そろそろ終戦から一年にもなろうとするが引揚げの見通しは全く立っていない。港町在住の二百余名はその殆んどが高橋さんの倉庫に雑居した。老人と子供がまつ犠牲となった。幾人か倉庫の中で息を引きとった。この頃発疹チフスが流行し、つぎつぎに死んでいった。同僚の福岡出身の中村鴻先生もその一人である。
その頃朝鮮人民委員会の金日成将軍の親戚に当る洪良煜氏(この方の息子が本校の生徒)が書記長という重要ポストで活躍中とのことを洩れきいて早速平沢校長が訪問、せめて港町の日本人だけでも南鮮への脱出に便宜援助方懇願した。願が叶って六月三日払暁トラック十台倉庫の前に到着、それぞれ割当の車に持てるだけのリュックサックをかつぎこんで乗り込む。全員乗車が終わりいよいよ出発という時にソ連兵に発見され「日本人の移動はソ連軍は関知しない」全員下車を命じられもとの古巣へ逆戻り。
これではならずと更に洪良煜氏に再三再四の懇願、やっと機熟して六月の中旬前回のようにトラック十台に分乗朝風を切って大同江の鉄橋を南下疾走する車の同様も心地よい快音にひびく。全員意気揚々として誰も彼も明かるい笑顔に心もはずむ鼻歌も飛び出す車上の一とときであった。
黄海道沙里院についたとき黄海道警備のソ連軍に捕えられ有無を言わさずもとの平壤へ逆送されてしまった。
住みなれた倉庫に重い足をひきつって入るとなにもない。今朝出るときまで確にあった寝具類鍋釜の類まで何もかもすっかり姿を消して索漠たるものである。追い返された上に生活必需用品も奪われこれから先どうすればよいか途方に暮れた。
私は早速中上先生(平工教頭)のところへ行って脱出の失敗と生活用具ことごとく付近の朝鮮人に奪われたことを話して蒲団一枚の恵与に預かった。
一枚のふとんの上に子供達だけ寝かせ妻と私は畳の上にごろ寝である。こんな生活が長くつづけば病人は続出し弱い者から死んでゆくことは火をみるより明らかである。
平沢校長はこの由を洪良煜氏につぶさに語り何とかして一日も早く脱出できるよう格別な配慮を願った。
一日洪良煜氏は実状視察のため倉庫へ外車でみえた。悲惨な日本人の生活状況にいたく心を痛めて何とか努力しようと確約された。
―鶴峴で捕かまるー
それから約一ヶ月後、七月十五日ごろと記憶している。三回目は貸車港町日本人二百余名と満州から疎開して港町に抑留された一団が指定の貨車に分乗、洪良煜氏から途中の食糧にと米十四~五俵餞別として頂戴した。(これはずっとあとになって知った)念願叶っての脱出で一同こんどこそはと張り切った。ものすごい大雨のあと大同江は氾濫して鉄橋すれすれに濁流は渦を巻いて流れる。脱出の前にはこれも平然と眺められた。
日本人の移動が禁止されている時だけに貨車は全部戸をしめきった。しかも鋼鉄の車輌七月の強烈な太陽を浴びて走る車内は全く蒸し風呂そのものであった。この暑さも脱出だからこそみな歯をくいしばって頑張った。子供達は暑さによる苦しさと、のどのかわきをしきりに訴える焦熱地獄もかくやと思われた。
夕方鶴峴に到着、ここから徒歩で三十八度線を突破するのだ。元気でホームへおりた。とたん国境警備のソ連兵に捕えられた。永い押問答の末一行は又貨車に乗せられた。
私はこのすきに朝鮮語の上手な松井さんの家族としめし合わせて(この団体を離れて)八度線を越そうと約束して、ひそかにのがれ駅の近くのとある民家の庭に潜入した。やっと重いリュックを下ろして一と休みしようとしたところを若い朝鮮の巡査に発見されてしまった。二言三言の押問答の末やっと逃げてきた貨車にまた逆戻り……私の家族の乗車が一番後になってしまった。あちこちで「何をぼやぼやしているのだ。発車も出来ずにみんなが待っているのに」あてつけがましいささやきが聞える。
それからこの貨車でどこをどう引きまわされたかよくわからない。五~六日の貨車生活の終わりをつげて田舎の駅にほうり出された。
満州からの疎開団は黄海道の信川海州へと分散して抑留された。
私達港町の一団はここからトラックに乗せられ随分と時間をかけてやっと辿りついたところは黄海道の殷栗であった。ここは平南鎮南浦と大同江をへだてて相対する黄海道でも山奥の村落で当時まだ野生の虎が出没するほどの片田舎であった。
つづく