ちょっと発表



                                     2015.03.22  山崎 泰
「 私と日本橋 -12- 」

 人形町通りの南西部の続きをお届けいたします。
前回の魚久から人形町通りに向かい50m程に小春軒がある。

  「小春軒」                   人形町 1-7-9    TEL 03-3661-8830
 洋食屋の小春軒は山県有朋のお抱え料理人だった小島種三郎が女中頭であった春さんと結婚したことから小春軒の名がつけられ、明治45年(1912)に人形町に開店し、当時人形町は何時も言いますが花街であり芸者衆も多く、ハイカラが流行る頃であり洋食が人気となり、現在は3代目、4代目で店をやっているが、初代は洋食と和食の素養もあり、この店の逸品のカツ丼を考案した。
 
 当時、目玉焼きをのせたカツ丼は相当な高級品であったが、隣の蠣殻町には前回にも述べました米穀取引所があり、米相場で当てた一攫千金の大尽や、験担ぎの意味も込めてカツ丼を食べにくる客が多かった。

 洋食屋であるのでカツ丼だけではなく、メンチカツやとんかつ、ポークソティーや創業時よりのメニューに、カジキマグロのフライやコロッケ、ホタテフライ、烏賊のバターソティーなどを盛り合わせた「特製盛り合わせライス」も人気であるが、話をカツ丼にもどるが、一般的な和食のカツ丼とは全く異なり、丼の蓋をあけると “エッ” と驚きと常識が混沌とするものが目に入るが、ご飯の上に割下とデミグラスソースを合わせた和洋折衷の特製ソースをくぐらせ一口サイズにカットされたカツの上に半熟の目玉焼きをのせ、その上に四角く切りそろえたジャガイモやニンジン、玉ねぎを特製ソースで甘辛く煮てグリンピースを乗せてあり、半熟の黄身を潰し、かっ込んで食べるのが美味である。

 当店は「出来立てを食べてもらう」をモットーとしており、何の料理も注文を受けてから作るため、洋食屋の定番のオムライスが無くオムレツライスはあるが、オムライスはチキンライスを前もって作っておかなければならず、注文を受けてからでは時間的に難しいからとのことであり、先のカツ丼もカツと目玉焼きと野菜を頃合いよく仕上がるように三代目と四代目の“阿吽の呼吸”で作り上げ、下町の味を守って102年で、これからも愛される老舗洋食屋で頑張ってもらいたいが、店内に一人の “おばちゃん” (女将)の対応はいまいちで、注文忘れや注文違いが日常のようであるが、客はあまり文句も言わないようであるが、これも老舗のれんのなせることなのか。 小春軒から人形町通りに向かい次の路地角に玉ひでがある。

 


  「玉ひで」                   人形町 1 -17-10   TEL 03-3668-7651
 
 人形町の一角に風情ある白壁に沿って昼時お目当ての “玉ひでの親子丼” 目当てにいつも長蛇の列ができるが、宝暦10年(1760)学者肌の10代将軍徳川家治が即位し、田沼意次が台頭してきた頃、御鷹匠の家に生まれた山田鐡右衛門が将軍家の御鷹匠仕事 の傍ら、妻たまと共に現在の人形町三丁目に当たる地に屋号「玉鐡」と称して軍鶏専門の店を創業したのが始まりである。

 「御鷹匠仕事」とは “将軍家の御前で鶴を切る厳議(?)に由来する格式の高い包丁さばきであり、締めた鳥の血を見せることなく直ちに骨と身に取り分け、肉に手を触れずに薄く切る練達の秘宝である” と言われており、嘉永時代の名物店番付「江戸五高昇薫」にも鳥料理五店に選ばれ、明治8年(1875)には「東京牛肉しゃも流行見世」の番付に載るなど、昔も今も超有名店であり、行列のお目当てである親子丼であるが、明治20年頃鳥すきの締めた肉と割下を卵でとじて、ご飯と共に食されたお客がおり、これを“親子煮”と称していたが、明治24年に五代目山田秀吉の妻“とく”が、この親子煮を食べやすくする為にご飯の上に乗せて一品料理としたのが、我が国初の「親子丼」で、お出前として兜町、日本橋魚河岸を中心に宣伝され、全国に広まったといい、明治30年に五代目の秀吉が“玉てつの秀さん”とお客さんに人気となり、明治31年の毎日新聞による料理店の人気投票の番付に「玉秀」と投票されて以来、「玉ひで」の屋号となった。

 親子丼が有名であるが、割下で食べる「すき焼き」も現在の飲食店としては日本最古であり、その割下ですき焼きにした「軍鶏鍋」は絶品であり、昼の親子丼は
そぼろ親子丼(1,300円)、元祖親子丼(1,500円)、白レバ親子丼(2,000円)、極(きわめ)親子丼 (2,000円)があるが、私は現役時代に昼の親子丼は30~60分も待つことが出来ず食べておらず、夜のコースでの軍鶏鍋は美味しかったのを覚えている。

 現八代目が熟成軍鶏を使った「熟成軍鶏しゃぶ」も人気のようであるが、先ごろ昼の親子丼を試みてみたが、“元祖親子丼”を待っている間に食券を買わされ、31分後に食したが、軍鶏の2種類の肉の親子丼であったが、通常の鳥の親子丼との違いが私には判らなかったが、短時間に大量のお客をさばくのに、流れ作業のように合理的なシステムに成っていて、何の風情も余裕もないことに、歴史が泣いている感じであった。 玉ひでから人形町通りに出て、右折して水天宮(再建中)の方向に100m程に甘味処初音に付く。

 


  「甘味処 初音」                人形町 1 -15-6     TEL 03-3666-3082
 
 創業は天保8年(1837)で外圧が強まりアメリカ商船モリソン号を浦賀で撃退事件や大塩平八郎の乱が起こった時であり、東京で一番古い老舗甘味処であり、屋号の由来は歌舞伎が好きだった初代が「義経千本桜」に登場する「初音の鼓」に因んで名付けられたようで、店内を見渡すと「鼓」の模様が見られ、壁にかかる大正時代の店の写真には
しる粉の文字の他にみつ豆ソーダ水とあり、どうやら明治の終わり頃からこれらのメニューがあったようだが、江戸時代には砂糖は高価でおしる粉には使えず、餡には蒸したさつま芋で甘味を付けていたこともあったという。

 七代目の女将さんは昔でいうしる粉屋で、昭和45年頃までは、まだ桃割れを結った半玉さんたちが、ジーパン姿でお稽古帰りにアイスクリームやおしる粉を食べに来て、ひとしきりお喋りして、着替えて「これからお座敷です!」なんてとこれまた昔の花柳界の名残りの町であったが、店に入ると店の奥に茶釜があり、その都度茶釜から柄杓でお湯を急須でお茶を出してくれたり、店のメニューの種類が多く、あんみつだけでも数種類あり、お客の要望を聞いているうちに多くなったようで、そんな気配りを感じる。
皇后美智子様も召し上がったという「御前汁粉」やカリフォルニア産のセミドライの杏がたっぷりの自慢の「杏みつ豆」などがあるが、地下が仕込場になっており、餅は勿論毎朝突き立てで、餡は北海道産の小豆、寒天は伊豆諸島産の天草、黒蜜は沖縄諸島の黒糖を用いた自家製で頑張っているが、私が少し首を傾げたくなることが二つあり、一つはショーウインドーにミク人形がディスプレイされていることと、2階が甘味処と釣り合わないもんじゃ焼きかお好み焼き屋になっていることである。 初音を出て右に水天宮(工事中)に向かって新大橋通りの交差点角に三原堂本店がある。

 


  「三原堂本店」               人形町 2-14-10      TEL 03-3666-3333
 
 水天宮の門前町のはす向かいに明治10年(1877)に初代三原宗元が創業し、昔ながらの和菓子から洋菓子と店自慢のどらやき、塩せんべい、豆大福と多種を扱う菓子店舗であり、創業当時の水天宮は五の日だけが一般参拝が許されたが、五の日以外の日にやって来た参拝客に水天宮のお守りを店が預かり分けていたという。
そんな水天宮との深い関わりから生まれた「お守り最中」に、水天宮の護符を型どった最中で粒餡をたっぷり詰まったもので、縁気ものだけでなくその味が時代を超えて愛されているとのこと。

 余談であるが、「最中」はもともと丸い形で現在の皮だけで、餡が入ってはおらず、皮そのものに甘味を付けており、満月の月を表す「最中の月」から「最中」と名付けたようである。
当店で他に特質するものに、「塩せんべい」や最も有名な「どら焼き」があり醤油入りの濃い皮が特徴でモッチリした皮に相性抜群のあっさり粒餡が特徴であり、「豆大福」も人気である。

 餡は北海道十勝産のえりも小豆を丁寧に練り上げた上品な味で、中にはラム酒を入れることもあるようですが、なんといっても店内で熟練の職人が由緒ある和菓子をはじめ、煎餅や餅菓子の素朴系菓子から練り切りなどの上生菓子、さらに洋菓子も揃えて菓子を作る様子が見られることも自信の歴史を感じさせる。 三原堂本店から多少遠方になるが、新大橋通りを日本橋川方向に鎧橋に向かい、鎧橋の一本手前を右折して50mほどにうなぎ㐂代川がある。

 


  「㐂代川」                  小網町 10-5       TEL 03-3666-3197
 
 創業は明治7年(1874)に初代渡辺伊三郎に開店し、小網町のビル街の細い路地にあり、風情漂う数寄屋造りの一軒家で一階はテーブル席で二階はゆったりと落ち着いた座敷がある。
 次男にかの有名な文人の宮川曼魚(まんぎょ)がおり、鰻の文字を二つに割って曼魚とし、自分も深川で宮川という鰻屋を営む傍ら、社会風俗をテーマにした随筆を発表し粋な文人としてならしたことで有名である。

 㐂代川の鰻はお江戸日本橋らしく江戸前の気風を守っており、鰻は勿論江戸の武家社会の切腹を嫌う背開きで、蒸しのきいた身はふわっと柔らかく、タレは辛めで程よく脂が落ちてさっぱりといただけ、備長炭で一枚一枚丁寧に焼き上げており、まず強めに焼いてからじっくり蒸してもう一度焼くが、うま味を逃がさないよう二度目はパッと一気に焼き、これも江戸前の伝統がなせる技である。
 当店の二階には渡辺淳一原作の小説「化身」の舞台にもなっており、一間(3畳間)にはヒロインの名にちなんだ「霧子の間」と呼ばれているそうです。

 この風情ある建物も耐震強度増のために、去年の秋から出来る限り元の風情を残した改修工事がなされ、今年2月12日に再開したようです。 㐂代川から新大橋通りを人形町通りに戻り、右折して首都高速道路の箱崎Jctまで行き高速道路の下の道を右折するとミュゼ浜口陽三ヤマサコレクションに着く。
 

 

 

  「ミュゼ浜口陽三ヤマサコレクション」      蠣殻町1-35-7     TEL 03-3665-0251
   (カフェ・ミュゼ・アッシュ)

 
 江戸初期より銚子から利根川水運を経て、江戸へ盛んに醤油を運んでいたヤマサ醤油の10代目浜口儀兵衛の三男として生まれ、浜口家は代々南画を学んだり、収集したり芸術に秀でた人物が多く、陽三もカラーメゾチントという独特の銅版画技法を開拓し、その卓越した技術を創出した。

 1998年に蠣殻町の醤油倉庫を美術館に改装し、この美術館内にカフェ・ミュゼ・アッシュを併設し、“あまじょっぱい”アイスを出しており、この味の秘密はヤマハ醤油がデザート用に開発した
黒蜜風醤油で、「酸味とほろ苦さが調和した少しとろみのある醤油で、ざっくり混ぜてマーブル状にすると濃い部分の “しょっぱさ” を感じつつバニラアイスの “甘さ” と溶け合って、調度いいまろやかさになる」とのこと、ヤマサ醤油の銚子工場では醤油を均一に混ぜ込んだソフトクリームやアイスに直接醤油をかけて食べさせる「マーブル醤油アイス」が人気である。
 他に私は知らないが代々木上原で人気な
LECAFEDNBONBON の自慢のケーキを求めて来店する方もおられるとのこと。

 美術館が主体であり当然拝観料600円が必要であるがここのカフェで飲食する時には全て200円割引となり、美術館の中でお茶をゆっくり嗜むことが出来、至福の時間を過ごすことはいかがですか。

 

 

 今までご紹介した老舗は私が訪問したり食した店であり、「日本橋区」にはまだまだ多くの老舗がありますが、一応この辺で一段落とさせていただきます。

 また「日本橋区」のテーマが見つかりましたら、「私と日本橋」で投稿させていただきます。 5年間もの間ご購読有難うございました。

                                      


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