる。重なった皮と餡の繊細なハーモニーをじっくり味わえる「虎家喜」は1個280円で「玉饅」は1個650円と高価であり、お祝い事やお土産には大変喜ばれるようである。
 玉英堂彦九郎を出て、甘酒横丁に入り左手に双葉がある。
 

 


 次回は引き続き人形町通りの北西部をご案内いたします。

                                       つづく


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