ちょっと発表



                                     2016.03.03  山崎 泰
   紀元2600年  - その4 -

   吾等幼少時代

 前回までは我々が生まれて、戦争あり、敗戦となり、飢餓と戦い、占領下国家となり、講和条約および安保条約締結を昭和26年9月8日に調印し、一応独立国家になったが、これまで11年間、小学校4年生になっていた。
 
 戦争体験者も少なくなり、我々が記憶上でも最後の年代であるが、私の戦争経験と言えば、母親が妹をおぶって竹やり訓練に出かけ、留守番をさせられたことや、昭和20年5月ごろ、旭川に戦闘機2機が待機していたが、空襲警報が鳴りだし、その2機が離陸していくのを石狩川で遊んでいた私は面前で、水平飛行になる前に雲間から出てきた敵機4機に撃墜させられたのを見せつけられ、あわてて防空壕に潜り込んだ記憶がある。
その2~3日後に、防空壕から出て小便をしていた時に、米軍機に機銃掃射を受け、母親が私の襟首を掴んで防空壕に引きずり込んだが、その際の機銃の破片で左ひざの後ろに傷を負い、今でも傷痕がのこっている。
また前述したが、米軍進駐時の落橋修復を見せつけられたことが、今でも頭の中にはっきりと残っていることであるが、皆さんもそれぞれの大変な経験がおありのことと存じます。

 昭和22年4月に小学校に入学したが、前述したように昭和22年3月に教育基本法及び学校教育法が公布され、その為かどうかは時間的に定かでないが事前に対応していたこととおもいますが、カタカナからひらがなに急きょ変わったことを述べましたが、同じように我々が入学時に小学校の全学年の音楽教科の歌が決められており、以下に記述しますが皆さん覚えておられますか、我々1年生の歌は題と出だしの歌詞を記しますと。
「みんないいこ」(お花を飾るみんないい子)、 「はな」(私のまいた花の種)、 「ちょうちょう」(蝶々蝶々菜の葉にとまれ)、 「むすんでひらいて」(結んで開いて)、 「わたしのひつじ」(メリーさんのひつじ)、 「ぶんぶんぶん」(ブンブンブン蜂が飛ぶ)、「きんぎょ」(ひらひら泳ぐ)、 「かたつむり」(でんでんむしむし)、 「あさのうみ」(きらきら光る)、 「まりなげ」(まあるいマリ投げましょ)、 「おうま」(お馬の親子は)、 「すずめ」(庇の上をことことと)、 「おむかえ」(どこかの時計が)、 「おつきさま」(出た出た月が)、 「はとぽっぽ」(ポッポッポ鳩ポッポ)、 「にばしゃ」(荷馬車が通る)、「日のまる」(白地に赤く)、 「たこのうた」(凧々あがれ)、 「ゆき」(雪が降るちらちら小雪が)、 「すずめのおやこ」(雀のお宿はどこだ)、 「こうもりがさ」(コウモリ傘借りましょう)、 「こなひき」(ごろごろ日向で粉ひき)、であったようで、皆さん記憶にありますか、ちなみに2年生の歌の一部を紹介しますと、

 「くつがなる」(お手手つないで)、 「さんぽ」(若草もえる丘の道)、 「虫の声」(あれマツムシが鳴いている)、 「かかし」(山田の中の一本足の)、 「雪」(雪やコンコン)、 「春が来た」(春が来た春が来た)、 「花火」(ドンとなった花火が)である。

 その他に児童唱歌がたくさんあり、題名だけ紹介しますと、 先般7組の斉藤さんが紹介していた「みかんの花咲く丘」や「ホワイトクリスマス」、「旅愁」、「われは海の子」、「浜辺の歌」、「朧月夜」、「赤トンボ」、「埴生の宿」、「荒城の月」、「花」、「汽車」、「椰子の実」、「この道」、「早春賦」、「叱られて」、「夏は来ぬ」、「里の秋」、「どこかで春が」、「花嫁人形」、「からたちの花」、「故郷の空」、「夕やけ小やけ」、「牧場の朝」、「月の砂漠」、「浜千鳥」、「砂山」、「証城寺の狸囃子」、「村の鍛冶屋」、「小さい秋見つけた」、「箱根八里」、「肩たたき」、「たき火」、「とおりゃんせ」、「しゃぼん玉」、「汽車ポッポ」、「お馬の親子」、「どんぐりころころ」、「赤い靴」、「ずいずいずっころばし」、「雪やこんこん」、「めだかの学校」、「七つの子」、「せいくらべ」、「かたつむり」、「かくれんぼ」、「春の小川」、「青葉の笛」、「五木の子守唄」などがある。

 太平洋戦争が終焉し「戦後」という名のもとに、大人たちも新しい時代の希望と原動力にして歌ったと思いますが、戦後の流行歌・歌謡曲を抜粋して、やはり題名だけ紹介すると、 「リンゴの唄」、「朝はどこから」、「雨のオランダ坂」、「夜のプラットホーム」、「山小舎の灯」、「東京ブギウギ」、「フランチエスカの鐘」、「湯の町エレージ」、「青い山脈」、「長崎の鐘」、「憧れのハワイ航路」、「かえり船」、「テネシー・ワルツ」、「東京キッド」、「イヨマンテの夜」、「夜霧のブルース」、「港が見える丘」、「白い花の咲くころ」、「東京の花売り娘」、「ゲイシャ・ワルツ」、「リンゴ追分」、「悲しき口笛」、「啼くな小鳩よ」、「悲しき口笛」、「薔薇を召しませ」、「上海帰りのリル」、「異国の丘」、「三味線ブギウギ」、「君待てども」、「東京の屋根の下」、「銀座カンカン娘」、「夜来香」、「夜霧のブルース」、「星の流れに」、「かえり船」、「岸壁の母」、「月がとっても青いから」などが歌われていたが我々が中学校に入学ころからは経済成長に伴い歌謡曲もだいぶ変わってくるようです。

 当時の児童誌には文化的な記事や一方で読み物や絵物語が中心で漫画も載せられておりますが、「少年倶楽部」や「少年」、「冒険活劇文庫」、「ひまわり」、「おもしろブック」、「野球少年」、「漫画少年」などがこのころ出版されており、皆さんも懐かしく思い出されることとおもいます。 このころの皆さんの遊びはどうでしたか、私の仲間との遊びは、メンコ、缶けり、鬼ごっこ、ベーゴマ、ビー玉、などを想い出しますが、一週間に一度来る紙芝居屋の親父さんが、拝観料のお返しに水あめをくれ、それを竹のはしでこねて、白くなると親父さんの判定で別にセンベイがもらえたのを覚えていますが、今と違い家の中の遊びに記憶は無く、全て外での遊びだったことですが、女の子の遊びは室内のこともあったかも知れませんね。

   独立後の国内政治

 前回の後段で、講和条約と安保条約に関して、サンフランシスコ体制の経緯と歴史的にみて、次のような構造的問題が残っていた。
  1. 暫定的であって恒久性はないということであるが、暫定的とはどのくらいの時期を意味しているかが定かでない。
  2. 日本の安全保障と国連憲章との関係で、その枠内で解決されうることである集団安全保障が、独立以前の日本としてそれはできえず、国連加盟が許されるまでの暫定と考えられていた。
  3. 日本の自主防衛に関して、前回記述した安保条約の前文にもあるが、とくに米国は二国間もしくは多数国家間の集団安全保障には、自主防衛と相互援助とを条件としている国であり、日本の保守政権としては、やがて憲法の認める範囲内で自主防衛の道をたどらざるをえず、日本の自主防衛がなるまでが、暫定期間と考えていたが、現在問題になっているように、憲法改正を必要としていた。
  4. 日本国憲法との関係で、講和問題展開の当初から、国内には平和憲法の主旨から、多くの憲法学者や社会党による非武装中立政策の主張があり、憲法解釈の問題となる。
  5. 二つの世界の冷戦構造の所産により、自由陣営の反共的体制であり、米国の極東戦略に基づく反共的体制がサンフランシスコ体制のもっとも本質的な性格であるとみられている。
 これらの構造的問題が現在にも影響しているが、独立が回復され、議会制民主主義が生かされなければならない時に、それまでGHQの言いなりに行動してきた日本政府が、急に率先して指導的な立場で取り組まなければならないのに、講和条約批准をめぐる保守・革新の対立が増し、反対党や国民世論を説得し、納得させるにはそうとうの期間が必要であり、また多数決方式で万事ことを運ぶことに、政党や国民の自覚を高めてゆくことが先決問題のようであった。国権の最高機関である国会は、それまで明治憲法下に持続されてきた議事運営も米国式の常任委員会方式が導入されたり、国会権威のシンボルであるべき議長の権威も地位もいまだ確立されず、国会の議事運営を能率化するには時間がかかっており、政治の状況は明らかに混乱状態であり、そこに占領下にあって抑えられていたナショナリズムの台頭という、見逃すことのできない一つの基本動向が現れ、国民が主体であるべきナショナリズムが不在であり、かくて保守派は、暴力主義的破壊活動を規制するための破防法の成立を急いだ。

   破壊活動防止法

 マ元帥に代って連合軍最高司令官となったリッジュウエイ中将は、講和にそなえて、占領法規を再検討することを許可したため、吉田内閣は財界や新聞界、学界から委員を加えて政令諮問委員会を設置したが、委員会は追放解除、独禁法の緩和、ゼネスト禁止、行政機構改革と人員整理、教育制度の改正、教育委員の任命制、警察制度の集権化など多方面にわたる答申案を政府に提出したが、政府が第一にとりあげたのは、治安立法と労働法規改正についてであった。
  1. 占領目的阻害行為処罰令に代ってゼネストを制限・禁止する立法
  2. ポツダム政令による「団体等規制令」に代る立法
  3. 公共企業体等労働関係法・労働関係調整法・労働基準法などの改正

 政府は労働組合や全学連などの反対を予想しつつ、「団体等規制令」に代る「破壊活動防止法案」を昭和27年3月の国会に提出した。
 この破防法への反対運動には、単に労働組合や官公労のみでなく、それに呼応して進歩的文化人、学生、学術会議委員、言論報道、文芸家、法曹家の団体などもいっせいに立ち上がり、一種の国民的反対運動となって現れたことは、新憲法の政治的効果の一端となっている。

 こうした混乱状況の中で、27年4月28日に講和条約は発効し、その5月1日のメーデーを迎え、21年に復活して以来25年まで、メーデーの中央集会は皇居前広場で行われていたが、26年のメーデーからその使用が禁止され、神宮外苑が会場となっていたが、解散地の日比谷公園に向かっていた全学連を先頭とする約3万人のデモ隊が、馬場先門から隊伍を組んで皇居前広場に突っ込み、それを阻止しようとする警官隊と大混乱となり、警官隊は催涙弾やピストルの発射もし、一人が射殺されデモ隊・警察官あわせて多数の重軽症者をだした「血のメーデー」である。

 こうした流血のメーデー事件のために、国会審議が難航することなく破防法は国会を通過し、7月21日に公布施行された。

   基地闘争

 日米安保条約第三条に基づく行政協定は、昭和27年2月28日に調印され、つづいてそれの実施に伴う「土地等の使用に関する特別処置法」「刑事特別法」など一連の特別処置法が成立した。ここに米軍への基地提供の国内的措置ができあがった。

 駐留米軍が接収した土地および施設は、昭和28年1月現在で733件、その面積は国土総面積の約0.38%に当たる14万ヘクタールであり、終戦後開拓民によって開拓された土地や、漁民は漁場の約70か所、4万8千平方キロの水域を港湾および海上演習場として接収されたが、被害者の農漁民の生活に大きな影響をこうむったのに、当時かれらは基地闘争に立ち上がらなかったが、共産主義的勢力が、安保条約に反対する反米運動として地元民を支援するという形で行われる傾向にあった。

 基地闘争の典型的な例は、27~28年に、石川県内灘で起こった米軍射撃場新設反対闘争であり、当時、戸数約千戸で、その9割が漁業にたずさわっている内灘村に米軍射撃場建設の政府決定に対して、保守党内部の対立から政府は内灘問題は白紙撤回として再検討することとなったが、第四次吉田内閣はふたたび内灘接収を決定したため、村内から県へ、さらに国会にまで問題が広まり、加えて反米的外部からの勢力が立ち入って基地闘争はふくざつな様相に発展し、政治闘争にもなっていった。 つづいて28~31年にかけて起こった砂川基地の事件で、日本の独立とともに激しくなった反米感情にもとづく米軍基地反対闘争の頂点となり、測量を阻止する闘争に重症者100人を超す乱闘となったが、その後の基地闘争は衰退していくが、これらも先に述べた、講和条約と安保条約の構造的問題の矛盾から派生し、現在も続いている問題となる。

   保守政権の確立


 昭和28年には我々は中学生となり、社会の動きに多少の興味を持ったころであるが、一番驚いたのは日本のTV放送が始まったことであり、また、米国がビキニ環礁で初めての水爆実験を行い、それによる被害を受け、船員の久保山愛吉氏が放射能障害により死亡した第五福竜丸事件もあり、原爆投下の被害国であり、かつ、この事件により原水爆禁止日本協議会の結成となり、世界平和運動や原水爆禁止運動にたずさわっているが、その成果は現在も見ての通りであり、理念と現実の距離ははなはだしく、現実的解決の手段としては、世界的な問題として考えなければならない難問である。

 講和・独立後の保守・革新の対立は複雑な問題を包含しているが、その根底には冷戦下の国際問題を反映した国民的な不安・不満をからめた国内の反体制運動が高まったことと言われている。
しかし、その運動の掲げる理念目標の「平和と民主主義」や「自主独立」は、憲法の定めている議会制民主主義の枠内においては、現在同様つねに保守政権の絶対多数という壁に突き当たることのパラドックスが、講和・独立の数年後の保守・革新の対立を通じて双方が感じ始めた。

 1955年、昭和30年、終戦以来十年がたち、独立後三年は戦後の政治史にとって大きな曲がり角であったと言われ、終戦直後の廃墟と全ての欠乏や悪性のインフレの時期からドッジ・ラインによる安定復興への契機であり、民主化過程、憲法制定などの諸制度改革、占領政策の転換期、朝鮮戦争勃発を契機とする講和条約の成立とそれをめぐる保守・革新の対立といくつもの峠を越えてこの年の峠にたどり着き、当時の指導者や一般庶民の感想として、当時流行した「戦後は終わった」という言葉であり、何を戦後とするかによっては、いろいろ意味が違ってくるが、食糧の飢餓とか経済の混乱という意味からすると、戦後は終わったかもしれないが、現在でも問題がある戦後の歴史はまだ終わってはおらず、保守・革新の混乱する対立ではなく、二大政党制への新しい道を模索していた時代でもあった。

 占領期から講和・独立の時期に至る十年の長きにわたって、戦後日本の政治を指導してきた吉田茂が、「バカヤロー」発言があったり、よきに着け悪しきに着け五度におよぶ内閣のリーダーシップも昭和29年12月に終焉を迎え、この年の世論調査では吉田内閣の支持率は20%にまで低下しており、国民の各層の人々は戦後政治の時期が終わったと感じたようである。

 余談であるが、小生が中学3年生の時吉田総理の大磯の自宅にお邪魔したことがあるが、その訪問の詳細は割愛するが、玄関の広間に虎の頭のついた毛皮があいさつ代わりに敷いてあったことと、書斎(執務室)が16畳以上の広さであったことが、頭に残っていたことである。

 占領政策による追放から解除され、政界復帰の機会を狙っていた鳩山一郎は、三木武吉らと反吉田のスローガンのもとに日本民主党を結成し、総裁に鳩山、幹事長岸信介、総務会長三木武吉など自由党脱党組や改進党系の人々の参加により、衆議院に121の議席をもち、自由党の議席も185に減り、吉田もその終焉のきたことを悟っていたが、それでも最後の一戦を試みようと議会を解散しようとしたが、緒方竹虎らにいさめられ、また財界や世論もこぞって反対し、吉田は退陣し、左右の社会党が民主党支持にまわり鳩山民主党内閣が成立し、民主党と自由党との保守党は297議席であり、再軍備反対・憲法擁護の社会党他の革新系政党が162議席で2/3以上を獲得できず、当時も再軍備・憲法改正がなされなかったが、しかし、昭和29年には自衛隊が発足した。

 社会党も講和条約の取り扱いで右派左派に分裂していたが、昭和30年にはふたたび合同するにいたった。
保守政党も昭和27年10月の総選挙の前に経済四団体が、「小異を捨てて大同につき、責任をもって、安定政権の確立に全力をつくされんことを」と政局安定に関する緊急要望として鳩山・吉田会談を実現させたこともあり、とりあえず鳩山を総裁に自由民主党を立ち上げて、吉田派の緒方竹虎と鳩山一郎、三木武吉、大野伴睦の四人の代行委員制で進んだが、緒方が突然倒れたために、鳩山がすんなり自由民主党の総裁となり、はたして真の二大政党となったかどうかは、はるかなる道へとなったが、一応保守・革新が確立された。

  次回からは、いよいよ我々も小田原高校の入学となり、皆さんもほとんどのことは記憶のことと思いますが、続かせていただきます。
                                        つづく



          1つ前のページへ