ちょっと発表



                                     2016.09.18  4組 山崎 泰
   二十四節気について

 我々の年になると、季節の変わり目には、体のあちこちに違和感が生じることがあるが、(私だけかも知れませんが)逆に体が季節を感じ取るのかもしれません。
 また、私は猫の額ほどの借り農園で野菜を作っておりますが、作物も季節には大変敏感のようであり、頭を悩まされることもあります。
 そこで“季節とはなんぞや”と軽い気持ちで調べてみようと手をつけたものの、まず「二十四節気」なるものにぶち当たった次第である。 これからはWikipediaやその他の資料によるものです。

   「二十四節気(にじゅうしせっき)とは」
 1太陽年を日数(平気法)あるいは太陽の黄道上の視位置(定気法)によって24等分し、その分割点を含む日に季節を表す名称を付したもので、二十四気(にじゅうしき)ともいい、太陰太陽暦において月名を決定し、季節とのずれを調整するための指標として使われる。
 分割点には12の節気と12の中気が交互に配され、各月の朔日(1日)が対応する節気前後になるように月名を決め、例えば雨水が含まれる月を「正月」と決めると元日の前後半月以内に立春があることになり、中気が含まれない月が現れた場合には閏月がもうけられる。
 ただし、定気法においては例外の処理が必要となり、特に重要な中気である夏至・冬至の二至、春分・秋分の二分を併せて「二至二分」といい、重要な節気である立春・立夏・立秋・立冬を四立、二至二分と四立を併せて八節という。 
 また1年を春夏秋冬の4つの季節に分け、それぞれをさらに6つに分けた24の期間を表すものとして使われることがあり、この場合、二十四節気をさらに約5日ずつの3つに分けた、七十二候という分類があり、各気各候に応じた自然の特徴が記述されている。 大変理解に苦しむ説明ですが、この辺は軽く聞き流すくらいに留めておいてください。

   「概要」
 二十四節気は、中国の戦国時代の頃に太陰暦による季節のズレを正し、季節を春夏秋冬の4等区分にするために考案された区分手法の1つで、1年を12の「中気」と12の「節気」に分類し、それらに季節を表す名前つけられている。 なお、日本では、江戸時代の頃に用いられた暦から採用されたが、元々二十四節気は、中国の気候を元に名づけられたもので、日本の気候とは合わない名称や時期もあり、そのため、それを補足するために二十四節気のほかに土用、八十八夜、入梅、節分などの「雑節」と呼ばれる季節の区分けを取り入れたのが、日本の旧暦となっている。

   「成立の歴史」

 月の運行のみに元づいた純粋太陽暦による日付は太陽の位置と無関係であるため、暦と四季の周期との間にずれが生じて農耕等に不便である。
そこで古代中国では、本来の季節を知る目安として、太陽の運行を元にした二十四節気が暦に導入され、二十四節気による暦と月の運行による暦とのずれが一か月程度になったときに余分な一か月(閏月)を入れて調節するようになった。
 二十四節気は、ある時期に突然に発明されたわけではなく、段階的に整備されてきたものであり、二至二分は日時計(ノーモン)によって観察しやすいため古くから認識されていたと考えられ、殷周時代(中国古代の王朝)には日の最も短い冬至頃に年始が置かれていた。
甲骨文字において月名は1,2,3といった序数で表されていたが、ときおり13月が用いられ、冬至から始まる年と月の運行に基づいた月とを調整していた。
 よって殷(イン)の暦法は太陰太陽暦であったが、高度な計算を用いたものではなく、自然の観察によって適宜ずれを修正するような素朴な暦法であり、二至二分の名称は、『尚書』尭典には夏至は「日永」、冬至は「日短」、春分は「日中」、秋分は「宵中」と書かれており、戦国時代末期の『呂氏春分』では夏至は「日長至」、冬至は「日短至」、春分・秋分は「日夜分」と名付けられている。
二至二分の中間点に位置する四立に関しては『春秋左氏伝』僖公5年の「分至啓閉」という語の「啓」が立春・立夏、「閉」が立秋・立冬と考えられており、『呂氏春秋』において「立春」「立夏」「立秋」「立冬」の語が使われていることから、戦国時代に一般化したと考えられる。
 なお古代中国人は1年12カ月を春・夏・秋・冬の四時に分け、正月・2月・3月を春、4月・5月・6月を夏、7月・8月・9月を秋、10月・11月・12月を冬とした。
周では冬至を基準に年始が置かれていたが、戦国時代になると冬至の翌々月を年始とする夏正(夏暦)が各国で採用されるようになり、これにより冬至と春分の中間点が正月、すなわち春の最初の節気にあたるようになったことで「立春」と名付けられ、他の二至二分四立も春夏秋冬の名が冠せられるようになったと考えられる。
 その他の二十四節気の名称は『淮南子(えなんじ)』(前漢の国王、淮南劉安の書)において出そろっており、それまでの間に名称が固定化されたと考えられ、八節をさらに3分割したのは、月と対応させるためである。
 戦国時代には19太陽年が235朔望月(陰暦十五夜の月)にほぼ等しいとするメトン周期(約6940日で月の満ち欠けが季節と一致すことを言い、前432年にギリシャのメトンにより発見された)を導入した四分暦が使われており、1太陽年を12分割した中気は19太陽年235朔望月に228存在し、7回ほど閏月を設ければ月と中気が対応してゆくことを導き出した。

 これにより中気をもとに月名を決定することが可能になり、漢の太初暦以降、中気を含まない月を閏月とする歳中置閏法が取られ、当時の天球分割法の一つに十二次があったが、節気は太陽の視位置が各次の境界である初点にある時、中気は各次の中間の中点にある時とされた。

   「二十四節気の求め方」

 二十四節気は当初、冬至を計算の起点にし、1太陽年を24等分した15.22日ごとに名付ける恒気法と、地球の軌道は円ではなく楕円であるため、太陽の黄道(太陽が1年で一回りする天球上の道筋)上の位置を24等分(角度15度)し、太陽が通過する瞬間で決定する定気法または空間分割法という。
中国では清朝の時憲暦から定気法であったが、日本では寛政暦までは恒気法による二十四節気で、天保暦では定気法で採用されていた。


   「二十四節気の名称」

 二十四節気の名称は、発明された当時の物がほぼそのまま使われており、節気名称は実際の気温よりは太陽の高度を反映したものとなっており、日本では独自に雑節が設けられたり、本朝七十二候が作られたりした。
  名称の由来を種類別に分けると以下のようになる。

 ☆ 昼夜の長短を基準にした季節区分(各季節の中間点): 春分・夏至・秋分・冬至
 ☆ 昼夜の長短を基準にした季節区分(各季節の始期): 立春・立夏・立秋・立冬
 ☆ 気温 : 小暑・大暑・処暑・小寒・大寒
 ☆ 気象 : 雨水・白露・寒露・霜降・小雪・大雪
 ☆ 物候 : 啓蟄・清明・小満
 ☆ 農事 : 穀雨・芒種


      「二十四節気一覧」
季 節
節 月
節(せつ)
中(ちゅう)
1月
    立春(315度、2月4日頃)     雨水(330度、2月19日頃)
 
2月
    啓蟄(324度、3月4日頃)     春分(0度、3月21日頃)
 
3月
    清明(150度、4月5日頃)     穀雨(30度、4月20日頃)
4月
    立夏(45度、5月6日頃)     小満(60度、5月21日頃)
 
5月
    芒種(75度、6月6日頃)     夏至(90度、6月22日頃)
 
6月
    小暑(105度、7月7日頃)     大暑(120度、7月23日頃)
7月
    立秋(135度、8月8日頃)     処暑(150度、8月23日頃)
 
8月
    白露(165度、9月8日頃)     秋分(180度、9月23日頃)
 
9月
    寒露(195度、10月8日頃)     霜降(210度、10月24日頃)
10月
    立冬(225度、11月8日頃)     小雪(240度、11月23日頃)
 
11月
    大雪(255度、12月7日頃)     冬至(270度、12月22日頃)
 
12月
    小寒(285度、1月6日頃)     大寒(300度、1月20日頃)
      表の中で「頃」とあるが、年によって1日前後することがある。

   「節気の意味」

 この項での説明に「歴便覧」とか「七十二候」が出てくるが、それを先に説明すると。 
「歴便覧」は天明7年(1787)に太玄斎の書いた暦の解説書である。
「七十二候」は古代中国で考案された季節を表す方式の一つで、二十四節気をさらに約5日ずつの3つに分けた期間のことで、各七十二候の名称は、気象の動きや動植物の変化を知らせる短文になっているが、実際にはあり得ない事柄もふくまれており、例えば、「野鶏入れ為蜃」(キジが海に入って大ハマグリになる)などがある。
 古代中国の物が、そのまま使われている二十四節気に対し、七十二候の名称は変更されている。 日本でも江戸時代に入って渋川春海ら歴学者によって気候風土に合ったように改定され、“本朝七十二候”が作成された。

 《立春》(りっしゅん) 2月4日頃
”春の気たつを以て也”(歴便覧)
この日から立夏の前日までが春であるが、まだ寒さの厳しい時期であるが日脚は徐々に伸び、旧暦では1年の始まりと考えられており、この日から88日目となる“八十八夜”の新茶の摘み取りの時期で、この日以降に最初に吹く南寄りの強い風を“春一番”と呼ぶ。
大寒のすぐ後に立春が続くのは“陽極まって陰に転じ陰極まって陽に転ず”の陰陽五行思想に基づく考えで、少しずつ確実に暖かくなり、梅の花も咲き始める。
立春の早朝、禅寺では厄除けのために、門に「立春大吉」と書いた紙を貼る習慣があり、この文字は縦書きすると左右対称になるので1年間災難にあわないといわれている。
またこの日に汲んだ水は“若水”と呼ばれ、健康や豊作など幸せを招く水といわれ、この若水で点てたお茶を福茶と呼ばれる。

 《雨水》(うすい) 2月19日頃
“陽気地上に発し、雪氷とけて雨水となれば也”(歴便覧)
立春から約半月経ち厳しかった寒さも次第に緩み、空から降るものが雪から雨に変わり氷が溶けて水になる時期で、草木も芽生える頃で、昔から農耕の準備を始める目安とされてきた。
地域によってはこの日に雛人形を飾ると良縁に恵まれると言い伝えられてもおり、またこの時季に吹く南よりの暖かな風を“春一番”とよび、寒い日と暖かい日が交互に訪れ徐々に早春の気候に変わっていく、こうした現象を“三寒四温”とよび、この頃に降る雨を“木の芽起こし”といい、一雨ごとに木の芽がふくらむことから、こう呼ばれている。

 《啓蟄》(けいちつ) 3月4日頃
“陽気地中にうごき、ちぢまる虫、穴をひらき出でれば也”(歴便覧)
七十二候では「蟄虫咸動きて、戸を啓きて初めて出ず」とあり、蟄虫は地面の中にかくれて冬眠しているもろもろの虫で、啓は“ひらく”という意味で、冬眠していた虫たちやヘビ、カエルなどが穴から這い出てくる季節を表す。
古い中国語で「虫」は広く動物を意味していたため、蛇や蛙をはじめ、昆虫以外を表す漢字にも虫偏がつくものが多い。
また、この頃に初めて鳴る春雷を初雷(はつなり)といい、虫の目を覚まさせることから“虫出しの雷”ともいい、松を害虫から守るために巻き付けていたムシロを外す「菰はずし」は啓蟄の恒例行事としている所も多く、柳の若芽が芽吹き蕗のとうの花がさき、桃の花もほころび、いよいよ春も近い。

 《春分》(しゅんぶん) 3月21日頃
“日天の中を行きて昼夜等分の時也”(歴便覧)
この日をはさんで前後7日間が春の彼岸で、この日太陽は真東から昇り真西に沈み、昼と夜の時間がほぼ等しく、仏教では極楽浄土は西のかなたにあると信じられおり、太陽が真西に沈む春分の日と秋分の日が極楽浄土にいる阿弥陀如来を拝礼するのに近い日と考えられ、この日に先祖の供養や仏事を行うようになったという。
「自然を讃え、生物を慈しむ日」とも言われ、国民の祝日となっており、“暑さ寒さも彼岸まで”と言われるように、寒さも峠を越して温和な気候になるとされ、桜の開花が聞かれるのもこの時期からである。
 
 《清明》(せいめい) 4月5日頃
“万物発して清浄明潔なれば、此芽は何の草としれる也”(暦便覧)
清明とは清浄明潔の略で万物が清らかでけがれが無く明らかなことで、この頃の晴れ渡った空はまさに「清浄明潔」の語がふさわしく、地上では、新芽が芽吹きいろいろな花が咲き競う季節である。
古来中国ではこの日、河辺で冬の間中着用した衣服などを洗い清め、郊外に遊び、また先祖の墓参りをする習慣があったが、日本でも沖縄地方では旧暦3月に清明節(うしーみー)といって一族揃って墓参りをする風習がある。
清明の日は七十二候では「玄鳥至」(燕きたる)とあり、関東ではようやく春の訪れと桜前線も北上し、南の地方ではツバメが海を渡って来、本格的な農耕のシーズンのスタートを教えてくれる。

 《穀雨》(こくう) 4月20日頃
“春雨降りて百穀を生化すれば也”(歴便覧)
春季の最後の節気で、萌え出た若い芽を育み穀物を育てる雨が降るころであり、この時季、3日以上続く長雨を「春霖」(しゅんりん)、降ったり止んだりする場合は「春時雨」(はるしぐれ)と呼び、また、菜の花(菜種)が咲いている時季なので「菜種梅雨」(なたねづゆ)、花が早く咲くようにと促す雨は「催花雨」(さいかう)といい、さまざまに呼ばれ親しまれてきた春の雨、霞の中にけむるように降るどこまでもやわらかな印象を与える。
和菓子の世界では、よもぎを使った甘味が並び、草餅や草団子のいまだけの味覚をぜひとも味わいたい。

 《立夏》(りっか) 5月6日頃
“夏の立つがゆえ也”(歴便覧)
春分と夏至の中間にあたるこの日から立秋の前日までが夏とされており、唱歌に「夏も近づく八十八夜~」とあるが、夏が近づくにはちょっと気が早いが、実際の夏はまだずっと後のこと、とはいえ野山は新緑に彩られ、夏の気配は感じられる。
八十八夜(雑節)も過ぎ茶畑では茶摘みが始まり、美味しい一番茶が味わえる時季であり、端午の節句でもあるこの日には、男の子の健やかな成長を願って鎧兜や鯉のぼりを飾り、邪気を祓うとされる菖蒲の花を活け、保温効果のある菖蒲湯に浸かり、新芽が出るまで葉が落ちない柏の木が縁起物とされる柏餅を食べる。
夏の訪れと時の推移を詠んだ持統天皇の歌に「春すぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天の香具山」、今でも白いシャツはいかにも夏のイメージだが、昔の人も白い衣を見て、夏が来たことを感じていたようである

 《小満》(しょうまん) 5月21日頃
“万物盈満(ばんぶつえいまん)すれば草木枝葉繁る”(歴便覧)
あらゆる生き物が日を浴びて次第に成長し、天地に満ちはじめる時期で、草木の色は一段と深みを増してゆき、“新緑”から“万緑”へと移り変わる。
また農耕が生活の糧だった時代、農作物の収穫の有無は生死にかかわるであり、秋まいた麦の穂が育ち、もろもろの作物も無事に育つと「今のところは順調だ」と一安心することから、“小さな満足”の意味に由来する。
この頃、刈り取りを待つ麦畑に吹く風を“麦嵐”とか、風までも新緑を感ずるかのように“青嵐”とも言われている。
 《芒種》(ぼうしゅ) 6月6日頃
“芒(のぎ)ある穀類、稼種するとき也”(歴便覧)
芒種とは「芒(のぎ)」がある穀物の種を蒔く時期のことをいい、「芒」はイネ科植物の穂先にある針状の部分を指すが、実際には田植えを始める時期の目安とみなしており、現在でも揃いの紺絣の着物に赤いたすき、手拭、菅笠姿の「早乙女」が田植えする行事は印象的である。
七十二候では「蟷螂生腐草為蛍」(かまきりが生まれ腐った草が蛍となる)といわれるように、生き物が活発に活動する生命力溢れる季節であり、芒種から5日後が暦の上で雑節の入梅であり、紫陽花の花が街のあちらこちらに鮮やかな色合いを競って、楽しませてくれる。
また古くから6歳のこの日に芸事を始めると上手になるといわれている。

                                         つづく

          1つ前のページへ