昭和28年には我々は中学生となり、社会の動きに多少の興味を持ったころであるが、一番驚いたのは日本のTV放送が始まったことであり、また、米国がビキニ環礁で初めての水爆実験を行い、それによる被害を受け、船員の久保山愛吉氏が放射能障害により死亡した第五福竜丸事件もあり、原爆投下の被害国であり、かつ、この事件により原水爆禁止日本協議会の結成となり、世界平和運動や原水爆禁止運動にたずさわっているが、その成果は現在も見ての通りであり、理念と現実の距離ははなはだしく、現実的解決の手段としては、世界的な問題として考えなければならない難問である。
講和・独立後の保守・革新の対立は複雑な問題を包含しているが、その根底には冷戦下の国際問題を反映した国民的な不安・不満をからめた国内の反体制運動が高まったことと言われている。
しかし、その運動の掲げる理念目標の「平和と民主主義」や「自主独立」は、憲法の定めている議会制民主主義の枠内においては、現在同様つねに保守政権の絶対多数という壁に突き当たることのパラドックスが、講和・独立の数年後の保守・革新の対立を通じて双方が感じ始めた。
1955年、昭和30年、終戦以来十年がたち、独立後三年は戦後の政治史にとって大きな曲がり角であったと言われ、終戦直後の廃墟と全ての欠乏や悪性のインフレの時期からドッジ・ラインによる安定復興への契機であり、民主化過程、憲法制定などの諸制度改革、占領政策の転換期、朝鮮戦争勃発を契機とする講和条約の成立とそれをめぐる保守・革新の対立といくつもの峠を越えてこの年の峠にたどり着き、当時の指導者や一般庶民の感想として、当時流行した「戦後は終わった」という言葉であり、何を戦後とするかによっては、いろいろ意味が違ってくるが、食糧の飢餓とか経済の混乱という意味からすると、戦後は終わったかもしれないが、現在でも問題がある戦後の歴史はまだ終わってはおらず、保守・革新の混乱する対立ではなく、二大政党制への新しい道を模索していた時代でもあった。
占領期から講和・独立の時期に至る十年の長きにわたって、戦後日本の政治を指導してきた吉田茂が、「バカヤロー」発言があったり、よきに着け悪しきに着け五度におよぶ内閣のリーダーシップも昭和29年12月に終焉を迎え、この年の世論調査では吉田内閣の支持率は20%にまで低下しており、国民の各層の人々は戦後政治の時期が終わったと感じたようである。
余談であるが、小生が中学3年生の時吉田総理の大磯の自宅にお邪魔したことがあるが、その訪問の詳細は割愛するが、玄関の広間に虎の頭のついた毛皮があいさつ代わりに敷いてあったことと、書斎(執務室)が16畳以上の広さであったことが、頭に残っていたことである。
占領政策による追放から解除され、政界復帰の機会を狙っていた鳩山一郎は、三木武吉らと反吉田のスローガンのもとに日本民主党を結成し、総裁に鳩山、幹事長岸信介、総務会長三木武吉など自由党脱党組や改進党系の人々の参加により、衆議院に121の議席をもち、自由党の議席も185に減り、吉田もその終焉のきたことを悟っていたが、それでも最後の一戦を試みようと議会を解散しようとしたが、緒方竹虎らにいさめられ、また財界や世論もこぞって反対し、吉田は退陣し、左右の社会党が民主党支持にまわり鳩山民主党内閣が成立し、民主党と自由党との保守党は297議席であり、再軍備反対・憲法擁護の社会党他の革新系政党が162議席で2/3以上を獲得できず、当時も再軍備・憲法改正がなされなかったが、しかし、昭和29年には自衛隊が発足した。
社会党も講和条約の取り扱いで右派左派に分裂していたが、昭和30年にはふたたび合同するにいたった。
保守政党も昭和27年10月の総選挙の前に経済四団体が、「小異を捨てて大同につき、責任をもって、安定政権の確立に全力をつくされんことを」と政局安定に関する緊急要望として鳩山・吉田会談を実現させたこともあり、とりあえず鳩山を総裁に自由民主党を立ち上げて、吉田派の緒方竹虎と鳩山一郎、三木武吉、大野伴睦の四人の代行委員制で進んだが、緒方が突然倒れたために、鳩山がすんなり自由民主党の総裁となり、はたして真の二大政党となったかどうかは、はるかなる道へとなったが、一応保守・革新が確立された。
次回からは、いよいよ我々も小田原高校の入学となり、皆さんもほとんどのことは記憶のことと思いますが、続かせていただきます。
つづく |