ちょっと発表



                            2014.12.04  山崎 泰
「 私と日本橋 -10- 」

 今回は、前回と同じく歴史と老舗の街人形町を中心にご案内いたしますが、先ず前回でご紹介した玉英堂彦九郎を出て、甘酒横町に入り左手にある双葉から紹介します。

 

  「双葉」                   人形町2-4-9 TEL 03-3666-1028
 人形町の甘酒横丁にある豆腐屋の双葉は、明治40年に深川で創業し昭和23年にこの地に移ってきた。
写真の風情のある竹筒に入った「竹豆腐」には日本橋らしい逸話があり、かって隅田川沿いには料亭がひしめき合い、春は花見、夏な花火、秋は月見の屋形船を出していたが、それに供する品の豆腐が人気であったが舟の揺れでガラスや陶器の器から飛び出すことが多かったので、それを防ぐ策として竹筒に流し入れることを思いついたのだそうです。
 他に名物の通常の10倍もの大きさの「ジャンボがんも」は、三代目の遊び心から生まれた商品で、30数年前に大きさの違うがんもを重ねて年の瀬に“お供えがんも”として売り出したところ〝美味しい”と評判になり商品化し、家庭で煮る際には味付けの前に茹でこぼすのがコツで、つなぎの大和芋がふっくらと膨らみ、味がしみやすくなる。
 1階は豆腐商品売り場で、2階は豆腐料理屋で、3階は宴会場となっており、2階で出汁のしみた人参、切り昆布、銀杏、栗の入った熱々のがんも類や豆腐がいただける。
 竹豆腐にはプレーン、ゆず、黑胡麻の3種類があり、通常は店前でいただくもので、お塩で食するようになっており、持ち帰りはフタ付きで別料金となる。
 大豆は青森産の“おおすず”を使用し、他に豆腐、厚揚げ、豆腐で作ったドーナツ、ソフトクリーム、甘酒ソフト、湯葉、銀杏がんも等数多く、特に甘酒が有名である。
 双葉からさらに清洲橋通りに向かい、右手に新川屋佐々木酒店がある。

 


  「新川屋佐々木酒店」             人形町2-20-3 TEL 03-3666-7662
  大正4年(1915)に富山県より上京した初代は新川屋佐々木酒店を創業、現在の店主は三代目になるが、当時人形町は芝居の町で料亭が建ち並び花街として賑わっており店も繁盛していたが、2001年に酒類販売の免許制が緩和されたためにスーパーや大型量販店が発泡酒の人気と共に台頭してきて、一般の酒屋は厳しくなったが、そんな中でも日本中の蔵元に足を運び、他店では扱えない珍しい酒を取り揃えている。
 日本酒の普及にも努め、人形町の料亭で試飲会を年2回開いたり、ワインにも力を入れるようになり、ボジョレ・ヌーボーの解禁日には午前0時と共に“いち早く飲む会”を開催しているが、この店主は店の仕事より商店会の仕事の方に一生懸命であり、7年前に甘酒横丁に「甘酒横丁商店会」を発足させ、当初より現在も会長を務め活動に努力している。
 甘酒横丁と交差する浜町緑道のソメイヨシノや大島桜の並木があることから、“甘酒横丁を広く知ってもらいたい”との会の主旨もあり、毎年開花日に合わせて「桜まつり」を開催しており、人形町の歴史と文化が詰まった町で、昔ながらの商店街の生活感溢れているところを見てもらいたいといっている。
 当店は酒粕ではなく、麹から作る本格的な甘酒「おこめ姫」がノンアルコールなので子供にもOKであり、桜まつりには無料で振る舞われている。
 佐々木商店から2~3軒さきに、にんぎょう町草加屋がある。

 


  「にんぎょう町草加屋」            人形町2-20-5 TEL 03-3666-7378
 埼玉県の草加で煎餅つくりを手掛けていた先代の石川とくが昭和3年(1928)にこの地に店を構えて、昔ながらの製法と味を守り続ける「にんぎょう町草加屋」である。
 草加煎餅で大事なことは、うるち米をセイロで蒸すことと、焼く際に備長炭を使うことであり、蒸すことでコシのある美味しい生地が出来上がり、備長炭の遠赤外線が米のうま味と甘味をひきだすとのことで、200℃以上の高温になると米のうま味が損なわれ、一気に火を通すのではなく、じっくりと焼いていき、焼きあがったらすぐにジュッと醤油に絡ませ、熱いうちでないと中まで味が染みないとのこと。
 人形町にはかって末広亭があったことから、噺家の三代目桂三木助が「手焼煎餅」をこよなく愛し、パリッとして歯ごたえの生地に醤油タレの味が染みこみ、なんとも深い味わいがあり、金庫に隠してまでして食べたといい、17代目中村勘三郎の注文で作り始めた「おこげ」も人気であり、写真の左が「手焼煎餅」で右が「おこげ」で、おこげは焼き目が香ばしく通好みの一品であるが、それぞれ一枚でも売ってくれるが一枚100円と多少高いと思うが、これも「新参者」の利得かな、2010年に東野圭吾原作で阿部寛主演の「新参者」にも登場した店で、市川悦子がこの店で煎餅を焼いていたとのことで、ドラマの後は人気殺到で人だかりが大変だったようです。
 手焼煎餅やおこげの他に、あまから煎餅、胡麻煎餅、まつり煎餅、海老煎餅、やわらかぬれ餅など多種あるが、私は味は変わらないので割れ煎餅を買ったことがある。
 草加屋から甘酒横丁を清洲橋通りに出て右折してすぐに港屋がある。


 


  「港屋絵草子店」               浜町2-18-5 TEL 03-5640-5978
  この店の名に記憶があると思いますが、「私と日本橋(3)」で、大正ロマンを代表する天才画家として人気を博した竹下夢二が大正3年に自らデザインした小物や絵葉書等を日本橋呉服町(現八重洲1-2)に妻が創業した「港屋絵草子店」の記念碑を紹介しましたが、その流れをくむ日本で唯一の竹下夢二専門画廊の港屋が、20数年前に明治座の斜め前に「港屋絵草子店」として様々な夢二の手彫木版画の復刻版や作品の絵をあしらった絵葉書、便箋、ハンケチ、風呂敷などのグッズを所狭しと並んでおり、夢二が人々の日常生活を豊かに美化するための小物を描き作らせたように、熟練の目利きが集めた品々は、誰かへのお土産や贈り物に、また自分の傍に置いておきたいという気にもさせられる夢二の夢物語が香るそんな店です。
 港屋絵草子店から清洲橋通りを超えて、(仮)水天宮の脇を浜町公園に出て、右折して50~60mに濱甼高虎がある。

 


  「濱甼高虎」                 浜町2-45-6 TEL 03-3666-5562
  江戸時代から職人の町日本橋浜町に昭和23年(1948)に開業したが、前身は人形町に江戸後期に創業の染元「紺屋」であり、それから数えると六代目位になるが、紺屋の技術を受け継ぎ今でも染色工程にまで関わり、半纏や暖簾、手ぬぐいや袋物などを仕立てており、江戸っ子たちが出かける際に一切合財のモノを入れた「合財袋」やお守りを入れた「掛守」が、今でも手軽に求められると人気である。
 使いやすさは勿論、描かれている判じ絵も洒落が効いており、たとえば玉の中に下駄を描いて“たまげた”や骸骨がキセルで一服する“骨休め”など図柄として見ても面白いが、種明かしされるとより魅力的にみえてくる。
 昔からの袋物だけでなく、現代のトートバックや火消半纏に使われた刺子や、古典図案を染め抜いた手ぬぐいなど、古くて新しい価値を紡ぐ江戸っ子気質の店あり、店主は手ぬぐいを「喧嘩かぶり」という小粋にかぶり、半纏姿で店の奥に座り、軽妙洒脱な語り口で来客と打ち解け、喧嘩かぶりの結び方まで教えてくれるという。
 現代では着物を着る人が減って、先代から“これからはお前の好きなことをやれ”と言われ、江戸の心を伝えつつ職人の技を活かせる仕事を考え、半纏や手ぬぐいのほか、多数の袋物や「合財袋」「掛守」という商品を考えて伝えている。
子供の頃から絵を描くことが好きだったようで、判じ絵や半纏、手ぬぐいのデザインを考え、スタッフは6人しかいないが、型染めの工程、図案描き、型紙彫り、紗張り、のり置き、染め付けとあるが、昔は別々の職人が行っていたが、専門職人が減って今では一人三役ほどを熟しているようであり、店主は歌舞伎や芝居の造詣も深く、今でも全国の祭りにも参加しその地の半纏のデザインも手がけており、小唄や清元も趣味で、体に染み込んだ江戸っ子の粋な経験がデザインにも生かされている、と感じさせる御仁である。
 濱甼高虎を出て浜町公園沿いに新大橋通りに出て水天宮通り(人形町通り)に戻り、工事中の水天宮の角に重盛永信堂がある。

 
 

 

  「重盛永信堂」                人形町2-1-1 TEL 03-3666-5885

 初代重盛永治が長野県の伊那から上京し、東京の煎餅屋を振り出しに大阪でも修業し、大正6年(1917)に創業したが、関東大震災に街が瓦礫となったが、店の地下室に機械を運び込んだことで焼き型が難を逃れ、しばらく中野で営業していたが、昭和初年に現在地に移転し、修業で考え出した「ゼイタク煎餅」を発売して大ヒットした。
昭和の初期から戦時中にかけては卵や砂糖は貴重品であり、それらをたっぷりと使った“贅沢な”お菓子ということで「ゼイタク煎餅」の名がつき、たまご風味たっぷりのやさしい味であり、他に小粒のフライビンズが入ったビンズ煎餅や格子戸に似たように焼いた格子煎餅、小判型煎餅、生姜煎餅などがあり、勿論、板倉屋とも覇を競っており(人形町には3軒の人形焼屋がある)人形焼、登り鮎、つぼ焼きなどもある。
現在の三代目当主は、高校を卒業と同時に父親にしごかれ修業し、20歳代から人形町商店協同組合の理事となり、広報や宣伝活動に奔走し、54歳で理事長に就任し、その後中央区商店街連合会の会長にも任命された。
昭和51年に仲間と共に人形町商店街の20年史の「にほんばし人形町」を編纂発行したり、人形町通りにある2台の“からくり時計”も彼の発案で製作され、は組の半纏や梯子乗りや鳶頭の衣装など忠実に再現されているとのことである。
“商店街は自分の生活の場だから発展するよう力を尽くすのだ”との父の言葉をそのままに、人形町の活性化に尽力している。

 

 

 次回は人形町通りの南西側をご案内いたします。

                                      つづく


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