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平壤脱出記港町の一団について
2016.02.14   18期 松永 昇
 
 11期生諸先輩の方々、私は18期生の松永 昇と申します。
ご近所でもありテニス仲間として10数年お付き合い頂いている今道さんに父が家族及び親戚友人に戦争体験を伝える為に執筆した小冊子をお見せした所、ウエブサイトに公開してはとのお誘いがありました。
 父は私の在学中に小田高教頭として教壇に立っていた、戦争に抵抗感が薄れているご時世でもある事から、このまま埋もれさせず皆様に是非見て頂きたいと思い、今道さんのご厚意に甘える事にしました。

平壌脱出記は10回に渡って掲載させていただきます  今回は2回目です


平壤脱出記 港町(注1)の一団 -2- 抑留悲歌

2016.02.14  元小田高教頭 松永長雄

 昭和二十年の秋から冬、そして二十一年の春も過ぎたが、引揚げは一向に実現しない。
 日本人の住宅を接収と称しては突然にやって来ては今から何時間以内に立退けと要求される。あわてて次の住いを探すのに時間がかかり、指定の時刻になると玄関から入ってくる。荷物は全然移動出来ず着のみ着のままで追い立てられる。同僚の貫名先生も栗里(図1)を引き払って私の家に同居した。
 私は接収を予想して子供のよしみで港町
の高橋さん(廃品回収問屋)の倉庫の一つを借り受け、いつでも引越しが出来るように準備しておいた。 収入とて全くなく、持っているものを少しづつ売ってはその日その日を過す哀れな最低の生活の連続であった。
 職業という程でもないが何とか収入の道を考えなくては生きてゆかれなかった。職業という職業はあらゆる職種の経験をした。

 土方、仲仕(八百もの市場)、大工、左官、おんぼやき、凡そ金になることは何でもしてみた。
そのうちの一つ西城里(
図2)の清掃人夫は可成り長く働いた。人夫の構成メンバーがふるっている。平壤で名の通った呉服店のご主人、米屋のご主人、会社の重役さん、と私、都合四人で二名一組となり大八車の上の箱に西城里の朝鮮家屋を一軒一軒まわって野菜や紙屑などを集め焼却場へ運搬する。これが日課である。
 この人夫には家族数に応じて食料の配給切符がもらえる。当時の闇値では高すぎて購入出来ないが、この切符のおかげで食糧が安く買える。これが魅力であった。給料は安かったが何とか飢えはしのげた。
 辮当を食べる場所が自然にきまってきた。その近くに満州からの疎開者の一団が抑留されていた。その一団の中から三~四名、きまって私達が辮当をたべ終ったころを見計らうようにして出てきて、昼のひとときをおしゃべりに過ごした。世話会の動句、町中の出来事、引揚の見通しなど話題は豊富であった。
 その中の一人新潟出身という越後美人がいた。この人とどういうわけか気が合った。彼女もここへきて話し合うのが楽しみの一つであったようだ。私達も彼女たちとひとときを過ごすのを楽しみにするようになった。
 殺伐な灰色の毎日の生活の中で、ほのぼのと乾いた心をうるほしてくれた。
或る日共同ごみ捨て場でしきりに棒でかきまわしている男がいた。近づいてその男をみるとなんと平壤師範での教え児である、私はあまりの情けない姿、この若さで働くことをせず朝鮮人のはきだめあさりをして生きているさみしい根性に泣けてしまった。早速お説教。知人をたよってある鉄工所へ世話した。働いて堂々と生きることの尊さを知らせた。厳寒の折、大同江(テドンガン)の天然氷の採集は賃金こそ高かったが非常に危険を伴う仕事なのでこれだけは一日でやめた。


(1) ロスケの不法侵入

 
 まだ港町の家にいたときのことである。満州の疎開者三人を受け入れた私の家は急にはなやいだなまめかしさで近所からも目をつけられるようになった。何しろ四十才前後の二号さん、水商売の二十才前後の娘、二十五六才の男(一寸みると女に見える)で派手に振舞っていた。夜間ロスケの不法侵入により婦女子への暴行がデマにデマを生んで今夜にも侵入されそうな危険な雰囲気となった。万一を恐れて私は手を打った。三畳間の押入れの壁をぶちぬいてそこから平沢雑貨店の裏に出られるように逃げ道をつくった。ぶちぬいた壁に黒のカーテンをはり傍に履物を揃えておいた。
 ある夜、食後の団樂のひとときを嬌声をあげて笑いさざめいていた時のことである。チョンガー(朝鮮の少年)が案内してきて 「女をにがして下さい」 と玄関で怒鳴った。玄関の戸を足で蹴るすさまじい音、「すはこそ」と例の壁穴から全員逃がして戸を開ける。

 「マダム、ダワイ」 腰から拳銃をとりだし私の胸につきつけた。
 「マダム、オブソ。」
 長靴のまま上って、部屋の中を、それこそくまなく調べる。押入れも襖をあけて一々確かめる。トイレまで戸を開けて調べる。どこを探がしても女の影も形も見当らない。たしかにさっき嬌声が聞こえたの……不審そうな顔をする。やっとのことでお引取り願った。これが夜の九時頃かと思う。裏の避難場所へ連絡する。床に入った。しばらくウトウトした頃、又玄関の戸を激しく叩く。さっきのロスケらしい。女達を例の壁穴から逃がす。逃げ終って玄関の戸を開ける。前と同じく私一人だけ。あちこち探したが見当たらない。あきらめて帰っていった。
 これが十一時半頃か。女達が帰ってきて床に入る。夜中の二時頃かと思う。又玄関を激しく叩く。「それっ」とばかり女達を起して逃がす。今度はあわてて家内は一人で逃げてしまった。長女明子を頭に三人の女の子、二人の男の子が寝ている。お風呂に入って髪を洗った明子はバサバサの髪、それが顔まで毛布をかぶって寝ている。入ってきたロスケは女はいないと見ると、洗髪した明子が毛布をかぶっている。これに目をつけてロスケは明子をつれてゆくと言ってきかない。

 「マーリンケ」手真似で子供であることを説明する。やっと納得したらしい。今度は弘道をみてこんな乳児が居るからマダムが居るはずだと手真似で頑張る。 やむを得ず戸棚から哺乳ビン(牛乳が少し残っていた)をもってきて、手真似でマダムはこの児を生むとすぐ死んでしまったのだ。だから男の手で(哺乳ビンをつき出して)私が育てているのだ。釈明これ努めた。やっと了解して立去った。
 とうとうその晩は女達は裏の小路で夜を明かした。私もまた闖入されてはと、とうとう眠らなかった。


(2)兵舎の勤労奉仕

 日本人世話会からの割当勤労奉仕で私はよく女子班三~四十名を引率してソ連兵舎の清掃作業に行った。
朝引卒して行った人数をソ連の下士官が数班に分けてそれぞれが引卒してゆく。帰りは大体四時頃であるが朝集合した場所に集まってトラックで大同江の橋のたもとまで送ってくれる習慣であった。
 霜降る底冷えのする寒い日であった。いつもの通り班に分け引卒されてゆく。作業している班の所在を確認して与えられた控室で待機しているのであるが、一組三~四名の少数で、しかも私が後からついて行くと恐ろしい権幕で私を追い立てる。
 「何かあったら窓から飛び出せ。外で待っているから……」と怒鳴った。部屋に入れるや否や鍵をかけてしまった。今迄施錠して作業するなど全くなかった。今日に限って施錠してしまった。事故が起こったら大変である。妙に気にかかって心配の余り霙にぬれながら彼女達の押込められた室の外で震えながら待機していた。午後四時頃になって室から明るい顔で出てきた。ほっとした。作業は至って簡単で殆んど一日中遊び過ごした。ストーブの傍でレコードを聴かせてくれて楽しかったという。
 一日中震の中に寒さにふるえながら立ちん坊をしていた私が馬鹿らしくなった。ロスケと言えば大体中尉以下兵に至るまで殆んどが腕時計などもっていなかった。 時計に対する好奇心というか執着心ははかり知れない。

 或る日公会堂の前の通りを一人の日本婦人(暑かったので半袖姿で腕時計をしていた)に通行中の一人のロスケが彼女の前方約三米の地点で停止挙手の礼をして、おもむろに歩調をとって接近してきた。婦人は妙な顔をした。近づくとロスケはもう一度立止って挙手の礼をうやうやしくして、それから彼女の腕時計をはずして自分の腕にまきつけた。その兵は左腕に四つ五つ着けていた。終わると挙手の礼をして歩調をとって歩き出した。
 その滑稽さに婦人はあっけにとられ、しばらくロスケの遠ざかりゆく姿を見送った。周囲にいた日本人達もロスケのまじめなおどけにふき出してしまった。掠奪されたというにはあまりに滑稽であり漫画的であった。


(3)日本人教師の遭難

 或る日の午後三時頃私の住む倉庫へ平工で担任した創氏改名で内山一郎という少年が訪ねてきた。この少年は私が目をかけていた模範生であった。
 信用していた少年だけに何の疑いもなく一緒にくぐり戸を出た。その途端、私を円形にとりかこんだ四~五十人の平壤農業の生徒、そのうちの一人が私の頬を一つ殴りつけた。そのはずみで眼鏡がすっ飛んだ。
 おろおろしている内山に「めがねを拾へ」と命じた。彼はおそるおそるめがねを拾って私に差し出した。
その時通りかかったロスケの下士官が拳銃を群がる生徒にむけ一発空に向って放って、銃口を生徒の方に向けた。彼らは蜘蛛の子散らすように四散した。私はすぐ家に引きかへしてしまった。夕闇せまる頃ロスケの下士官が、「怪我はないか? 今迄外で警戒していた。もう来ないだろう。安心しなさい。」 というゼスチュアー。私の危機を救ってくれた上にこんなにおそくまで私のために外で見張りをつづけてくれた異国の人の情けに感激した。

 貫名先生は日本人世話会の割当作業に奉仕中、平壤二工(平壤第二公立工業高校)の生徒に集団暴行を受け病院で幾針も縫って戸板で帰ってきたのも私の遭難と前後してのことである。
 府内の中等学校の教練の先生(日本人)は、生徒の暴行を受け可成りの重傷という噂さを耳にしたのもこの頃のことである。
 平壤二中(朝鮮人のみの旧制中学)の先生(防空濠堀りを指導)は毎日手弁当で校舎敷地内にある防空濠の埋め立てを強制されたとか。これらは個人的な恨みというよりも永い間の日本統治・総督政治に対する民族的な反感のあらわれとみるべきであろう 。


(4)朝鮮人巡査からの激励

 大橋大尉の奥さんが秋乙部隊の陸軍官舎に移ってからのこと、鎮南浦へ近く移動し船で軍部の家族だけひと足先に内地へ引揚げることになった。「食糧油など取りに来て欲しい」という伝言を得た。カラのリュックを背負って私は陸軍官舎に行った。米麦メリケン粉ごま油など喉から手の出るようなものばかりである。大きな荷物をしょい込んで電車で帰ってきた。電車が大同橋の手前船橋里についたとき、突然肩をたたかれ下車を命じられ橋の袂の警察官派出所へ連行された。
「リュックの中のものは何か」
「食糧品ばかりです」
「あけて調べてよいか」
「どうぞ」
 リュックから全部とり出して丹念に調べられた。秋乙の軍官舎から出てきたので朝鮮側は軍関係のところから拳銃など民間に隠匿されるのを極度に警戒してとのことであったらしい。めざす武器凶器に類するものがないので釈放された。その時若い日本の大学を出た警官から
「職業は何か」
「教員です。平壤第一公立工業高校教諭です」
「日本へ引揚げてから何をする?」
「教員はやめて別な仕事をしたいと思っています」
きつい言葉がはねっ返ってきた。
「この戦争で日本は敗けた。朝鮮は独立した。しかし朝鮮はひとり立は出来ない。どうしても日本の援助がなければならない。お前は学校の先生だから帰ったら日本の青年に朝鮮を理解しお互に手をたづさえてゆかねばならないことを強調し、日鮮の橋渡しの責任があるのだ。教員をやめて他の職業を選ぶなどもってのほかだ。」と説教された。

 戦争に負けて卑屈になった私を鞭打つ言葉であった。私は戦争中所謂軍国主義に徹したスパルタ式硬教育で生徒の前に立った。敗戦の現在、精神的な意味での責任をとって教壇から去るべきだと考えていたので、若い警官に「教員をやめる」と言ったのである。考えてみれば警官の言う通りである。私は一本とられた。

                                        つづく


 編集部より
 
図1 栗里は高麗時代の地名
 
 
 
栗里寺址石塔(東京・大倉集古館に在る)

注1: 「港町とは現在の南浦特別市」
 朝鮮民主主義人民共和国の西部にある都市。平壌の外港として重要な貿易港、工業都市である。市名は鎮南浦に由来する。1979年から2004年までは直轄市に位置付けられ、2004年以降は平安南道に属する「特級市」となった。2010年に政府直轄の「特別市」になったという観測があり、大韓民国統一部も「特別市」への変更が行われたと発表しているが、特級市から特別市への変更が行われたかについて留保する見解もある。

図2  下図の西城里・船橋里は現在では西城区域・船橋区域と呼ばれる

 
船橋里 日清戦争記念碑
船橋里市街
     

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