ちょっと発表



                                     2016.05.05  山崎 泰
   紀元2600年  - その5 -

 昭和31年4月、小田原高校に入学となるが、中学卒業前に全県一斉のアチーブメントテストが行われたことを覚えておられますか、この年は神奈川県と高知県の2県のみで行われ、神奈川県も我々が最後であったと思います。 小生は清水村立清水中学校に入学し、翌年町村合併により山北町立清水中学卒業となり、その清水中学も平成26年3月に閉校となり、残念極まりないが、同級生は男子が32人、女子が29人の61人であり、中学時代はスポーツに明け暮れ、足柄上郡の全ての競技に出場し、勉強のほうは全く駄目でしたが、前述したアチーブメントテストの成績が一番であったのが功を奏したのか、2人が小田原高校入学となったが、1人は入学早々に病気退学となり、たった1人となったが、先に述べたように上郡のスポーツ大会で月村君をはじめ多くの友達が出来ていたことが、大変心強よかった。

   技術革新の時代
 終戦後十年たった昭和30年には、不況を克服し、経済復興が終わりをつげて、このころから「技術革新」とか「消費革命」といった言葉が流行り始めたが、この年の経済白書には日本経済の緊縮過程を述べていたが、昭和31年の経済白書では、「技術革新の波頭にのって」というような目新しい表現で、経済復興の終わりをつげたことを述べ、技術革新の発端と進行について言及している。
経済白書をまとめ上げた当時の経済企画庁長官は「今回、発表した経済白書においては、復興過程を終えたわが国が、経済の成長を鈍化させないためには、如何なる方途に進まねばならぬかをその主題としている。その方向を一口にいえば、日本の経済構造を世界の技術革命の波に遅れないように改造してゆくことである。世界はいま、原子力とオートメーションによって代表される技術革命の波頭にのっている。我が国においてもすでに産業設備の近代化にこの時流に遅れまいとする動きがはじまっている」とのべているが、技術革新と経済成長、特に消費革命との関連についての詳しい説明がなされていなかったが、昭和35年の経済白書では「日本経済は、30年ごろまでに戦前水準への回復段階を終わり、それまで高い経済成長を支えてきた復興需要の消滅とともに、経済の浮動力は弱まるであろう。今後の高い経済成長の原動力は、技術革新のための近代化投資を中軸として、産業構造の高度化とそれに結び付いた貿易構造の変化、原材料と最終製品の間の投入―産出関係の変更、新製品の発展と消費の型のサービスおよび耐久消費財への移行など、経済構造の近代化をすすめることによって、はじめて日本経済は、その成長率を高く維持することができるだろう」とあり、予想外の高い経済成長率を示している。
しかし、終戦後10年の技術革新は一朝一夕に変わるものではなく長い歴史を持っているものであり、また消費ということも国民生活の重要な一側面であって、それにもかかわらず“革命”とか“革新”とかの強烈な表現が出てくることには、それ相応の客観的状況が見いだされねばならないと言われていた。
この間の技術の発展と生産復興との関係が、日本の歴史的状況が説かれており、その両者の因果関連を知る指標として、どのような問題があるであろうか。 深刻な技術の空白状態を埋めてゆく条件として、次のようなことが表されていた。
  1. 民間の産業設備投資との比較において、個人消費の急増であり、それとほぼ同時に道路・港湾・交通などの公共投資も増加し始めたことである。
  2. こうした固定投資との比較において、個人消費の比重は減少したが、新しい製品の登場により耐久消費財やサービス購入への移行が行われ、生産増加の刺激となったことである。
  3. 生産方法および労働力に新しい技術的方法が導入され、やがてオートメーション時代を迎えることになったことである。
  4. 産業構造も漸次高度化し、輸出構造もある程度高度化し、国際競争力を強めつつあることである。
  5. 輸出入貿易の変化が、生産原料・資源の変化をもたらしたことである。
 技術革新の契機に産業設備投資の急増と産業基盤の構築にかかわる公共投資の増大にも見られ、その際、外国からの多くの技術導入が行われたことであり、昭和25年に外国資本に関する法律が公布され、外国技術との提携の途が開かれ、生産的効果が表れたが、言い換えれば日本技術の10年間にわたる空白状態では、外国技術の導入以外にはなかったが、全部門にわたる導入という形で始まり、外国技術導入にともなう対価支払は年々倍増となり、外国技術導入の洪水であり、日本の技術史上でもまれにみる事態といわれており、現在のどこぞの国のような状態に近かったがパクリは無く、むしろその技術の向上・活用に努力し、表面的には日本技術の回復がなされたが、他面、生産現場には最新式の機械や装置がならんでいるが、もっとも肝心な日本技術陣の創造性が軽視される時代でもあった。

   新しい生活製品の進化
 技術革新は全産業部門にわたって行われ、国民生活用の新しい製品がぞくぞくと登場し、とくに衣料製品の著しい変化がみられ、全国通津浦々にわたり、すべてに階層の別なく、おなじような服装が見られるようになり、とくに婦人や児童のそれである。
 とくにレーヨンやナイロン、ビニロンなどの化学繊維の興隆にみられ、戦前からの伝統的基盤の上に、再生製品を日本独力で製品化し、また合成繊維の分野でも日本の高分子化学者は外国技術の依存でなく、戦前からの技術をおおいに発展させた。
 繊維製品のつぎに驚くべき発展は、欧米なみの耐久消費財の市場が出現したことであり、電気洗濯機・電気冷蔵庫・真空掃除機・電気釜等々の家庭電化製品が大量生産され、その価格の低下とともに市場も年を追って拡大された。
 またテレビジョンやトランジスターラジオのような新製品が、国民生活の変化に伴う余暇時間の増加とともに、いちじるしい伸びをしめした。
 いずれも米国との技術提携によるものであるが、日本企業のなかにも、企業内の人間組織を技術革新にマッチする人材能力主義におくとともに、また、日本人労働者の微妙な手作業と、日本独特のチーム・ワークにささえられていた。
 家庭の“三種の神器”などという言葉が流行ったように、神武景気の波に乗って本格的な家庭電化ブームがスタートし、国民所得の増大とその格差縮小は、こうした電気器具の普及を促進したが、当時、この電気器具から見た国民の七段階という分類まで現れるありさまであり「電灯、これは多分あるでしょう。かりにこれだけの家庭を第七階級とし、次にラジオとアイロンが加わったのが第六階級、電熱器とトースターで第五階級、ミキサー・扇風機・電話で第四階級、電気洗濯機で第三階級、電気冷蔵庫で第二階級、テレビ・真空掃除機で第一階級」と言われていたが、この階級の存在も時間の問題で、所得水準の上昇と消費構造の変化によって、やがて消滅となったようである。
 技術革新のもっとも顕著な現れは、生産方法または労働方法そのものにおける革命的変化が、電子工学の発展に伴うオートメーションの進行、すなわち自動調節計の使用がそれである。
オートメーションの発達は、1952年ごろから米国において見られたが、日本はややおくれて1956年、いわゆる神武景気といわれたころ、生産性向上運動によってその効能が宣伝されはじめ、あらゆる産業部門にこれが浸透・使用されていった。
 昭和31年ごろ、産業の設備投資がにわかに高まり、一兆円を突破する額に至り、これらの膨大な設備投資のうち少なからぬ部分が、自動化された設備に向けられ、鉄鋼業での原料処理の機械化、高炉の半自動化、平炉の自動制御、圧延の自動制御などのオートメーション化が進展し、化学工業・石油興業などは早くからオートメーション化が進んでいる部門であるが、それらの中でも、新しい工場になるほどオートメーション化の水準は高まっていた。 また手前味噌ではあるが、戦前と比べて顕著な変化が見られたのが土木建設事業における機械化とその自動化であり、無数の労働者を必要としたダム建設などが、安全第一の観点からもあるが少数の労務者の雇用等から機械化が進められ、特にブルトーザーの働きが多大であった。

   産業・輸出構造と国際競争力
 技術革新の急激な進展は、日本経済は二重の変革をもたらした。
その一は産業構造や就業構造の変革であって、とくに農業や伝統的産業のような低生産性部門からサービス業・機械工業・重化学工業などの高生産性部門へと、労働力の移動が急テンポに行われたことである。
農業においても米穀類が自給に近づき、生産の重点が畜産・果実・酪農製品・野菜などに移り、農業生産はその規模を拡大したが、しかしながら工業部門の発展の方が農業部門に比べて成長率が高く、労働力を吸引する力が強かったため、50年代を通じて農業労働力は10%の減少をしめしている。
 また、サービス業の雇用状況についても変化がみられ、なかでも銀行業の役割が二倍に高まり、百貨店やチエーン・ストアも従来の小売業の領域にますます食い込んでおり、製造工業部門においても、1957年ごろから急激に労働力を吸収し始め、とくに耐久消費材ブームがおこって、金属工業・機械工業・化学工業が製造工業の王座をしめることとなった。
 こうした労働力は、戦後教育制度の改革によって、とくに比較的高教育ある男女の労働力の豊富な供給は、技術革新とあいまって産業構造の変革をもたらしたことはいうまでもない。
もう一つの重大な変化は、日本経済の急所ともいうべき輸出構造にも変革をもたらしたことであり、たとえば日本の綿織物の輸出量は、早くも1951年にインドを抜いて世界第一位となり、レーヨン、ステープル(スフ)の生産量は1954年にはアメリカを追い越し世界第一位、合成繊維は1953年にイギリスを抜き、アメリカについで世界第二位となった。
 こうした日本の輸出貿易の発展は、1951年から1960年までの十年間で、年率14.4%と世界輸出の三倍の速度でおこなわれが、一方、輸入貿易はむしろ相対的に減少し、原料その他の海外依存度は低下したのである。
 米国の日本経済史のある研究者が1963年に、アメリカで開かれた日本経済にかんする会議で、つぎのごとく語っている「驚いたことには、日本の工業がいまや戦前にくらべ、五倍もの生産をあげているにもかかわらず、海外原料に対する依存度が大幅な低下を示していることである。
 かつて、絶対必要であるとみなされていたものも、その多くが新しい合成製品にとって代わられ、また需要の構造も変わり、さらには、加工がより高度の段階にまで推し進められていることも、使用原料のウエイトを低めており、米の消費量の外米の依存度の減少や財貨サービスの輸入減少など、量的依存度は半減したといえる。
 このところ実質輸入依存度はふたたびゆっくりと上昇の気配がみられるが、日本は重化学工業が発展し、全般的に技術水準が向上すれば、再度低下をはじめるかも知れない」と驚かれたこともあった。
 明治の昔から、日本は天然資源に乏しく、生糸や茶を輸出して鉄鋼や石油を輸入し、日本経済の生産原料の外国依存状況が一般的に知らされてきたが、戦後十年たったころから、技術水準の向上さえ保たれるならば、生産原料の外国依存については、それほど心配するには及ばないという当時の専門家もいたようである。
技術の変革には原料や資源にも変化を伴い、石油化学工業やそのコンビナートの発展は石油という原料資源の比重が大きくなり、石炭鉱業の斜陽化も歴然であり、従来の石油原料を主体にしてきた、カーバイト工業・タール工業・醗酵工業に代って、当時、公害で有名になった四日市のコンビナート建設に見られるようにプラス チックや合成繊維などの石油化学工業が発展してきた。
割高な農林産原料や鉱物性原料から次第に加工原料への転換が進行するが、技術水準の向上による原料条件の不利も次第に克服し、国際競争力も強化されてゆくのであるが、ここで貿易自由化の問題が起こってきた。
昭和35年度の経済白書には「わが国産業の国際競争力は部門によってそれぞれニュアンスの相違がみられ、一律に評価することはできない。しかし産業全体のうちでは一応国内市場において国際競争力があるとみとめられうる産業は過半のウエイトを占めているものとみられる。但し、現在競争力の乏しい産業の中には今後の成長性の大きな新産業や資源条件に制約された鉱業物資が多く、自由化の展開に当たっても慎重な配慮を必要とする点を見落としてはならないであろう」と述べている。 国際競争力という見地から、技術革新が単に経済の生産過程の一方法としてのみ進展してきた日本も、やがて技術それ自身が科学体系化されている先進国なみになるための科学技術振興の必要を強く感じ、やっと昭和30年に科学技術庁が新設され、おそまきながら、わが国の科学技術の発展の一里塚となる。

   生活意識の本質的な変化

 生産の復興・拡大につれて、国民の消費生活にも変化が生じており、昭和34年の経済白書において、初めて「消費革命」という言葉をつかって次のごとく説明いる。
 「33年度の国民消費水準は、29年度以降としては最高の伸びを示したが、消費の内容についても質的高度化の傾向が強められた。消費内容の変化の中には少なくとも三つの方向がみとめられる。その第一は過去への郷愁であり、第二は狭義の生活合理化であり、第三は電気器具等の新製品の出現および教養娯楽施設の増加などに対応する生活の変化である。すなわち、高級婦人着物にたいする支出増加や米食率の増加などは第一のものであり、肉乳卵類、加工食品の支出増加は第二の動向を示している。また家具什器、外食、教養娯楽費等の支出増加は第三の方向を反映するものである。この三つの方向への支出増加の傾向はここ数年来つづいているが本年度はとくに第三の方向への支出増加がデモンストレーション効果、価格低下、月賦販売の普及などに助けられて最も顕著であった。その中でもとりわけ、支出増加のいちじるしい家具什器の中の家庭用電気器具についてであり、最近の家庭用電気器具の普及は高所得層から漸次中所得層へと移行しつつある。農業における消費の内容も都市とほぼ同様であり、穀類への支出減、肉乳卵類、加工食品、外食への支出増加をはじめ、家具什器、交通通信、学校教育費、教養娯楽費などへの支出が目立っている」と、このような消費革命の原動力となり、また同時にその需要を支柱とした各種の消費財産業の発展と、それらの変化に対応する農林水産物、工業生産物、サービス部門における生産構造にも大きな影響を及ぼした。
 これらの背景のもっと根本的な変化として、国民生活や国民文化の変貌としてのとらえかたもあり、すなわち国民の教養・娯楽・観光など生活文化の側面に現れた変化が、根本的な現象といわれており、そこにレジャー(余暇)が発生し、レジャー産業の到来である。
技術革新は、産業の機械化、合理化を促し、マスプロの分野と規模とをますます拡大されることによって、製品の質とコストに大きな影響をおよぼし、一方では通信・輸送手段の発達に伴い技術の伝達、普及もそくしんされた。
 それらの過程を通じて、労働時間は短縮され、労働の質と職種も変わり、労働環境も改善され、こうしてレジャー消費すなわち生活時間的にみれば余暇利用は、多くのレジャー産業やそのための公共施設を発達させた。
これまで述べてきたように、所得水準の向上、技術革新の進展、大量消費財の生産拡大、消費革命の進展、レジャー産業の発展、マス・コミの普及という一連の経済的・社会的現象は、たがいに関連しあって一つの新しい現象を生み出し、それは国民の生活意識の本質的な変化であり、それの社会的・文化的の現れとしてのマス文化の発生といえる。
 長い間、われわれ日本人の生活意識の基盤は家庭生活を中心として、その行動範囲も狭い地域社会にあり、日常生活にたいする基本的態度は、消費節約・勤倹貯蓄・刻苦勉励を美徳とし、家長や目上の権威を尊重して、その権力に服従する道徳を中心としてつらぬかれており、いわゆる封建的倫理によってしつけられていた。
そうした封建的意識の社会的基盤は、すでに戦前からしだいに緩んできていたとはいえ、終戦後の民主化において、その権威・権力の制度的基盤が失われてから、いきょに崩壊過程にはいったが、しかし、そうした民主化過程からただちに新しい生活意識は発生せず、それは、新しい生活意識を支える経済的・社会的・文化的基盤がかけていたからであり、いまや終戦十年にして生活革命が進展し、まったく新しい生活意識が発生したのである。
 この新しい戦後の生活意識にはいろいろの特徴があり、その一つは、生活用品の大量生産・大量流通がみられるにいたった結果である大衆社会の出現であり、マス・コミとしては、テレビの普及と大衆向きの週刊誌のおびただしい発刊である。
もう一つの特徴として、安定ムードとともに「私生活への傾斜」がうまれ、働く人たちが、職場よりもむしろ家庭生活に力点をおく傾向さえ出てき、それは戦前の日本人の生活意識にみられなかった革命的変化といえよう。
 たしかに、国民の生活意識には革命的な本質的な変化がみられたが、さらに高い次元からみるに、そうした大衆消費やマス・レジャー時代の到来による生活意識の革命は、他の社会的側面や政治的次元とのバランスがとれたであろうか。

 そこには、なお戦後日本の歴史的展開によって現在も露呈される幾多のアンバランスがみられている。


                                        つづく



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