ちょっと発表



                                     2016.08.19  山崎 泰
   紀元2600年  - その8 -

 最近になって、米国の大統領選のトランプ氏の発言や、沖縄での米軍との問題等、一段と賑やかになってきた日米安保条約問題であるが、その改定に対する問題を取り上げてみる。

   安保条約改定をめぐる日米交渉
 日米安保条約は、その成立当初から共産党・社会党などの革新勢力に代表された国民大衆の強い反対があり、多くの知識人もこの反対を支持して、講和独立後の保守・革新対立の枢軸を形成しているが、この安保反対論が大衆的支持をえている理由は単純ではないが、だいたい二つの問題にかかっている。
第一に、この条約によって日本はアジアにおける冷戦の谷間におかれ、いつ戦争に巻き込まれるかわからない危険があるという心理的不安であり、第二に、この条約によってサンフランシスコ体制に属せしめられ、行政協定・MSA協定などによって米国の軍事基地・軍需工場と化した日本は、もはや、いかなる戦争にも関係しないで平和の信条にもとづく中立主義を守ろうとする民族的自主独立への訴えはのぞみえない、という危惧である。

 この二つの理由は、安保体制への国民的不満をあおりうる微妙な問題にふれているが、とくに後者の民族的感情への訴えは、これが不平等な片務条約である点において、国民一般に通じて見出される安保体制への強い不満をかきたてるのであり、この点が吉田退陣後、その後釜を狙う保守党指導者をして、日本の国力回復が見られた機械に、憲法改正による再軍備と安保条約改定を政策的に取り上げさせる動機となり、鳩山・岸両内閣をして数次の対米交渉を行うこととなった。

 昭和30年4月に、日ソ交渉を公約した第二次鳩山内閣は、米国にたいしても相互理解を深める必要ありという四囲の情勢にかんがみ、重松外相を安保条約改定交渉のために訪米させることにしたが、しかし注目すべきことは、保守党の内部にすら、対米関係の調整はしばらく後回しにして、日ソ国交回復後の波紋がおさまってからにせよという意見があったことであり、そのうえ当時、米国政府のダレスは、東京での防衛分担金をめぐる日米交渉が難航中でもあり、鳩山内閣の対ソ交渉への不信感もあって、これをいちおう拒否していた。

 しかしその四か月後、8月に重光は、日本民主党幹事長岸伸介・農相河野一郎など反吉田派の保守党指導者が同行して渡米したが、この目的は、当時の日本国内の政治状況を反映して、現在の従属的不平等条約を廃止し、双務的平等条約に変えようとすることにあり、「向米一辺倒」のそしりをまぬがれようとしたが、しかし米国側の主張は、日本側において国家防衛の第一義的責任をおい、西太平洋における国際平和と安全の維持に貢献しうるような諸条件がつくりだされたならば、安保条約を相互的性格なものにしようということにあり、こういう米国の趣旨を織り込んだ日米共同声明が、9月1日発表された。
 これは現在いろいろと問題が提起されているところであるが、つまりこの条約を具体的につきつめると、日本の自衛力漸増にともなう米軍の撤退と西太平洋集団保障への参加、すなわち海外派兵への要請という条件をみたしたうえでの安保改定の約束にすぎなかった。 その後、鳩山内閣が日米交渉に何事もなしえなかったのも、こうした米国の強硬な主張と国内の政治情勢のなしうるところであった。

   日米新時代
 安保改定反対のうねりの中、あえて米国を安保改定に同意させるには、特にアジア・太平洋における軍事的・経済的な反共体制の強化という方針を決定しなければならず、そういう考えを積極的にいだいていた政治家は、保守党の内部でも多くはなかったが、岸伸介はその数少ない一人であり、しかも彼は先の鳩山内閣の重光渡米に同行して、米国政府の立場をしっていた。

 32年2月に、短命であった石橋内閣の後をついで首相になるや、5月には東南アジア諸国の訪問の旅をし、台湾において蒋介石とも会談し、6月には渡米してアイゼンハワー大統領と会談した。
そこで6月21日、いわゆる「日米新時代」の共同声明を発表し、その一節に、「大統領及び総理大臣は、日米関係が共通の利益と信頼に確固たる基礎を置く新しい時代に入りつつあることを確信している」とあったことから、「日米新時代」の共同声明といわれた。

 その結果、同年9月に藤山外相を渡米させ安保改定に本腰をいれることになり、米国も二年前と異なり、その間の世界情勢の変動、とくにソ連のスクートニク打ち上げ成功やアラブ諸国の団結など、一般に民族解放運動にたいする軍事的圧力の限界について反省するところもあって、藤山外相を通じての日本の安保改定の主張を認める方向に傾き、安保改定交渉を東京で始められることとなった。
 日本政府の安保改定にたいする基本方針は、岸首相の記者会見での発表によれば、次の5項目にわたっている。
  1. 現行の条約の片務的なものを双務的なものに改め、相互防衛的なものにする
  2. このため新条約の終期をあきらかにする
  3. 在日アメリカ軍の配備・使用については米国側が日本側と事前に協議するものとする
  4. 米国軍が日本の防衛義務を負うことを明文化する
  5. 国内の「間接侵略」に米国軍が出動することを許すという条項を削除する

 こうした基本方針にもとづいて、岸内閣は東京でマッカーサー米国大使との会議を繰り返し行ったが、34年6月には、ほぼ事実上の妥結にこぎつけ、これに付随する行政協定を手直しする協議が行われた。
この条約改定の交渉過程で最も注目をひいたものは、日本側の防衛範囲を沖縄・小笠原まで拡大せよという米国側の主張を、どう処置するかであり、この改定方針にたいしては自民党にも異論があったが、とくに社会党は、激しくこれを批判し、沖縄・小笠原を条約適用範囲に加えると、この地域は米韓・米比・米台の相互防衛条約の対象地域になっており、事実上、東北アジア軍事同盟に加わることになるというのが最大の論点であった。

 自民党にも意見の不統一が現れ、河野一郎らは10年の条約期限は長すぎるとし、石橋湛山・松村健三・三木武雄らは中国との国交調整に支障があるとして反対したが、ヨーロッパ、中南米11ヵ国への親善旅行から帰国した岸首相は、安保改定についての党内調整に乗り出す決意を固め、この安保条約審議にさいし、党内に異論が出れば、信を国民に問うため国会を解散するとし、社会党が審議拒否に出れば単独審議をも辞さないという強硬方針をたてており、しかもこの強硬路線で党内の統一を固め、自民党の両院議員総会で最終的に安保改定を党議としてきめた。 

 いままで、主として26年から35年に至る10年間の日本外交の歩みを見てきたが、日本国民のすべての希望であり、機体であった自主外交はいまだしという感が深く、独立を回復し、経済的自立への条件もようやく備わってきた当時は、とくに占領下の自主性喪失の体験のある我々日本人にとって、近隣諸国は勿論あらゆる国々と外交関係を正常化し、国際社会の責任ある一員としての名誉ある立場を確立したいと願うのは、当然のことであり、そのための外交の自主性の確保ということが、保守・革新いずれの立場を問わず、国民が一致して期待するところであれば、自主外交がその合言葉となったことも、極めて自然のことだといえる。
しかし、サンフランシスコ体制は、主として第二次世界大戦後の冷戦下における米国のアジア・太平洋政策、戦略にもとづくものであり、日本の国家的独立は、その体制への従属または協力を代償として与えられたものであり、日本も平和憲法下において、ほかにその安全保障の方途を見いだせなかった。
 まして、ひたすら経済復興と生活再建にいそしんでいた日本人にとって、ガリオア(占領地域救済資金)、エロア(占領地域経済復興資金)のごとき20億ドルにものぼる米国の経済援助は、保守政権はもちろん、責任ある地位の何人もこれをしりぞけられなかったであろうし、こう考えると安保体制は歴史の必然であったといえる。

 国際社会の責任ある一員として名誉ある地位を占めたいと願い、自主外交をめざす新しい日本の姿は、その反面において、無残にも対立・分裂の姿は、二つの日本であり、歴史はこの姿を、35年5月19日にその山場をむかえた安保闘争において、まざまざと現れるのである。。

   安保闘争

 安保闘争時には、私も参加し、銀座通りを日大のピンクの校旗を先頭でかざしてフランスデモを行い、デモ隊の後ろには、日大卒業のサラリーマンが行列をなして、我々を激励してくれたが、おかげで私は停学一か月を申し渡された次第であるが、これも青春のなせる業と想い出の一端にしているのである。
そもそも安保闘争の発端といえば、昭和27年の安保条約成立のときから反サンフランシスコ体制運動として続いてきており、行政協定・MSA協定に反対する動きや、28年10月に自主防衛についての池田・ロバートソン会議への批判、各地における軍事基地闘争など、その反対闘争などの契機・対象・形態はそれぞれ違っているが、終始一貫サンフランシスコ体制の軸となっている安保条約への反対運動にゆきつく。

 昭和33年10月の警職法反対の大衆行動が全国的に拡大した理由も、安保闘争の下地があり、それと関連していたからであり、安保闘争は35年に入って、戦後最大の国民運動に発展するのであり、その間、一般国民と政党は、政府の改定方針やそのための日米交渉をどうみていたかは、勿論安保条約にかぎらず、どの外交問題にたいしても適格な情報を手にしていない日本国民は、安保条約改定の内容について、積極的な判断を下すことができない状態にあったが、これは交渉・会議がとかく秘密裡に進行していたからである。
安保改定についての一般国民の理解は、総理府発表の世論調査でも半数がまったく無知・無関心であったのが、やがて急激に一大国民運動となって展開した事情は一体何によるのであったであろうか。

 議会政党においては、政府与党の自民党のあいだにも、岸首相の強硬方針に反対する松村・三木派などもあったが、結局年末には自民党の統一方針に押し切られてしまい、社会党においては、警職法問題やベトナム賠償問題などをめぐる党活動の在り方について、左右両派の不統一がみられ、油井に34年9月の全国大会で西尾除名問題が紛糾し、その結果は民社党が分分離・成立することになり、安保問題にたいする見解の相違もその一員であった。

 昭和34年3月、日米間の安保条約の改定交渉がまとまろうとしていたとき、院外においては警職法改悪反対国民会議の組織を引き継ぎ、安保改定阻止国民会議が結成され、その幹事団体は、社会党・総評・中立労連・平和と民主主義を守る東京共闘会議・日本平和委員会・原水爆禁止日本協議会・護憲連合・日中友好協会・人権を守る婦人協議会・全国軍事基地反対連絡協議会・全日農・青年学生共闘会議の13団体、これに共産党がオブザーバー団体の参加もあり、この幹事団体を含めて、阻止国民会議参加団体は134団体におよんだ。
この国民会議は、同年4月15日に第一次統一行動を起こしてから年末まで十次にわたる統一行動がおこなわれ、その参加者は労働組合員と全学連の学生とが大多数を占め、院外の一大国民運動として拡大し、その翌年の5月19日に、大衆行動としいぇの山場に達する。
 安保闘争が国民運動化してゆくためには、国民会議のような、なかば職業的な常連団体の統一だけではたりず、平素言論を通じて政治を批判するけれども、政党に加わったり政治行動はしない知識人や文化人の参加がなくてはならなかった。

 大学教授を含めて知識人や文化人が安保改定に反対し、そのために政治行動にまで出る理由と役割はなんであるかは、いうまでもなく、自分の国が米国によって支えられ守られ、その文化的影響下におかれている事実に、屈辱と不満をかんじているという心理的事情である。
 一般市民のあいだでは、安保問題はそれほど大きな反応を現しておらず、安保改定阻止国民会議の市民団体に属する人々は別として、一般市民のあいだでは、安保反対の統一行動も最初は年中行事ぐらいにしか受け取られておらず、国民会議の統一行動が重ねられていくに従い、市民の関心は次第に高まっていった。
とくに34年11月27日の第八次統一行動における国会請願運動が、国会への乱入になってから、自民党はこれを公安条例違反とし、国会周辺のデモ禁止を立法化しようという動きを示したが、これは憲法に保障されている請願権の制限というような市民権抑圧と受け取られ、マス・コミの報道や論評も激しくなるし、そのうえ警察とデモ隊とがいずれも実力行使ともなれば、一般市民の関心も高まり、当時、三井三池の合理化闘争もたけなわであり、流血を伴う労働組合の闘争が、安保闘争と結合していくことは容易に想定できることである。

 勤評闘争や警職法闘争にみられるように、地域住民としての市民参加は容易に理解できるが、安保改定問題のような高度の政治性をもつ国際問題に、大規模な市民参加がみられるようにいたったのは、こうした激しい背景があったからである。昭和35年に入ってから5月19日にいたるまで、一般市民の関心と不安とは次第にたかまってゆき、国会審議の混乱と院外の安保阻止の大衆運動の激化とあいまって、その間、アメリカがソ連領内に飛ばした黒いジェット機U2機問題での米ソの緊張関係も加わって、一般市民の反応も次第にたかまっていった様子が理解できる。

   国会審議の状況

 安保問題の中心は、何といっても国会審議の状況であり、2月19日、衆議院の安保特別委員会が開始するも、その冒頭に、野党側から「条約の承認に関する国会の修正権」を持ち出し、その論議が一週間ほど続いたが、政府の公権的解釈でも、また憲法学者の一般的見解においても、国会には修正権なしということになっていた。

 国会の安保審議は、終始、多数強硬主義と少数実力主義との対決に終始し、その最後には5月19日に警官導入のもとで、反対党の欠席のまま、しかも自民党のあいだからも多数の欠席者を出しながら、国会の延長と条約の承認を強行採決し、条約の自然承認をはかったのである。
会期の終了日は5月26日まで一週間も残っている5月19日という日に、議院運営委員会の理事会で意見がまとまらないのに、会期延長を本会議で強行可決したのは、きわめて異常であり、しかも会期延長を可決した後、何の審議もせずに新安保そのものの強行採決を行ったのは矛盾しており、当時の一般の推論するところでは、政府の真意は、アイゼンハワー大統領の訪日予定日である6月19日までに新安保の「自然承認」をはかるためであり、見え透いた異常なやり方であった。
 それはともかくとして、この国会の審議過程において、論議の焦点となったのは、「相互防衛」「事前協議」その他二,三の論点はあったが、論議に集中したのは「極東の範囲」についてであり、これについては安保改定問題の最初からの問題であった。
 野党側が、この問題をしつこく追求した背景には、「極東」が新条約の適用区域であるとか、あるいは我が国に駐留する米軍の出動範囲であるというようにとる誤解もあったようで、そういう大切な区域についてはっきりした意味が決められていないのはけしからん、ずさんであるという方向で、質疑が集中した。
しかし、「極東」という観念は、近東、中東などと対応する地域的観念であるが、もともと漠然としたもので、だいたいの見当がつくが、どこからどこまでというように、はっきり地域を指定していえる性質のものではなく、それに、これが条約の適用区域とか駐留軍の出動範囲というようなものと直接に関連を持つものであれば、当然に安保条約上の意義をはっきりさせておくべきであるが、条約をよく読めばわかるように、そういう性格のものではなく、もともとその区域はきちんと詰めてあるわけでなく、野党のいうように、はっきりした答えを出せといわれてもだしようのないものであった。

 一方、反米・中立主義にもとづく安保破棄の意図をその胸におさめながら、日米軍事同盟たる新安保条約の正体を国民の前に暴露しようと政府を追求する社会党、他方、ただ条約の承認さえ得ればよいのだと、日本の安全保障についての信念を、有機をもって国民に伝えず、よろめきながらその場その場の答弁で貴重な時間を空費している政府、こうした情けない日本の国会審議に、高まりゆく院外の大衆運動の圧力も加わって、5月19日の山場になったのであり、当夜の国会運営の在り方、つまり目的と手段との関係において、いずれに重きをおいているかにかかっており、一党一派の立場をはなれた国家公共の利益か、正しい民主政治であるかという根本問題にかかっており、今日の政治にも同じように危惧するが、国民はこの岸内閣の以上な行動に当時どのように反応したのであろうか。

 この異常な国会運営によって、新安保条約が可決されたことが全国に伝わるや、国民に強烈なショックをあたえ、それまで阻止国民会議や知識人組織による大衆行動にすぎなかったものが、しだいに大きく拡大し他国民運動となり、民主主義養護の旗のもとに、30日間の期限つき闘争に展開していった。
だが岸内閣の総辞職を要求する野党の動きと、これを頑強に拒否する岸首相の態度にたいして、マス・コミは内閣の総辞職と国会解散による事態の収拾に傾き、一般国民や大学人なども、このときから、はっきりと民主主義養護の反政府運動へとかたむいた。

 安保闘争過程において発生した数多くの事件の中でも、6月15日の全学連デモ隊が国会構内に突入して警官隊と衝突したとき、樺美智子さんの死亡事件をおこしたことは、国民にもひじょうな衝撃をあたえ、安保反対運動は激化していった。

   安保騒動の教訓

 さしも日本国中を荒れ狂った安保騒動の嵐も、保守党になんの影響もなく、岸首相一人の退陣ということで収まり、新安保条約は予定通り6月23日に批准書の交換が成立し、一年以上も続き、最後は未曾有の国民運動にも発展しながら、このようなあっけない結果に終わったその教訓はなんであったのであろうか。
それにはいろいろの批判や反対運動に加わった者の自己批判もあったが、当時、客観的にみて、歴史的教訓とも考えられるものが二つあるという。

 第一は、日本国民が大衆行動にかりたてられる契機または動機にかんするもので、日米安保条約のごとき国際外交問題にたいしては、日本国民はいまだ平素十分な知識や情報を与えられておらず、日常生活に関する地域または職域についての国内問題であるならば、一定の知識・経験によって実感的に判断する能力を持っているが、外交政策になると、その実感は一方的な不満や不安をかきたてる宣伝に動かされやすい。
しかし国際外交問題には、こうした国内的次元のほかに、一定の国際関係から制約される次元があり、サンフランシスコ体制やアジア・太平洋関係のごとき日本をとりまいている国際的次元があり、この現実は平和の希いや戦争への反対という心理的・感情的な態度だけでは対処できず、ここに安保闘争が岸首相の退陣をせまる民主主義擁護に終わってしまった理由がある。

 日本の国際的地位を理解している市民運動でなければ、国家の外交政策の変更をもとめることはできなく、市民が「無告の民」ではなく、国家の政策形成に参加しうる有言の市民とならねばならない。
第二の教訓は日常生活と国際的地位という大きな距離とギャップをもっている政策問題について、一般の国民にそれを統一する理解を期待し、政策形成に寄与することを求めることができず、それこそ政党の任務であり、その最終の政策決定をするものは国会である。
しかるに社会党にしても、また結党まもない民社党にしても、その外交政策が具体的にはっきりせず、ただ安保改定に反対であるというだけでは、政府与党の政策変更を求める十分な根拠にはならず、対策なき阻止や反対は民主政治の初歩でしかない。

 また自民党の場合でも、「保守党の悲願である」とまで打ち込んだ安保改正問題にたいして、不安を感じ、不満の意を表明している国民を十分に説得しえず、これを「国際共産主義につながる破壊活動である」などと声明するのは、まったくあの大衆運動化した日本国民の心理状態をしらないものであり、安保騒動は、保守・革新すべての日本政党の未成熟を添加に表明したもので、日本の国際的信用を失墜させた責任は政党にありと言っても過言ではない。
 総選挙はなんのために行われてきたのかと言わざるをえず、ここに最大の教訓があると。
現在もまったく同じことが言えるのではないか。
安保騒動が終わった後、英国の「マンチェスター・ガーディアン」紙が7月7日、客観的に日本を見ている記事を次のように述べている。

 「岸氏は辞職するところであるが、かれは主要な戦闘に勝利をおさめた。火につつまれた甲板に残された少年のように頑張りぬくことをとおして、かれは新安保条約を発効させた。かれの持久力は西側においては称賛をかちえた。こちらでは、選挙の結果から見れば国民の大多数を代表しているのでない群衆に、かれがなぜゆずらなくてはならないか、はっきりしない。しかし、ヨーロッパ人とアメリカ人とがかれを称賛するまさにそのゆえに、かれは自らの党までを含めて多くの日本人がかれを非難するのだ。議会制度があるにもかかわらず、社会的和合を政治の目標とするという古い中国・日本的理想がまだ生きている。統治者の義務は、父親が家庭でするように相反する利害を和合させることにある。しかし岸氏は、安保条約の危機においても、それ以前の警職法の対立の時にも、かれの属する多数派の意思を少数派におしつけようとした(彼のやり方は西欧の基準からみて、非難をうける筋合いのものではない)。かれの後任になる人の仕事は二重のものとなる。憲法によって定められた首相として、新首相は議会主義政治の方法にたいして不可欠な民衆の支持をとりもどさなくてはならない。当然の第一歩は、安保条約を批准した政党にたいする選挙民の意見を記録するために総選挙を行うことである。しかし新首相のもう一つの仕事は、めちゃめちゃに引き裂かれた日本の社会的連帯組織を修復することであって、このためにはすぐさま選挙は妨げになっても助けにはならない。しかし、たしかに危険をおかすことが必要である。選挙だけが必要な新しい出発を可能にする」と。

 次の池田内閣は、まさに私的されている二つの仕事を果たすべく登場するのであるが、果たして皆さんの判断はいかがだったでしょうか。
この他にも紀元2600年より特出する出来事が多々ありましたが、昭和24年には湯川秀樹がノーベル物理学賞を受賞したことに日本中歓喜し、昭和28年に日本で初めてTV放送が開始され、昭和34年4月10日、今上天皇が民間人の美智子妃と結婚、昭和39年東京オリンピックが開催されたりした。

 まだ続きをとも思っておりましたが、吉田明夫君の今までの構成・編集に感謝して私の「紀元2600年」をここで終了とさせていただきます。

吉田君のご健康を祈願いたしておりますので頑張ってください。

                                         おわり


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