この時勢での我が家の行動は、父は今の東京電力の前身の関東配電の前の富士電力に勤めており、当時すでに開戦を察知し、当時の甲種上級職(現在の国家公務員資格)を取得していたため、そのうえ私が生まれたばかりでもあったので、出来るだけ召集を遅らせてもらうことも考えて、昭和16年4月に帝室林野局(現在の林野庁)に転職し、天皇の林野(現在の国有林)を守る職であったが、召集は昭和19年末の37歳であり、当時富士電力の月給は68円であったが帝室林野局は38円で、母親は全く困ったようであるが、父の配属部隊は600名の部隊であったが残務整理のため7名が残された一人で、7名以外の方々は輸送船への魚雷攻撃で全員戦死とのことでしたが、今思うに転職して3年半の父の判断が良かったのかどうかは考えさせられる。
それ以前の軍部主導の閣議で、次のような決定事項が大勢であり、“南方施策促進に関する南部仏印進駐方針を決定し、それに備えて対英米戦に準備し、対英米戦も辞せず、対ソ戦には即時参戦でなく、時期がくれば参戦する”とあり、昭和16年11月5日の「帝国国策遂行要領」では、
⒈ 帝国は現下の危局を打開して自存自衛を完うし大東亜の新秩序を建設する為、此の際対米英蘭戦争を決 意し、次の措置を採る
① 武力の発動の時期を12月初頭と定め、陸海軍は作戦準備を完整す
② 対米交渉は別紙要領に依り之を行う
③ 独伊との提携強化を図る
④ 武力発動の直前泰(タイ)との間に軍事的緊密関係を樹立す
⒉ 対米交渉が12月1日午前零時迄に成功せば、武力発動を中止す とあり、初めから交渉は二の次で不可 能と踏んでいたことがうかがえる。
昭和16年12月1日の御前会議にて、「11月5日決定の“帝国国策遂行要領” に基く対米交渉は遂に成立するに至らず、帝国は米英蘭に対し開戦す」と決定したのであった。
12月8日に予定どおり決行せよと発信したが、アメリカのハル国務長官のハル・ノートや回想録によると、日米交渉の打電内容や日本軍の発信内容は、全て解読され、手のうちは読まれており、一説には日本の真珠湾攻撃は、アメリカ国内の反戦活動が強まっていたため、ワザとやらせ、“リメンバー・パール・ハーバー”のもと大統領と一致団結させ、開戦の口実を作ったともいわれているが、予想以上の被害にあったようである。
(現在でも、同盟国である日本に対しても、ウイキリークスに暴露されているように、全てと言ってよいほど盗聴されているといっても過言ではない。)
同じ日に、日本が頼みとしていたドイツ軍は、モスクワを目前に猛吹雪の中で後退を開始したのであった。
真珠湾奇襲は日本にとって成功であったが、一方アメリカやイギリスの結束を強化する役割も果たしたこととなったが、これに反し、枢軸国陣営の中では軍事協定も結ばれていたにも関わらず、実際にはその後、第二次大戦中を通して、共同の戦争を遂行するための軍事協力関係は、ほとんどなかったといってよい。
いままで述べてきたように、各国間の条約がいかに簡単に破られたり破ったりで無力なものであるか、どこかの国も少し歴史の見直しと勉強が必要かもしれないと。