ちょっと発表



                                     2014.09.02  山崎 泰
「 私と日本橋 -8- 」

 今回は昭和通りより東側の中心街人形町の周りからご案内いたします。江戸橋を渡り昭和通りと以前紹介した三浦按針通りとの交差を右折して小舟町に入り、3本目の小路を左折し50mほどの右側にひっそりと佇む竺仙に着きます。


  「竺仙(ちくせん)」               小舟町2-3 TEL 03-5202-0991

 老中水野忠邦がやりたい放題の天保13年(1842)に浅草で創業し、昭和20年に日本橋に移転し、江戸小紋や浴衣を扱う「竺仙」であり、俳句を嗜んだ趣味人の初代仙之助は、文人墨客たちと交流なかで、彼らや歌舞伎役者に着せる衣装を考案し、役者たちが着こなすシンプルで粋な小紋柄の浴衣は瞬く間に江戸っ子の話題を集め、“誂(あつらえ)どころ竺仙”といわれ、当時の浴衣は白生地や無地がほとんどの中で仙之助は小紋の技術を応用し型紙を使った藍染めで作り、紺と白のさっぱりした味わいが江戸っ子の好みに合い、人々は竺仙の浴衣を買い求めたという。
 武家の裃に描いた模様が発祥といわれる小紋で、そんなフォーマルで上品な柄に加えて、庶民が好む花や野菜、虫や鳥などの身近なものも柄に取り入れた竺仙であり、そうしたアイデアや染め技術は浴衣スタイルを一新させ、江戸末期から明治時代にかけて“竺仙の浴衣は江戸土産”と珍重された。
 毎年1,000種類もの新作を発表しており、歴史ある柄に時代の意匠を交錯させて、新たな浴衣を生み出している。 竺仙の前の道を昭和通りに沿い100mほど行くと江戸桜通りとの交差につき、小舟町郵便局の隣に伊場仙がある。

 



  「伊場仙」                    小舟町4-1 TEL 03-3664-9261

 創業天正18年(1590)といわれ、小田原の北条氏が秀吉に屈服して天下統一をなした頃で、初代の伊場屋勘左衛門が徳川家康と共に治水・土木工事の職人として江戸に上がり、その後幕府御用達の竹製品や和紙などを扱った「伊場屋」を創設し、屋号の伊場屋は現在の浜松市伊場町の出身であったことから名付けられ、創業の天正18年は初代の生まれた年であって創業そのものは定かでなく、これを創業年としたようである。
江戸後期より団扇や扇子を扱い、初代・歌川豊国、歌川国芳、歌川広重などの浮世絵師の版元として「伊場屋」の名を広め、豊国や国芳、広重などのそれぞれの絵師の持ち味を生かしたプロヂュースで浮世絵を団扇に刷り込むことを考案し“浮世絵団扇”として江戸市中に広まっていき、当時の伊場屋扱いの絵は大英博物館や、ボストン美術館等の著名美術館にも収められている。
十代目三郎より屋号を「伊場仙」とし、十三代目吉田直吉の時代より、暦(カレンダー)の製造販売をはじめ、現代の団扇、扇子、カレンダー業の基礎を築いた。
日本橋で生まれた団扇は江戸団扇と呼ばれ、持ち手や骨もすべて一本の竹を割いて作られ、大量生産するために考え抜かれた仕様であり、その形状も僅かな力で風を起こしやすい横長の楕円形であった。
この店は私の二度目の会社(小倉ビル内)の目の前にあった店です。(余談) 伊場仙の対面の小倉ビルの角を右折して20mほどに高嶋屋がある。


 



  「高嶋屋」                    小舟町11-5 TEL 03-3661-4709
 
 創業は明治8年(1875)福沢諭吉が「文明論之概略」を刊行し、そこで諭吉は“いまの日本の文明は国の独立に達する手段である”と強調しているが、そんな約130年も昔から紀州産の備長炭で焼き、鰻は現在では“共水うなぎ”を使用しているという。
 供水うなぎとは、静岡の大井川の上流で(株)供水が養殖鰻を研究開発し、鰻業界の中で唯一認められている養殖鰻である。
 ラストエンペラー愛新覚羅溥儀の弟の溥傑も好んで来店したという自慢の店であるが、2度目の会社の窓の下にあり、個室があることで来客の接待によく利用したが、個人では行かなかったが、昼のうな重弁当の最上の「菊」で当時4,500円、夜はコースで鰻白焼が9,000~12,000円と高級感があり、鰻だけでなく親子丼、きじ重、玉子丼、茶漬け、焼き鳥と多彩である。 髙嶋屋の並びの3軒目に舟寿しがある。


 



  「日本橋舟寿し」                 小舟町11-2 TEL 03-3661-4569

 舟寿しは戦後まもない昭和26年(1951)に開業した初代深澤於菟吉は小舟町で生まれ育ち、この町を愛する由に「舟寿し」の名を付けた。
写真の“匠にぎり”もひと仕事加えた江戸前の寿司で、見た目の派手さはないが、ひとつひとつ手間をかけたにぎりはどれも繊細な味わいであり、東京都認定の「東京特産食材使用店」であり、鱚と穴子は東京湾産、卵は町田産など東京産の食材の入荷がある限り使用しており、食材から江戸前にこだわり“素材の吟味はもちろん季節により甘さや酸の割合など味加減もかえている”と板前は言っていたが、当たり前のこととは思うのですが気を使っているということでしょう。
 当時、昼は1,050円のにぎりから4,725円のコースまであり、夜は江戸前の日本料理にも力をいれ寿しと一品料理の双方を楽しめる「寿し会席」コースが一押しのようである。 1階はカウンター席、地下と2階にはテーブル席の個室がある。
 日本橋料理飲食業組合の青年部に“三四四会(みよしかい)”があり現在の三代目が会長も務めているとのことで頑張っているようである。 江戸桜通りに戻り、昭和通りを右折して江戸通り方面に向かい2本目の大伝馬本町通りの角に小津和紙がある。


 

 

  「小津和紙」                   本町3-6-2 TEL 03-3662-1184
 
 藤堂高虎が築城のさいの縄張りの名人と自他ともに許したという、鉱山技術や土木技術、築城技術が発達した承応2年(1653)に伊勢松坂より出府した小津清左衛門長弘が29歳の時、現在の本社社屋の地に紙問屋として商いをはじめて361年を△の中に久の字が入った印(ウロコキュウ)の暖簾で歴史を綴っている。
 清左衛門が商いを始めるまでは、多事多難であり、寛永10年19歳で大伝馬町の名主・佐久間善八の紙店に9年間務めることとなり、承応2年に幸運が訪れ、佐久間家の手代・井上仁左衛門が郷里に帰国するため、彼が持っている大伝馬町の紙店を人に譲りたいとのことから、主人の善八が清左衛門に白羽の矢をたてたが、その頃の清左衛門は資力に乏しく苦慮しているのを、清左衛門の弟虎之助が務める大伝馬町に木綿店を持つ小津三郎右衛門道休(国学者・本居宣長の曽祖父)から200両を借用し130両で譲り受け、小津という屋号と店の印ウロコキュウが“繁昌するめでたい屋号“と許され、開店となった。
 弟達を呼び寄せ商売も繁昌し、借用の200両に100両の礼金を添えて返済し、全く独立して経営したが、清左衛門長弘には子供ができず、弟の小津孫大夫(虎之助)に代を譲り、夫婦共松坂に隠居・剃髪し玄久と称していた。
 後に“和紙の魅力をもっと多くの人に知ってもらいたい”と和紙の専門店を開設し、1階のショップは約2,000種類もの手漉き和紙、絵画用和紙、美術工芸用和紙、版画用和紙があり、和紙の他に和紙を使った小物や雑貨に、小津絵手紙や和紙用筆ペンなどといろいろあるが、2階にはより豊かな暮らしを支える紙文化の発展のために「小津資料館」を開設し、小津和紙の歴史と紙文化の関わり深い資料を無料で展示公開しており、小津文化教室の開設や、手漉き和紙造り体験も出来、日本文化を学ぶ場所としても一見である。 小津和紙の前の大伝馬本町通りを昭和通りと反対方向の小伝馬町方面に150mほどに江戸屋がある。


 


  「江戸屋」                    大伝馬町2-16 TEL 03-3664-5671
 
 七代将軍家継の時代、新井白石が活躍し大奥の年寄絵島疑獄を断罪した頃、初代利兵衛は将軍家お抱えの「刷毛師」に任じられ、その後享保3年(1718)に将軍家より「江戸屋」の屋号を与えられ、江戸刷毛の専門店として開業した。
「江戸刷毛」とは、職人が一本一本丹念に作り上げるもので、表具の糊を塗る経師刷毛、和化粧の白粉刷毛、織物の染色刷毛などが江戸刷毛として東京都知事指定の伝統工芸品となっている。
 時代の需要に応じて明治時代には西洋化への流れに合わせてブラシも作り始め、江戸刷毛の技術を活かして、歯ブラシや洋服ブラシといった生活用具から船舶のデッキブラシや工業用品の研磨ブラシなど多種多様な用途に合わせた商品を作り、業務用、個人用のすべての刷毛とブラシが整っている。 私も会社に近かったので、40年ほど前に豚毛のヘアーブラシを買い、今でも薄くなった頭を撫でています。
 現在の十二代目は以前に紹介した宝田恵比寿神社の“ベッタラ市”の保存会会長を頑張っている。 大伝馬本町通りを小伝馬町方面に向かい人形町通りに出て、正面の三菱東京UFJ銀行に渡り、そこを左に江戸通りに向かい小伝馬町交叉点を左折すると角から2軒目(地下鉄小伝馬町駅3番出口を出てすぐ左)に間口一間程の店が梅花亭であり見過ごさないように注意してください。


 


  「梅花亭」                      小伝馬町12-5 03-3661-7604

 岐阜の出身の高井というものが徳川家康公について御用御金(札差し)として江戸に入府し、時代が下って嘉永3年(1850)に初代森田清兵衛が菓子匠梅花亭として大伝馬町に創業し、外国艦船やペルーが浦賀に来航した嘉永6年(1853)に、長崎帰りの蘭学者が“西洋人が釜のようなものを使って焼き菓子を作っている”との話をヒントに釜で焼いた菓子「亜墨利加饅頭」を創作して大ヒットし、その後二代目は「銅鑼焼き」を創出し、銅鑼を押し付けて焼いたように薄い皮に餡が挟まれている元祖銅鑼焼きの出来上がりで、その後代々の店主が創意工夫に励み、庶民性の中にも品位を備えた菓子を造り続け、それまで薄い円形が一般的だった最中の常識を破って厚めの生地に梅型をした「梅もなか」や明治時代に始めた一枚皮の「どら焼き」や六代目創案の「沸蘭西饅頭」など今でも変わらぬ人気商品であり、ベッタラ市の日だけ作っている「切り山椒」と「栗むし羊かん」は年一度の季節の風物詩ともなっている。
 主な商品は「亜墨利加饅頭」と「沸蘭西饅頭」は写真に載せたが中はこし餡で、「梅もなか」はつぶ餡、こし餡、白餡の3種類があり、「三笠焼」は黄緑色のこし餡、「銅鑼焼き」はつぶ餡を薄っぺらに包んで焼いたようであり、「ワッフル」はオレンジジャム入りである。
 現在の本店は霊岸島にあるが、私の最初の会社の50mほどの対面にあり、今でも間口一間ほどの店でおばあちゃんが一人で店番をしており、客先へのお土産にと午前中に買い求めないと店内の陳列棚は無くなってしまいます。 梅花亭の対面に渡り、江戸通りをJR馬喰町駅方面100mほどに、ここも通りに出ている看板を見落とさないように近三に着く。

 


  「近三」                       小伝馬町15-16 03-3661-6367
 
 江戸通りの看板から細い路地を15m位奥が玄関であるが、明治2年の創業の鰻屋であるが、最初の会社の本社が一時期この店の2~3軒隣にあったが、昼時の来客接待によく利用したが、現サッカーの解説者の松木安太郎の実家であり、“アドマチック天国”にも取り上げられた店で、初代が近江の国から出てきた三次郎が開店し、近江の近と三次郎の三を取って“近三”を屋号にしたとのことで現店主は安太郎の弟が六代目で母親も元気に店を切り盛りしているが、彼のお祖父さんは元十両の“青龍”という相撲取りであったという。
1階はテーブル席が4席で2階は座敷で20~30席で、昼でも予約が必要でいつも20人ほど2階登り口の待ち席がいっぱいであり、品物が注文して出てくるのが早いので、作り置きかとも思いながら、ふっくらとして味はまあまあであるが、タレの味は少し濃いめであとで口に残るのが好みに合うかどうかであり、当時でも昼のお重の梅(2,100円)、竹(3、150円)、松(4,200円)と結構な値段であった。 江戸通りを近三の対面に伊勢重がある。

 


  「伊勢重」                     小伝馬町14-9 03-3663-7841
 
 江戸時代中頃に伊勢から出てきて骨董商などを営んでいた先人が、体が弱く牛を商いとして牛鍋で滋養にと、牛鍋屋を始めたのが発端で明治2年(1869)にこの地にすき焼屋をはじめて145年間、松坂牛を主体にA5ランクの最高級霜降り和牛を、薄いスジ1つにまで気を配る伝統の手切り技で和牛の美味しさを引き出し、長く引き継がれてきた甘さを控えめですっきりとした濃口の割り下と、炭火の四味一体が伊勢重の決め手である。
それと冷蔵庫のない時代、牛肉を長期保存出来ないかと考え、牛佃煮を誕生させたことで、すき焼きと牛佃煮が当店の二大看板である。
1階の右側が牛肉店であり、左のドアーから履物をぬぎ絨毯敷きの階段を下りてゆくと襖に仕切られた全てが個室座敷であり、すき焼きは創業当時よりのこだわりの水火鉢を使い続けており、昼は各種のコースがあり、2,300~7,800円であるが、おすすめランチメニューに“すき焼き小鍋仕立て”があり、昔からすき焼きを卵でとじたものを“あをり”と呼んでいたが、これは席で炭火で調理するのではなく、既に味付けした状態で提供されるものである。
夜も各種のコースがあるが10,000~15,000円であるが、夜の接待によく利用させてもらったが、個室であることと,仲居さんがテキパキと全て調理してくれること、最後の〆のうどんがとても美味かったことを思い出しました。 伊勢重を出て右に10m程の鞍かけ橋交差点を右折して30~40mの右側に絆傘処に着きます。

 


  「絆傘処(ばんかどころ)」               大伝馬町15-3 03-6206-2570
 
 日本橋には、かっては傘職人をかかえる傘屋が70店以上あったというが、ビニール傘の普及や、現在のほとんどの洋傘が外国産に変わり、よりその数も年々減って、今では傘職人ですら都内に20名ほどの現状に、何とかしなければと、昭和5年(1930)に創業の小宮商店が“純日本製の傘を世に広めよう”と同業他社に声をかけ、3年前に同業4社で「絆傘処」を開設した。
現実には、純日本傘のニーズはあるが、なんせ職人が少ないために量産ができないのが難点であると、営業部長さんが言っていたが、最近は「甲州織16本骨長傘」(16,000~30,000円)が人気であるとか、山梨県富士吉田で作られる傘専用の甲州織は生地の幅が傘の半径と同じなため、端にミシン目が無く美しいとのこと、通常傘の骨は8本が主流であって、これは“曲げ”と言われる縦のカーブが全体の輪郭を美しくしており、16本は開いたときに生地が丸いラインで広がり、素材感がきれいであるとのことですが、持たせてもらったが、かなりの重量感があり頑丈そうである。
店の奥に高齢の傘職人さんが一人おられ、製作と修理を行っておられるとのことです。
先の理由で純日本製の品数が少ないために、現在はネット販売と、高島屋や東武デパートなどの傘売り場の特別コーナーに並べられているが、一般に売られている値段の倍以上であるが、一見してその差は歴然であり評判も良いようである。 絆傘処を出て左に50~60mの二つ目の路地を右折して20mほどに魚十の看板が目につく。


 


  「魚十」                       大伝馬町12-8 03-3661-2380
 
 江戸時代中期の元禄年間(1688~1704)松尾芭蕉や新井白石が活躍し  、忠臣蔵事件が起きたころ、仕出し料理のサービスが始まり、大伝馬町の地に創業した初代重助が魚屋を始め、魚屋重助と言われていたが、時代の流れで重助もほどなく仕出し料理屋に転じ、魚屋と重助の名より「魚十」を屋号とした。
当時の仕出し料理屋は5~6割を作って後は客先の台所で仕上げる形であったが、300年以上の歴史を刻み続けているが、江戸料理を伝承しているわけでも無く、独自の伝承料理を出しているわけでも無いが、寛保3年(1743)に大丸が大伝馬町に開いた呉服店に、当時は購入客に料理を出してもてなす習わしがあり、その料理を一手に引き受け、当時長らく“大丸魚十”と称していたそうで、それらの料理を滝沢馬琴も自らの日記で褒めているが、明治時代は問屋街で働く人々が主な得意客であったが、次第に問屋も減少し、昭和35年頃から割烹も始め、現在は割烹8割、仕出し料理2割であるが、中でも代々受継がれてきた自慢の甘辛の玉子焼きは、焼き色が目にも美しい大振りの厚焼きがお土産にも人気がある。
関東大震災時や戦争後に、とにかく地元の人々に食べ物を出して元気付けようと仕出しを作り“魚十に行けば食べ物があるぞ”と言われたほどに、地元の人の心に沁みることに今もモットーに、前述のように歴史のある料理でなく、地元の人々の口に合う料理を目指しているとのこと。
1階は椅子席で2階は座敷に椅子席の個室で3階は座敷の広間であり、昼の定食は二日毎に変わり、中でも“小町弁当”(2,000円)が人気であり、写真の料理は豪華な昼の江戸会席弁当<茜>(3,200円)であり、夜は各種のコースがあるが、いずれにしても店長と板前の二人の手作りで、私も何度か利用しましたが、料理の美味さは勿論ですが、味噌汁が絶品であったことを思い出しました。 魚十を出て隅田川方面に100m程に都営地下鉄の馬喰横山駅に着き清州橋通りを左に50m程に横山町大通りとの交差の角に8階建ての宮入ビルが目に入る。

 


  「宮入」                        横山町6-18 03-3661-2380
 
 衣料品の問屋街である横山町で106年の歴史を刻んでおり、横山町問屋街の歴史は江戸時代にさかのぼり、呉服商が軒を並べていた堀留町が近くにあり、次第に小間物問屋が横山町に集まるようになり、大問屋街に発展した中で明治41年(1908)に長野県篠ノ井の大庄屋に生まれた初代が“宮入メリヤス店”として店を構えてからこの町の屈指の老舗卸問屋である。
初代は社会貢献と公の心が強く、昭和41年の世界恐慌が起こったとき日本にも不況の波で、中小企業が相次いで倒産し、その時初代は「自分たちが倒産したらこれらの商品を扱う中小零細のお客さまが困ってしまう」と問屋間の適正競争を維持するために組合を設立し、これが現在も“横山町奉仕会”として残っており、問屋同士の共存共栄を目指した組織の誕生は画期的であり、現在三代目も東大の工学部を卒業後商社に入ったが、32歳で家業に入り、この奉仕会の会長を引き受けており、最近では“何でもある宮入から特定分野に強い宮入”に方向転換し、ミセスやシルバー向けのエレガントラインに力を入れており、看板も“トウキョーグッド宮入”にし、近年は中国、東南アジアの客が増えたので、その対応にも努力している。
近くに第一支店、第二支店があり、本店には紳士、婦人、子供の肌着やソックス、運動着や婦人用スカーフ、ジャッケト、介護肌着等であり、第一支店は傘、スカーフ、マフラー、ステッキ等、第二支店はパジャマ、タオル等と振り分けているようである。 宮入から清州橋通りに出て左に150mほどに御幸通りとの交差点を左折して隅田川方向に300mほどに日本橋中学があり、その対面が鳥安である。


  「鳥安」                       東日本橋2-11-7 03-3862-4008
 
 明治5年(1872)10月に佐竹藩の江戸藩邸の留守居役であった初代渡辺大助が歌舞伎の五代目尾上菊五郎丈の助言を受けて“あひ鴨一品”を金看板に各界の食通人に愛され、横山利一、谷﨑潤一郎等の文人も味覚と風格をめでて自分の作品の中にもよく描いており、小津安二郎監督の「全日記」や「グルメ手帖」にも載っている老舗である。
“あひ鴨”は皆さんご存知でしょうが、真鴨の雄とあひるの雌のかけあわせたものであり、当店は「あひ鴨のすき焼コース」の一品メニューで、“ダキ”と言われるあひ鴨の胸肉を鉄鍋で両面を焼き、割り下を使わずおろし醤油での格別の味わいは贅沢の極みであり、その間からの油の下垂れは驚くほどで、鍋の角に油壺が付いている。
あひ鴨のすき焼きは江戸時代に、大名が鴨狩の際の囮にするために庭にあひ鴨を飼っていたので、おそらくそれを食べたのが始まりで、仕事柄上手いものを知っていたようである。
私が利用していたころは広い座敷であったが、平成17年に玄関周りは昔の面影を残し内面は全てリニューアルし、椅子で2名以上の予約で完全個室になっているようである。
メニューの中身は、前菜(鴨ロースト、鴨の練り物、サーモン粕和え、枝豆、もずくのとろろかけ、中味は季節により変わる)、二番出汁になめこ茸や鶏のささみを団子にしたシンプルなスープ、ササミと野菜のゴマ和え、メインの鍋は胸肉、砂肝、ハツ、つくね、レバーに椎茸、長ネギ、ピーマン、春菊等の野菜に雪玉みたいな真ん丸の大根おろし、ご飯、赤出汁,香物、にデザートの黒豆プリンであり、全て仲居さんが手をかけてくれるのも助かるが、こちらから質問をしない限り一切の説明はしてくれませんので御注意を、割り下を使わずおろし醤油に好みで山椒か七味を使用し、鍋の野菜は油壺で調理してくれるので、その油味がしみて格別であり、ご飯は鍋で焼いてくれる焼き飯で、適度なオコゲがこれまた絶妙な味である。
以前述べた薬研堀不動尊の「納めの歳の市」の保存会会長や神田明神の氏子総代も務めている。 次回は人形町界隈をご紹介したいと思います。

 


                                   つづく


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