ちょっと発表



                                     2017.03.08  4組 山崎 泰
   二十四節気について  その3

 これまでの二十四節気の説明の中に出てきた「雑節」と「七十二候」について、これから分かる範囲で記述してみたいと思います。

   雑節》 
 雑節とは、五節句・二十四節気以外の季節の移り変わりの目安となる日の総称です。
農業に従事する人々は二十四節気では十分に季節の変化を読み切れないため、その補助をする為に考えられた日本独自の暦で、雑節が考えられた背景には、農業が季節の移り変わりを正確に理解出来れば農作物に多大の損害を出さずにすむという自然現象と農業の深い関係がありました。
例えば“もうすぐ八十八夜だから、霜が降りてくる前に対策をしよう”というわけです。
雑節とは、「節分」「彼岸」「社日(しゃにち)」「八十八夜」「入梅」「半夏生(はんげしょう)」「土用」「二百十日」「二百二十日」があげられる。
これらの日付は毎年変わるものもあり、その年毎の雑節については、国立天文台の「二十四節気」と一緒に、毎年2月初めに翌年の暦が発表されております。

   《節分》 2月3日頃

 節分は、各季節の始まりの日(立春・立夏・立秋・立冬)の前日のことを指し、節分とは「季節を分ける」ことをも意味し、江戸時代以降は、立春は冬から春への変わり目であり、新たな年の始まりとも考えられたことから、立春前日を特別に「節分」というようになり、以後の説明はこの春の節分のこととし、現在は2月3日になっているが、立春は太陽黄経が315度となる日であり、このような間接的に天体の運行に基づくものであり、日付は年により異なる。
 季節の変わり目には邪気(鬼)が生じると考えられており、この邪気を追い払うために、節分には古くから豆撒きの行事が執り行われていた。 文武天皇の頃中国から伝えられたといわれ、宮中行事では、弓矢などで悪気・疫癘(えきれい)などを追い払う行事や、平安時代には陰陽師たちが、宮中で大晦日におこなっており、これら宮中行事の「追儺(ついな)」と、寺社で邪気を祓うために節分に行っていた「豆打ち」の儀式が合わさったものと言われている。
 豆は、「穀物には生命力と魔除けの呪力が備わっている」という信仰、または語呂合わせで「魔目(豆・まめ)」を鬼の目に投げつけて鬼を滅する「魔滅」に通じ、鬼に豆をぶつけることにより、邪気を追い払い、一年の無病息災を願うという意味合いがある。
 最近はあまり見られないが、節分に家の門口に柊の葉の刺が鬼に刺さり、またお鬼は鰯の頭の悪臭に驚いてにげていくとされ、それらを飾り魔除けの効果があると考えられていた。
 かっては、豆の他に、米、麦、かちぐり、炭なども使用されたといい、豆撒きになったのは、五穀の中でも収穫量も多く、鬼を追い払うときにぶつかって立てる音や粒のおおきさが適当だったからとする説もあるが、定かでない。 最近では、大阪を中心に恵方巻が流行っているが、これは福を巻き込んでくれるので、切らずにかぶりつき、しゃべらずにお願い事を心の中で唱えながら恵方の方角に向いて食べるという。


   《彼岸》3月21日頃と9月23日頃が中日

 彼岸は春分・秋分を中日とし、前後各3日を合わせた各7日間(1年で14日間)であり、この期間に行う仏事を彼岸会(ひがんえ)と呼ぶ。
「彼岸会」とはお寺で中日に先祖を供養をすると同時に、悟りの境地に達するのに必要な残り6日で、6つの徳目「六波羅蜜」の教えを1日で1つを会得する大事な行事で、他の仏教国にはあまり見られない行事ですが、古来の民俗信仰とも深く結びついた「孟蘭盆会」や「施餓鬼会」と共に仏教の年中行事の中でも最も一般的に盛んに行われている。
日本で初めて彼岸会が行われたのは、大同元年(806年)で、崇道天皇(早良親王)のために諸国の国分寺に命じて「七日金剛般若経を読まわしむ」と「日本後記」に記述されている。
彼岸の語源はサンスクリットのparam(パーラム)の意訳であり、仏教用語としては、「波羅蜜」(paramitaパーラミター)の意訳「至彼岸」に由来し、ParamitaをParam(彼岸に)+ita(到った)、つまり、「彼岸」という場所に至ることと解釈しており、悟りに至るために超えるべき迷いや煩悩を川に例え(三途の川とは無関係)、その向こう岸に涅槃があるとする。
現在では、彼岸の仏事は浄土思想に結びつき、それに信じられている極楽浄土は西方の遥か彼方にあると考えられ、前述したように、春分と秋分は、太陽が真東から昇り、真西に沈むので、西方に沈む太陽を礼拝し、遥か彼方の極楽浄土に思いをはせたのが彼岸の始まりである。

日本の気候を表す慣用句に「暑さ寒さも彼岸まで」があり、残寒・残暑は彼岸のころまで続き、彼岸を過ぎるとやわらぐという。
彼岸の供え物として作られる「ぼたもち」と「おはぎ」は、彼岸の頃に咲く牡丹(春)と萩(秋)に由来すると言われている。


   《社日》(しゃにち) 春社3月23日頃、秋社9月24日頃

社日は、生まれた土地の守護神である「産土神」(うぶすなのかみ)を祀る日で、春の「春社(しゅんしゃ、はるしゃ)」と秋の「秋社(しゅうしゃ、あきしゃ)」とがあり、「社」とは土地の守護神、土の神を意味する。
春分と秋分に最も近い戊(つちのえ)の日が社日となり、ただし戊と戊のちょうど中間に春分日・秋分日が来る場合は、春分・秋分の瞬間が午前中ならば前の戊の日、午後ならば後の戊の日とするが、このような場合は前の戊の日とする決め方もある。
社日が「戊の日」に行われる理由は、十干の戊が五行説では、土の徳を備えたものとされること(つちのえ、土の兄)から、土の霊力を祭る日に選ばれたものと考えられている。
春は種まきの時期で、秋は収穫期に重なる事から農業を行う人々にとって大切な節目となり、春の社日には、五穀を供えて豊作を祈り、秋の社日は、稲穂を供えて収穫に感謝していましたが各地では、以下のような事が行われている。

長野県の小県(ちいさがた)郡では、田の神のことを、お社日様といい、春秋の社日には餅をついて祝い、福岡県嘉穂(かほ)郡では、社日にシオイといって海岸から砂を持ってきて家の内外に蒔いて清めをし、山梨県では社日詣でといって春の社日には石の鳥居を七つくぐると中風にならないといって、ほうぼうの神社を拝み回る習慣があり、京都府の旧中郡地域(現在の京丹後市)では、社日詣りといって、明け方に東の方の社寺を詣り、それから順に西の方へと行き最後に日の入りを拝むという。



   《八十八夜》5月2日頃

 八十八夜は立春を起算日(第1日目)として88日目(立春の87日後の日)にあたり、もともと、太陰暦がベースである日本の旧暦では暦日と実際の季節が最悪で半月もずれるために、太陽暦をベースとした雑節としておこり広まったもので、現代ではさしたる意味は無い。
21世紀初頭の現在では平年なら5月2日、閏年なら5月1日であり、数十年以上のスパンでは、立春の変動により5月3日の年もある。
「八十八夜の別れ霜」「八十八夜の泣き霜」などといわれるように、遅霜が発生する時期であるが、「九十九夜の泣き霜」という言葉あり、5月半ばごろまで泣いても泣いても泣ききれない程の大きな遅霜の被害が発生する地方もあり、農家に対して特に注意を喚起するためにこの雑節がつくられた。

お茶の歴史は1,200年にもなり、昔からお茶は高級品とされており、庶民が飲めるようになったのは、大正時代といわれています。
私の出身の旧清水村は茶所で村の名前のごとく、処々に美味しい湧き水が出ており、この水で飲むお茶は最高で、今でも田舎に出かけるときは、10リットルの容器を持参してゆく程、美味しいですが、茶摘みの最盛期である八十八夜、末広がりの「八」は幸運を呼び、縁起を担ぐという意味合いと気候条件も含めてこの時期のお茶は極上である。
お茶の新芽には全年の秋からひと冬越えて蓄えられた成分があふれており、特有の若々しい香りが失われないうちに製茶された一番茶をゆったり寛いで飲みたいものです。
一番茶は二番茶以降のお茶よりもうま味のもとであるテニアンなどの成分を豊富に含んでいるといわれています。
茶摘みの適期ではあるが、また漁の目安とす所もあり、瀬戸内では俗に「魚島時(うおじまどき)」といわれるほど豊漁の続く頃といわれ、種子島や屋久島ではトビウオ漁開始の時期とされていた。


   《入梅》6月10日頃

 その名のとおり、梅雨入りの時期を前もって示すために導入された雑節で、農家にとって梅雨入りの時期を知ることは田植えの日取りを決めるのに重要であった。
梅雨(ばいう・つゆ)は、中国、韓国、日本などの東アジアに見られる雨季のことで、中国で梅の実が熟する頃の雨季を梅雨(めいゆ)と呼ばれて、それが日本に伝わったといわれ、また、黴(かび)が生えやすい時季なので「黴雨」と書いて「ばいう」と名付けられたようで、ちょうど梅の実が収穫される頃にあたることから「梅」の字をあてて「梅雨」とかくようになったといわれている。
入梅は芒種の後の最初の壬(みずのえ)の日で、それは陰陽五行説で「壬は水の気の強い性格」とされており、水との縁がある日ということで、入梅の時期の目安に選ばれた。
入梅は梅雨の季節に入る最初の日で「にゅうばい」と呼び、その日から30日間が梅雨である。
                        


   《半夏生》(はんげしょう) 7月2日頃

半夏生は烏柄杓(からすびしゃく)という毒草の生える時期であり、この草の別名が「半夏」といい、半夏の生える時期であることから「半夏生」と呼ばれたのだそうである。
ハンゲショウのまた別名がカタシログサと呼ばれ、葉が名前のとおり半分白くなって化粧しているようになる頃ともいわれている。
かっては夏至から数えて11日目としていたが、現在では天球上の黄経100度の点を太陽が通過する日となっており、毎年7月2日頃にあたる。
この頃降る雨を「半夏雨」(はんげあめ)といい、地方によっては「半夏水」(はんげみず)とも言い、大雨になることが多い。
関西地方では「半夏生にタコをたべる」と言われ、元々は田植えを終えた農家が、神様に食べ物を捧げて豊作を願ったことから始まり、その時タコを捧げて豊作祈願後にみんなで食べたことが「半夏生にタコを食べる」となった。
タコが捧げ物に選ばれた理由としては、八本足で稲がしっかり根を張ることを願い、あるいはタコに沢山生えた吸盤のように稲も沢山実ることを願ったからという説もある。
各地方により、捧げたり、食する物は異なり、その地方の特産物が目立ち、たとえば香川では“うどん”、福井では“焼き鯖”、奈良は“キナコ餅”、長野は“芋汁”といったものがあり、群馬県の一部では、この日、ネギ畑に入ることは禁忌とするし、三重県の沿岸部ではハンゲという妖怪が徘徊するのでこの時期は農作業を行うことを戒めるといった事柄もある。

   《土用》どよう) 

土用の入り日、(冬)1月17日頃、(春)4月17日頃、(夏)7月20日頃、(秋)10月20日頃

土用とは、五行に由来する暦の雑節であり、1年のうち不連続な4つの期間で、四立(立夏・立秋・立冬・立春)の直前約18日間ずつである。
各土用の最初の日を“土用の入り”と呼び、最後の日は節分である。
俗に、夏の土用(立春直前)を指すことが多く、夏の土用は、1年の中で最も暑さが厳しいとされる時期にあたるため、江戸時代にはこの期間の丑の日を「土用の丑の日」と重視し、柿の葉などの薬草を入れたお風呂(丑湯)にはいったり、お灸をすえたり(土用灸)すると夏バテや病気回復などに効き目があるとされており、年によっては土用の期間に丑の日が2回おとずれることもあり、この2回目の丑の日を「二の丑」という。
夏土用に入って3日間晴れれば豊作で、雨が降れば凶作といわれ、この豊凶占いのことを「土用三郎」ともいわれ、また、夏土用の時期に、黴や虫の害から守るため、衣類や書物に風を通して陰干しすることを「土用の丑干し・土用干し」という。

土用のこの期間にしてはいけないことがあり、それは“土を犯してはいけない”と言われ、土を司る「土公神(とくしん)」という神様が支配するといわれており、今でも家の建築の際、土を掘り起こしたりする基礎工事などは土用の期間を外しているが、土用に入る前に着工しておれば、作業を続けることは差し支えないとされている。
ただし、土公神が天上にゆき、地上にいなくなる日があり、この日を「土用の間日(まび)」と言い、その日が設けられており、その日は土用の障りがないとされている。


   《二百十日》9月1日頃

 二百十日は立春を起算日として210日目(立春の209日後の日)であり、日付ではおよそ9月1日頃であるが、台風の多い日もしくは風の強い日といわれている。
稲が開花、結実する大事なときですが、台風が相次いで到来すると農作物が被害を受けることがよくあり、厄日とか荒れ日などといわれ、伊勢の船乗りたちは、長年の経験によって凶日としていた。
1684年に貞享暦として編纂され、それに携わった渋川春海が釣り好きで、たびたび出かけた品川の漁師から教えられたのがきっかけといわれているが、定かでない。
風を鎮めるために祭りを行ったが、それが“風祭りの風習”の始まりで、農作物を守るために風を鎮めるための風祭りは全国各地にのこっており、特に有名なのが富山市八尾町で行われている風祭りや、越中八尾の「おはら風の盆」で、これは風を鎮める豊年祈願と盆踊りが融合し、娯楽の一つとして愛しまれてきたお祭りで、300年以上の歴史があり、坂の町八尾の古い町並みに哀愁を帯びた胡弓の音色が響き、「越中おはら節」にのせて編み笠をかぶった男女が踊り歩きます。
嵐の来襲する確率の高い荒日(あらび)として、八朔(8月1日)、二百十日、二百二十日の3日は、三大厄日として恐れられている。
9月1日といえば「防災の日」であることも忘れてはいけないが、「防災の日」は大正12年(1923)の9月1日に発生した関東大震災にちなんで昭和35年(1960)に制定され、「防災の日」の制定される前年には、伊勢湾台風(死者、行方不明者およそ5,100人、負傷者およそ39,000人)が襲来し、それをきっかけに災害対策基本法が制定された。


   《二百二十日》 9月11日頃

 二百二十日は立春を起算日として220日目(立春の219日後の日)であり、21世紀初頭の現在では平年なら9月11日、閏年なら9月10日であり、数十年以上のスパンでは立春の変動により9月12日の年もある。
八朔(8月1日)、二百十日とともに天候が悪くなり、農家の三大厄日とされているが、統計的には、台風は二百十日から9月下旬にかけて襲来することが多く、二百十日よりも二百二十日の方が警戒する必要があり、一節には二百二十日が中心であるが、二百十日頃から注意が必要であることを知らしめるために「二百十日」「二百二十日」が雑節に取り上げられたとも言われている。

以上が雑節であるが次回は「七十二候」を記載することとする。



 

 


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