この項での説明に「歴便覧」とか「七十二候」が出てくるが、それを先に説明すると。
「歴便覧」は天明7年(1787)に太玄斎の書いた暦の解説書である。
「七十二候」は古代中国で考案された季節を表す方式の一つで、二十四節気をさらに約5日ずつの3つに分けた期間のことで、各七十二候の名称は、気象の動きや動植物の変化を知らせる短文になっているが、実際にはあり得ない事柄もふくまれており、例えば、「野鶏入れ為蜃」(キジが海に入って大ハマグリになる)などがある。
古代中国の物が、そのまま使われている二十四節気に対し、七十二候の名称は変更されている。 日本でも江戸時代に入って渋川春海ら歴学者によって気候風土に合ったように改定され、“本朝七十二候”が作成された。
《立春》(りっしゅん) 2月4日頃
”春の気たつを以て也”(歴便覧)
この日から立夏の前日までが春であるが、まだ寒さの厳しい時期であるが日脚は徐々に伸び、旧暦では1年の始まりと考えられており、この日から88日目となる“八十八夜”の新茶の摘み取りの時期で、この日以降に最初に吹く南寄りの強い風を“春一番”と呼ぶ。
大寒のすぐ後に立春が続くのは“陽極まって陰に転じ陰極まって陽に転ず”の陰陽五行思想に基づく考えで、少しずつ確実に暖かくなり、梅の花も咲き始める。
立春の早朝、禅寺では厄除けのために、門に「立春大吉」と書いた紙を貼る習慣があり、この文字は縦書きすると左右対称になるので1年間災難にあわないといわれている。
またこの日に汲んだ水は“若水”と呼ばれ、健康や豊作など幸せを招く水といわれ、この若水で点てたお茶を福茶と呼ばれる。
《雨水》(うすい) 2月19日頃
“陽気地上に発し、雪氷とけて雨水となれば也”(歴便覧)
立春から約半月経ち厳しかった寒さも次第に緩み、空から降るものが雪から雨に変わり氷が溶けて水になる時期で、草木も芽生える頃で、昔から農耕の準備を始める目安とされてきた。
地域によってはこの日に雛人形を飾ると良縁に恵まれると言い伝えられてもおり、またこの時季に吹く南よりの暖かな風を“春一番”とよび、寒い日と暖かい日が交互に訪れ徐々に早春の気候に変わっていく、こうした現象を“三寒四温”とよび、この頃に降る雨を“木の芽起こし”といい、一雨ごとに木の芽がふくらむことから、こう呼ばれている。
《啓蟄》(けいちつ) 3月4日頃
“陽気地中にうごき、ちぢまる虫、穴をひらき出でれば也”(歴便覧)
七十二候では「蟄虫咸動きて、戸を啓きて初めて出ず」とあり、蟄虫は地面の中にかくれて冬眠しているもろもろの虫で、啓は“ひらく”という意味で、冬眠していた虫たちやヘビ、カエルなどが穴から這い出てくる季節を表す。
古い中国語で「虫」は広く動物を意味していたため、蛇や蛙をはじめ、昆虫以外を表す漢字にも虫偏がつくものが多い。
また、この頃に初めて鳴る春雷を初雷(はつなり)といい、虫の目を覚まさせることから“虫出しの雷”ともいい、松を害虫から守るために巻き付けていたムシロを外す「菰はずし」は啓蟄の恒例行事としている所も多く、柳の若芽が芽吹き蕗のとうの花がさき、桃の花もほころび、いよいよ春も近い。
《春分》(しゅんぶん) 3月21日頃
“日天の中を行きて昼夜等分の時也”(歴便覧)
この日をはさんで前後7日間が春の彼岸で、この日太陽は真東から昇り真西に沈み、昼と夜の時間がほぼ等しく、仏教では極楽浄土は西のかなたにあると信じられおり、太陽が真西に沈む春分の日と秋分の日が極楽浄土にいる阿弥陀如来を拝礼するのに近い日と考えられ、この日に先祖の供養や仏事を行うようになったという。
「自然を讃え、生物を慈しむ日」とも言われ、国民の祝日となっており、“暑さ寒さも彼岸まで”と言われるように、寒さも峠を越して温和な気候になるとされ、桜の開花が聞かれるのもこの時期からである。
《清明》(せいめい) 4月5日頃
“万物発して清浄明潔なれば、此芽は何の草としれる也”(暦便覧)
清明とは清浄明潔の略で万物が清らかでけがれが無く明らかなことで、この頃の晴れ渡った空はまさに「清浄明潔」の語がふさわしく、地上では、新芽が芽吹きいろいろな花が咲き競う季節である。
古来中国ではこの日、河辺で冬の間中着用した衣服などを洗い清め、郊外に遊び、また先祖の墓参りをする習慣があったが、日本でも沖縄地方では旧暦3月に清明節(うしーみー)といって一族揃って墓参りをする風習がある。
清明の日は七十二候では「玄鳥至」(燕きたる)とあり、関東ではようやく春の訪れと桜前線も北上し、南の地方ではツバメが海を渡って来、本格的な農耕のシーズンのスタートを教えてくれる。
《穀雨》(こくう) 4月20日頃
“春雨降りて百穀を生化すれば也”(歴便覧)
春季の最後の節気で、萌え出た若い芽を育み穀物を育てる雨が降るころであり、この時季、3日以上続く長雨を「春霖」(しゅんりん)、降ったり止んだりする場合は「春時雨」(はるしぐれ)と呼び、また、菜の花(菜種)が咲いている時季なので「菜種梅雨」(なたねづゆ)、花が早く咲くようにと促す雨は「催花雨」(さいかう)といい、さまざまに呼ばれ親しまれてきた春の雨、霞の中にけむるように降るどこまでもやわらかな印象を与える。
和菓子の世界では、よもぎを使った甘味が並び、草餅や草団子のいまだけの味覚をぜひとも味わいたい。
《立夏》(りっか) 5月6日頃
“夏の立つがゆえ也”(歴便覧)
春分と夏至の中間にあたるこの日から立秋の前日までが夏とされており、唱歌に「夏も近づく八十八夜~」とあるが、夏が近づくにはちょっと気が早いが、実際の夏はまだずっと後のこと、とはいえ野山は新緑に彩られ、夏の気配は感じられる。
八十八夜(雑節)も過ぎ茶畑では茶摘みが始まり、美味しい一番茶が味わえる時季であり、端午の節句でもあるこの日には、男の子の健やかな成長を願って鎧兜や鯉のぼりを飾り、邪気を祓うとされる菖蒲の花を活け、保温効果のある菖蒲湯に浸かり、新芽が出るまで葉が落ちない柏の木が縁起物とされる柏餅を食べる。
夏の訪れと時の推移を詠んだ持統天皇の歌に「春すぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天の香具山」、今でも白いシャツはいかにも夏のイメージだが、昔の人も白い衣を見て、夏が来たことを感じていたようである
《小満》(しょうまん) 5月21日頃
“万物盈満(ばんぶつえいまん)すれば草木枝葉繁る”(歴便覧)
あらゆる生き物が日を浴びて次第に成長し、天地に満ちはじめる時期で、草木の色は一段と深みを増してゆき、“新緑”から“万緑”へと移り変わる。
また農耕が生活の糧だった時代、農作物の収穫の有無は生死にかかわるであり、秋まいた麦の穂が育ち、もろもろの作物も無事に育つと「今のところは順調だ」と一安心することから、“小さな満足”の意味に由来する。
この頃、刈り取りを待つ麦畑に吹く風を“麦嵐”とか、風までも新緑を感ずるかのように“青嵐”とも言われている。
《芒種》(ぼうしゅ) 6月6日頃
“芒(のぎ)ある穀類、稼種するとき也”(歴便覧)
芒種とは「芒(のぎ)」がある穀物の種を蒔く時期のことをいい、「芒」はイネ科植物の穂先にある針状の部分を指すが、実際には田植えを始める時期の目安とみなしており、現在でも揃いの紺絣の着物に赤いたすき、手拭、菅笠姿の「早乙女」が田植えする行事は印象的である。
七十二候では「蟷螂生腐草為蛍」(かまきりが生まれ腐った草が蛍となる)といわれるように、生き物が活発に活動する生命力溢れる季節であり、芒種から5日後が暦の上で雑節の入梅であり、紫陽花の花が街のあちらこちらに鮮やかな色合いを競って、楽しませてくれる。
また古くから6歳のこの日に芸事を始めると上手になるといわれている。
つづく |