ちょっと発表



                                     2013.06.27   山崎 泰
「 私と日本橋 -5- 」
 大変お待たせいたしましたが、これからは旧日本橋区の「老舗の暖簾(のれん)」をご案内いたしたいと思いますので、お付き合いください。
「老舗の暖簾」を今さら説明もないのですが、屋号や商号、家紋などを染め抜き、商家の店先に掲げられる「暖簾」で、その歴史は奈良時代までさかのぼり、平安時代には京都の商家などですでに使われていたという。
 暖簾は元々、風や光、暑さや寒さよけのために取り付けられたのが始まりだが、現在では店を表す象徴的な意味としても用いられ、特に長い年月をかけて築き上げた信用を「暖簾」の言葉に託すことが多く、この「暖簾」を守り続けてきた店こそが「老舗」であり「老舗の暖簾」は「信用の証」なのであると。


 



「嶋村」 八重洲 1-8-6   TEL 03-3271-9963


 まず、東京駅八重洲口から出かけますが、外堀通りを渡ってみずほ銀行と八重洲口会館の間の通りに入り中ほどの右手に、以前紹介した「嶋村」がある。
 嘉永3年(1850)の創業で8代も続き、ペルーの黒船の来る前年の創業であり、全て座敷店舗の和食、ふぐ料理であり、特に当店の名物は「金ぷら丼」(1200円)の天丼ですが、こがね色に変わるといわれ、この名がついたとのことです。ランチには、鳥ひとくち揚重、錦丼、などが人気です。
 

1 嶋村
   

「や満登」 八重洲 1-7-4   TEL  03-3271-2491

 この通りの一本日本橋寄りの通称八重洲北口通りに、これも以前紹介した「や満登」がある。
 明治35年(1902)創業で、日本の産業革命期で良きも悪しきも混沌としていた社会で「しののめのストライキさりとはつらいね」などが謳われていたように、労働運動華やかなりし時代であったが、ここも以前紹介した檜物町時代の花柳界日本橋の様子を表した泉鏡花の「日本橋」の中にも「矢満登さんからお座敷がかかりましたよ」のセリフにも出てくる店で、当時は14~15人は入れる大浴場があり、3時頃から旦那衆が浴衣姿で風呂に入ったり、碁や将棋を打って遊び、5時頃になると、スーツに着替えて芸者衆と遊び、宴が盛り上がると又浴衣に着替えて更に盛り上がったとのこと。懐石料理、ふぐ料理であるが、こだわりの料理が鯛のかぶと煮や揚げ出し豆腐で、コース料理(6000~10000円)では若鶏の水炊き、寄せ鍋、フクチリ鍋などがあり、ランチの手提弁当(2500円)が人気です。
 

 
2 や満登
 
 
 
 

「すし鉄」 日本橋 3-3-12   TEL  03-3275-0717

 や満登から八重洲仲通りに出て、右に行き、八重洲通りの一本手前の通りを中央通りに向かって中ほどの左手に「すし鉄」がある。
 創業がなんと慶応2年(1866)で薩長同盟が成立した年であり、初代の鉄五郎が当初深川あたりに屋台で始め、昭和の始めに日本橋に店構えをして現在四代目であり、さすがに店構えは近代建物で敷居の重そうな玄関であるが、外のメニューを見るとランチは800円でにぎり、ちらし、ばら寿司がたべられ、夜も4000円からのリーズナブルであるが、あまり素材は良いようには見えないが、値段的にそんなものかと思う。自家製の穴子ダレとコハダが中でも人気のようであり、大丸デパートの12階にも出店している。

3 すし鉄
 

 

「丸善日本橋店」 日本橋 2-3-10   TEL  03-6202-0013

 すし鉄から中央通りに出て、日本橋方面に丸善に着きます。 その3階のカフエに行くとハヤシライスのショーウインドーがあるが、このハヤシライスを生み出したのは、丸善創業者の早矢仕有的(はやしゆうてき)と言われているが、有的は福沢諭吉の日本近代化思想に共鳴し門下生となり、ヘボンら当時日本を訪れていた外国人とも親交があり、西洋料理にもなじみがあった。明治2年(1869)に商社として誕生し、大政奉還直後の世で農民一揆が多発し、榎本武揚を降伏させ、やっと新政府が全国を平定した年であったが、有的は友人らが訪問してきた際に、有り合わせの肉や野菜をゴッタ煮にして、ご飯を添えて饗応するのが常で、やがてこの料理を「早矢仕さんのライス」といわれるように評判を呼んで、ついには「ハヤシライス」の名で街のレストランのメニューにまで書かれるようになったとのことです。

4 丸善日本橋店
 
 

 

「吉野鮨本店」 日本橋 3-8-11   TEL  03-3274-3001

 丸善を出て中央通りを高島屋のほうに渡り、高島屋と百十四銀行との間のさくら通りを進み、昭和通りの一本手前のあじさい通りを右に2~30mほどの角に吉野鮨本店がある。創業明治12年(1889)自由民権運動華やかなころで、133年目の寿司屋の老舗中の老舗であり、箸袋に‟江戸でうまれて東京で育ちいまじゃ日本をにぎりずし”と洒落た都都逸を入れているが、以前は先代のエノケンに似たオヤジの顔のイラストを茶碗のコスターにも描いていたような洒落気があり、江戸前寿司の定義は‟東京湾の魚貝のみを使用した寿司”とか‟江戸や明治の技法を継承している寿司”といわれるが、広い意味では‟握りずしを中心としたすし店で提供される寿司”のことであり、吉野鮨も同様に江戸時代には屋台ずしであり、当然‟生すし”などはなく、現在の冷凍、冷蔵、輸送手段の発達により江戸前の意味が薄れてきているが、箸袋に示すように江戸前の由緒ある印象が強いが、主人は‟ごく普通の鮨屋”を謳っている。
  “猫またぎ”といわれマグロの脂身は猫にも無視された部位を捨てていたが、不漁が続きその脂身を初めて出してみたら、口の中でとろけるように旨かったので、この脂身を日本で始めて客にだし“トロ”と名付けたのもこの店です。 ランチは、にぎりもちらしも1500円からで、夜は8000円からと多少高いが満足度は満たされ、外国人にも人気の店である。

5 吉野鮨本店
 
 

 

「山本山日本橋本店」 日本橋 2-5-2   TEL 03-3281-0010

 吉野鮨から高島屋の中央通りに戻り、日本橋側に100mほどに山本山海苔店がある。元禄3年(1690)松尾芭蕉が奥の細道に出かけた翌年の創業で、初代山本喜兵衛が江戸に茶や紙類の商いで出店し、天明7年(1787)日本橋二丁目に茶所として出店し、文政13年(1830)に西御本丸、東叡山、御三郷(田安、一ツ橋、清水)の茶御用を務め、天保6年(1835)に六代喜兵衛が玉露茶を発明し「煎茶小述」を著す。
上から読んでも下から読んでも‟山本山”であるが、江戸のある時期から宇治煎茶の‟山本山”銘々の品が売れ筋であったが、後の山は何故付いたかは定かではなく、昭和16年に社名も‟山本山”にしたとのことです。

店内に茶房が設けられており、(7)季節の菓子に煎茶を600円でいただけるので、買い物客以外の人も立ち寄っている。

 
6 山本山海苔店
7 山本山お茶セット

 

「はいばら」 日本橋 2-8-11 (旭洋ビル2F)   TEL 03-3272-3801

 山本山から日本橋交差点を右折して現在元の店舗は工事中であるが、その先のあじさい通りの角の旭洋ビルの2階に「はいばら」がある。
 創業文化3年(1806)で、老中松平定信引退後も寛政改革のあおりで米価が下落し、幕府も諸大名も財政困窮でてんやわんやの頃、初代佐助が日本橋に和紙舗を開業して200年余り「雁皮紙榛原」ののれんが示すように、江戸の庶民に最初に雁皮紙(がんぴし)を売り出したのがはじまりで、以来和紙は勿論便箋、封筒、絵葉書、色紙、小物入れ、贈答金封やオフイス用紙、計測記録紙等を扱っているが、雁皮紙のすごさは日本国そのものを表していると言っても過言ではないといわれ、文明開化期には榛原の和紙が日本で初めて輸出し、同時に初めて洋紙を輸入し、1873年のウイーン万博、1878年のパリ万博に和紙を出品し絶賛され、この間にヨーロッパに渡った榛原の和紙は、ビクトリア・アルバート美術館、グラスゴー美術館、ルーブル美術館などに保存されているそうです。

 榛原の凄さは、四代目中村直次郎が、榛原が守り伝えてきた紙の文化を「聚玉文庫」として集積され、古きものを現代に、そして次の時代へ受け継ぐための調査、保存活動がなされ、その所蔵資料は肉筆画、摺り物、画稿、版木、千代紙、彫刻などの美術工芸品、江戸期よりの書捷時代の書籍類、原稿などの文献資料を中心に、明治大正期を中心とする歴史的な資料を保管しているとのことです。私も使用しているお勧め品は、一筆箋の大きさの蛇腹便箋で、(9)蛇腹で一枚ずつ切り離して一筆箋に使い、切らないで多文にも使える便利さがある。


8 はいばら
9 蛇腹セット
 
 

 

「たいめいけん」 日本橋 1-12-10   TEL 03-3271-2463

 「はいばら」の前のあじさい通りを日本橋川の方向に永代通りを越え、コレド日本橋の横道を行くと「たいめいけん」に着く。
 創業は昭和6年で、前年からの大恐慌に労働運動や農民運動が多発し、はたまた関東軍が動き出し満州事件の勃発となった年に、初代茂出木心護が昭和元年頃「西支御料理処」泰明軒本店に奉公し、この店は西洋料理の他に中華料理も出していたが、昭和6年に新川に支店を出すにあたり「たいめいけん」の名で開店し、そののれんに鶏、牛、馬、魚の中央に蕪(かぶ)の絵が描いてあったそうだが、現在ののれんのロゴマーク‟たいめいけん”の‟たい”の‟い”の字に蕪のイメージのデッサンで画かれており、(11)これは初代が修行中に、大旦那から八百屋に行って「ナベ」を買って来いと言われて考え込んでいると、「何もたもたしているんだ」と起こられ、八百屋でナベとは何のことやら、兄弟子にそっと聞くと、蕪のことをフランス語でNAVET(ナベ)と言うとのことで、これを心にしっかり植えつけ、初心忘れずと蕪を取り入れている。
ここの看板料理は①にオムライス、②にコールスロー、③にポテトコロッケ、④にグラタンであり、メニューの始めにコールスロー50円、ボルシチ50円とあるが、この2点は単品注文が出来ず、他の料理との組み合わせで注文となるが、他に卵料理、肉料理、魚介料理、特性ラーメンがあるが、当店ではタンポポビーフオムライス(2650円)がお勧めのようですが、私はタンポポオムライス(伊丹十三風)(1850円)とコールスローかボルシチの組み合わせが好きですが、このタンポポとはオムライスの熱いうちに腹をナイフで一直線に切ると、開いた形がタンポポの色と形が似ていることから付いた名です。
1階はリーズナブルなメニュー類ですが、2階は本格的な洋食レストランであり、コース料理のほかに、この店独特の小皿料理も多種類揃えていることでも有名です。
 初代の趣味が高じて、玄関左端のエレベーターで5階に「凧の博物館」(入場料200円)があり、(12)約3000点の江戸凧や、洋凧が展示されている。



 

10 たいめいけん
11 燕のイラスト
12 凧の展示場
 
 

 

「日本橋西川」 日本橋 1-5-3   TEL 03-3271-5538

 「たいめいけん」を出て、コレド日本橋の裏道を中央通りに出て右折すると、布団の西川につきます。
 創業は天文18年(1549)、キリスト教布教のために鹿児島にフランシスコ・デ・ザビエルが来朝した年であり、西川家はもともと‟西川甚五郎商店”と称し、「近江八幡の御三家」の代表的家系であり、天正15年(1587)に西川右衛門が近江八幡に店を構え、萌黄(もえぎ)蚊帳を製造販売し、のちに畳表の製造販売にも力をいれ、徳川家康が江戸幕府開府の際、日本橋付近に有力な商人を誘致した際、近江商人の四家の中に選ばれ、元和元年(1615)に日本橋の袂に出店した。(14)

現在は14代西川甚五郎会長であり、近年は‟ムアツ布団”をはじめ‟快圧布団”から‟整圧布団”と近代化し、枕も近代的、科学的なものを開発している。



 

13 日本橋西川
 
14 西川のあゆみ
 
 

 

「黒江屋」 日本橋 1-2-6 (黒江屋国分ビル2F) TEL 03-3272-0948

 西川を出て、中央通りを対面に渡り、黒江屋国分ビルの2階に行くと、黒江屋があります。
 創業元禄2年(1689)で、 長崎に唐人屋敷が設立され、ドイツ人医師のエンゲルベルト・ケンペルが翌年来朝した年で、漆器の名産地の紀伊国名草郡黒江村(現在の海南市黒江)から江戸へ出て来た初代の人物(姓名不詳)が日本橋に漆器店を起こし、屋号を「黒江屋」とし、代々黒江屋太兵衛を襲名し、安永3年(1774)に京都を中心に小間物屋などを手広く商い、黒江屋と同時期に江戸に出店した「柏屋」に塗物問屋の黒江屋と紙問屋の松坂屋の経営権が移り、柏屋は加藤清正の家臣の家系でもあり、店名は「黒江屋」のままであるが、商標の○に柏はこの由来であり、日本橋の袂にのれんを揚げて300年、(16)日本古来からの漆工芸の精緻をいまだに守り続けている。

1階の入口に小さなショーウインドーが出ているが、見落とさないよう気をつけないと、通り過ぎます。

 

15 黒江屋
 
16 黒江屋展示品
 

 

「栄太楼総本舗」 日本橋 1-2-5   TEL 03-3271-7781

 黒江国分ビルの隣に大きな間口の店構えの栄太楼総本店があります。
 文政元年(1818)老中首座に水野忠成がなり、滝沢馬琴が“南総里見八犬伝”を執筆中の頃、井筒屋と称して、初代徳兵衛が挙煎餅店を構えたのが始まりで、三代目細田安兵衛(幼名栄太郎)が父の代までの井筒屋の屋台菓子店をたたみ日本橋西河岸(現在を栄太楼ビルの地)に店舗を構え、やがて屋号も自らの幼名栄太郎にちなんで「栄太楼」に改号、南蛮渡来の細工菓子アルフエニン(有平糖)、梅ぼ志飴、甘納豆、玉だれを創製する。
当時、京都、大阪で見られるのれんは白地に黒字での屋号が多いのですが、江戸日本橋界隈では紺藍ののれんが一般的とのことで、当店にも玄関右手に立派な紺藍に栄太楼の商標が白抜きされているのれんがあるが、左手に赤い多きな玉石が展示されており、玄関入口に御影敷石とそれを囲むように幅3m、奥行き2.3mの真鍮製目地があるが、これらの物語は以前「一石橋」の話しの時に述べた大富豪で金座を仕切っていた後藤家も明治維新により貨幣が国営発行となり、家屋敷を手放さざるをえず、初代栄太楼が後藤家の客間の床の間に掛けられた圓山応挙の「風鳥の図」とその客間から眺められた庭に添えてあった「赤玉石」を見て、(18)“この絵と石をお譲り頂けるのなら、この屋敷も一緒に買い取りましょう”と申し出て求めた赤玉石であり、(19)御影敷石は創業当時からの敷石で、真鍮製の目地は創業時の小さな店構えから、お客様のご愛顧のお陰での感謝を忘れないように、とのことである。

「栄太楼」として安政4年(1857)創業以来の江戸菓子の創製品(名代金鍔、甘名納糖、栄太楼飴、玉だれ)の他に、新作の季節に異なる和菓子の数の多いことにも驚きである。

 

17 栄太楼本舗
18 赤玉石
19 開店時表示

 

「藪伊豆総本店」 日本橋 3-15-7   TEL 03-3242-1240

 これからは、少し離れた場所に移動しますが、栄太楼から高島屋に戻ってもらい、高島屋と百十四銀行の間のさくら通りを昭和通りに向かい昭和通りの横断歩道橋を渡り、右に降りて左折し、高速道路上の新場橋を渡り、すぐの道を右折して2~30mの右側に藪伊豆総本店がある。
 天保年間(1830~43)この頃は天保の改革や大飢饉や大塩の乱など混沌としていた時代の初めに、江戸でそばを業とした「伊豆本」という屋号で京橋で創業していた。
明治15年(1882)に神田の藪ののれんに包含され、藪本家の堀田定次郎氏が藪と伊豆本を合わせて「藪伊豆」と命名され、藪のれんの直系の分家となり、京橋で長く営んでいたが、平成8年に日本橋に移り、先代の中には日本飲食業界初の藍綬褒章や薫三等瑞宝章を受章した方が居るという。
毎日店先にある石臼で良質の玄そばを自家製粉し、その日のうちに挽いたそば粉の香りを楽しめるように提供しており、ここのお勧めにそば寿司(21)があり、薄焼き卵、椎茸、干瓢といったシンプルな具材をほんのり甘い合わせ酢をなじませたそばと共に海苔で巻き上げたものである。

ランチには「じゅげむ定食」(1050円)が人気で、落語とそばは古い付き合いがあることから2ケ月に1度位に「落語とそばの会」を開催し、5000円で落語を聞いてそばを食する会とのことで、夜の宴会コースは3000~8500円まで予算に合わせて500円きざみに用意ができるとのこと。

 

20 藪伊豆
21 蕎麦寿司
 

   

「割烹辰巳」 茅場町 2-1-9    TEL 03-3666-0996

 藪伊豆を出て元のさくら通りの延長の道を右折して次の交差点、通称平成通りを左折して、日本橋消防署手前に阪本町公園の中頃の対面にマクドナルドのあるT字の道を2~30m入ると割烹辰巳につくが、地下鉄茅場町駅2番出口からも2分位のところでもある。
 店の創業は新しく、昭和26年で日本料理の老舗であり、皇居から見て東南、つまり辰巳の方角にあたり屋号もそこから取ったものである。店の風情の良さが敷居を高くしている佇まいであるが、結構手頃に楽しめる料金とセットメニューの多さで、座敷席とテーブル席があり、三代目の店主は「メニューに無くてもリクエスト料理も受ける」という有名人で、当店名物は鹿児島県産黒豚のバラ肉を使って10時間以上煮込んで作られた「ぶた角煮」や、骨まで食べられるほど煮込んだ「ブリ大根」などがおすすめで、季節物ではあるが私は「秋刀魚の松茸はさみ焼き」に満足した思いがあり、飲んで食べて4000~5000円位で、昼は定食が800円でたべられる。


 

22 割烹辰巳
 
 

 

「茅場町長寿庵」 茅場町 2-1-9  TEL 03-3666-1971

 辰巳を出て左に新大橋通りに出て左折し地下鉄茅場町駅に向かい茅場町交差点の角に長寿庵がある。
 元祖長寿庵から明治40年にのれん分けして茅場町に開店し、證券、海運、鉄鋼等の近隣のビジネスマンに長年愛され続けて数ある長寿庵の中でも一番の老舗になった。
蕎麦汁のかえしのタレが自慢の焼き鳥や、ざる汁が入っている卵焼きは、今では蕎麦屋の定番だが、なんとこれらは当店が先駆けであるとのこと。
人気メニューは20年以上人気で、国産の黒胡麻ペーストを練り込んだ胡麻切せいろ、季節によって夏は大葉切、冬は柚子切といろいろ季節によって四季の色どりを大事にしているとのこと、一品料理には鴨抜きがある。せいろは850~1500円位で、夜は5000円コースがおすすめです。

23 茅場町長寿庵
 
 


今回は日本橋川の南側をご紹介しましたが、次回は日本橋川を渡り、江戸時代の華やかなりし中心街に挑戦したいとおもいます。

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