戦   争
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平壤脱出記港町の一団について
2016.03.12   18期 松永 昇
 
 11期生諸先輩の方々、私は18期生の松永 昇と申します。
ご近所でもありテニス仲間として10数年お付き合い頂いている今道さんに父が家族及び親戚友人に戦争体験を伝える為に執筆した小冊子をお見せした所、ウエブサイトに公開してはとのお誘いがありました。
 父は私の在学中に小田高教頭として教壇に立っていた、戦争に抵抗感が薄れているご時世でもある事から、このまま埋もれさせず皆様に是非見て頂きたいと思い、今道さんのご厚意に甘える事にしました。

平壌脱出記は10回に渡って掲載させていただきます  今回は4回目です


平壤脱出記 港町の一団 -4- 殷栗(ウンリュル・은율)抑留

2016.03.15 元小田高教頭 松永長雄

 収容されたところは普通学校の旧校舎(木造三教室建)、廊下といわず室内の床は老朽化してうかつに歩けば床板と共に足がめり込むほど勿論窓ガラスなど殆んどない。幸に夏であったのでガラスは殆んど必要を感じなかった。この一団の団長副団長等幹部はこの校舎の北側小高いところの一棟(朝鮮建でがっちりしたもの)におさまった。

 二百余名は三教室と廊下に配分された。私は中の教室の南のはし出入口に陣取った。広さはやっと二畳敷程である。隣りとの境にリユックなど荷物をおいて仕切った。夜寝るときは子供は一人は東を枕にすると次の子は西を枕に交互に重なるようにつめて寝かせた。私はリュックの上に寝ることにした。
 これが七月二十三日か四日と記憶している。この校舎の周囲には有刺鉄線が張りめぐらされている。
一々許可を得ては外出するきびしい生活であった。

 洪良煜氏からの饅別の米と思うが有料配給があったが金のない私は買えなかった。当時の私の家族の食事はフスマ(メリケン粉をとったカス)につなぎとしてメリケン粉を少しまぜた団子をすいとんにして焼いてたべる。それだけである。たまにみそ汁をそへても実は野草すべりひゆなどであった。平壤にいる頃野草食に一時こったことがある。その知識が幸いしてここでは専らただの野草で栄養をとった。何とか収入の道を考えねばならない。そのうち殷栗にコレラが発生した。元日本人の綿花工場を隔離病舎として患者を収容した。監禁されている日本人が雑役に無料の勤労奉仕をさせられた。ここでも私は奉仕隊の長として二十才代の青年を引卒して雑役作業をしたものである。あるときは便所の汚物の汲みとりを命ぜられた。ここで死亡した朝鮮人の火葬もさせられた。幸に日本人からは一名のコレラ患者も出なかった。
 この頃弘道ははしかにかかったが手当のしようがない。乳に代るものとてない。ひもじさを訴える泣き声もかすれてしまった。それでも夜になるとむつかって泣きやまない。こんな弘道を抱いては幾晩も運動場をゆきつ戻りつして妻は夜をあかした。

 ソ連の分遣隊へも勤労奉仕にゆくようになった。その頃から日本人が出歩いても黙認の形がとられた。私は元気な青年と大工などでグループを作り責任者となってオンドル改装工事を請負った。幾日か仕をつづけてゆくうちに一番元気で働き盛りの満州から疎開してきた軍属が一人お気に召して他は働いた労賃も貰えず全部首になってしまった。
 あるときリンゴ園の除草作業に雇われ昼にうどんをご馳走になった。あの味は忘れられない。この仕事も労賃はとうとう貰えなかった。初めから計画的に日本人をただで使おうとしていたようだ。敗戦国民の情けなさがしみじみと身にしみる。
 日蔭で老人が藁草履をつくっていた。あてのない引揚ではあるが家族の履物の用意でもしておこう。
民家へ行って藁をもらってきた。老人の手ほどきで生れて初めて藁草履やわらじなどつくった。子供達はこの藁草履で八度線を突破した。私は腰にぶらさげたまま内地までもってきた。

 ー中国農夫の温情―

 引揚げの見通しもなく夏とはいえ陰惨な空気に包まれた抑留生活であった。 或る日足のむくまま職探がしに柵を越えた。一番近い農場、そこは中国人の農場であった。 葉つれの音を涼しくききながら面会を求めた。
「ここで働かしてもらいたい」
「職業は何か」
「学校の先生」
「農場の仕事はきつい。お前には出来ない」
「頑張るから使ってほしい」
「家族は何人か」
「十二才を頭に女の子三人男の子二人と妻と合わせて七人家族だ」
「そうか:…・動いてみるがよい」
 こんな問答のやりとりで近くの農場で働くことが出来た。
中国の鍬は重たい。五~六回振り上げるとあとがつづかない。ハアハアしながら打ちおろしているのを隣でみていたニーヤンはホミ(除草機)をもってきて「これで草をとれ」 ホミで除草作業に専念した。農場には掘抜き井戸がある。水は冷たくておいしい。私は弁当持たずにきて昼食代わりに水を腹一杯のんで木蔭で休むことにした。
 夕方作業が終ると一日の労賃二十円(当時日本人の公定料金)貰って帰るのである。帰る度に二ーヤンは「玉蜀黍」とか「パン」など「子供にたべさせろ」と賃銭の他に何かしら食べものを恵んでくれた。 子供達は私の帰りを楽しみに待つようになった。

 監禁された校舎の外れに掘抜き井戸がある。これが二百人のいのちを支える水である。次女典子はまだこのはねつるべが使えない。ふちのかけたパカチをもってつるべの傍に立っている。誰かが水を汲むと、
「おばちゃんお水頂戴」 残りの水を貰う。パカチに水がたまるのを根気よく待っているのだ。思うように水がたまると、もってきたり或はそれで洗いものなどして母の手助けをしていた。ついに典子の貰い水は有名になった。誰でもすすんで典子に水をわけてくれるようになった。

 一週間に一回位夕方家族全部で運動場の外れに出て水浴をする。(弘道だけはできなかった)親子が全裸で水遊びだ。はた目にはほほえましくも見えたであろうが私達にとっては虱退治の目的もあるのでのんきな気持ではなかった。石鹸をたっぷり使ってお風呂に入りたいとつくづく思う時もあった。
 隣りの貫名先生の坊ちゃんがとうとう栄養失調でなくなった。私と平工の教へ児跡部君の手をかりて見晴しのよい山の頂上に葬った。人ごとではなかった。弘道ははしかのあと不潔にしていた身体はとうとう丹毒というおそろしい病魔にとりつかれてしまった。
 右半身紫色にはれ上りコンクリートのように堅くなった胸、そしてうつろな眼をあけては「まんままんま」とひもじさを訴えるのである。ある時あまりの空腹に、おそらくたえかねてかと思われるが、火のように泣き叫ぶのでフスマの団子の半焼けを一つ灰のなかからとり出して灰をはらってもたせた。ガツガツしてその団子を手にするや否や口にほおばった。さもうまそうなその顔はいまだに忘れ得ない。

 今は亡き弘道を思い出す度になぜかこの時の弘道の顔が浮んでくる。

                                        つづく



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