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平壤脱出記港町の一団について
2016.03.27   18期 松永 昇
 
 11期生諸先輩の方々、私は18期生の松永 昇と申します。
ご近所でもありテニス仲間として10数年お付き合い頂いている今道さんに父が家族及び親戚友人に戦争体験を伝える為に執筆した小冊子をお見せした所、ウエブサイトに公開してはとのお誘いがありました。
 父は私の在学中に小田高教頭として教壇に立っていた、戦争に抵抗感が薄れているご時世でもある事から、このまま埋もれさせず皆様に是非見て頂きたいと思い、今道さんのご厚意に甘える事にしました。

平壌脱出記は10回に渡って掲載させていただきます  今回は5回目です


平壤脱出記 港町の一団 -5-  深夜の脱出

2016.03.27 元小田高教頭 松永長雄

 八月のうちはそれでも暑さをかこちながらでもすごせたが九月に入って急に涼しくなってきた。この辺は冬将軍の到来も早いのではないか、とすればこのままでは凍死の外はない。或は餓死か?同じ死ぬのなら日本に一歩でも近づいて死にたい。これが一同の悲願であった。そこで引揚げを待たずにここからの脱出を幹部などその他の有志が真剣に考えるようになった。(この時平壤では引揚げが順調にすすんでいたのである)その計画の一つとして全員の持物(金になるもの)全部供出して売却し、それを資金として脱出しようという計画である。私もこの時まで大事に生命の次に大切にしていたものを潔ぎよく供出した。この金でみんなが脱出出来るならと未練な心に鞭うった。出し惜しみながらもみんなよく供出に応じた。リュックは殆んどからっぽといってもよい。

 九月二十日をすぎると殷栗は冬の間近さを告げるつめたい風に身ぶるいする程であった。九月二十五日午後一時頃、いよいよ脱出、今夜十一時を期して第一班は出発後続部隊を待つことなく行けるところまで行くこと。そのまま日本に引揚げらればそれもよしという背水の陣をしいた。

 第一班は約百名急にあわただしくなった。
私は副団長のところへ行ってその班に編入されているのかを知り、貫名先生がどの班かも知りたかった。秘密で事前発表は出来ないと一応断りをうけたが私は私なりに考えるところがあるので懇願これつとめた。
聞けば私は三班に組入れられていた。三班は三日目の夜半ここからトラックで三十八度を突破する計画である。貫名先生は二班で明晩徒歩で一班同様脱出。貫名先生は私が無理を言って静岡県から出向してもらった大学も同期であり子供達が極度に衰弱していて、とても徒歩では八度越えは無理である。そこで貫名先生を三班に入れ私を二班に組替えてほしいと嘆願した。
 「トラックに乗るには金がいる。払えないのではないか?」
「今は払えない、しかし内地へ帰ったら必ず責任者へ送金するよう私からも責任を持って連絡するからどうしても乗せてほしい」と頑張った。

 私は明晩二班の班長として出発する決意をかためた。さきに供出して資金をつくったその金を「人数に比例して配分してほしい」と団長にせまった。

 一班はごく少額であったらしい。私は考えるところがあったので少しでも多く貰おうとねばった。折合がつかない。悲しいことに総額は知らされていないので「いくら」とはっきり金額は言えない。夜十時半頃運動場に整列した一班はさすがに緊張していた。感無量の思いで見送った。いよいよ夜があけた,
二班の脱出名簿を手渡された。金も一班よりは多かったと思うが思い出せない。今夜脱出組の中で重だった人を集めた。この中で朝鮮語の出来る人を二人選び出した。その二名にお金を全部渡して今晩十一時三十分までに牛車を雇ってあの山(校舎から見える南方の山、殷栗のはづれ)の麓に待たせてほしい。出来るだけ遠方まで乗せて貰いたい。出来ることなら信川あたりまで願いたい、という条件ですぐさま牛車をさがしに出発して貰った。老人と子供の多い私の班で
は、まず何よりこれが先決問題である。

 昨夜何の準備もしないでそのまま出発した一班を見送ってこの感を深かくした。午後四時頃使いに出た二人が帰ってきて牛車二台約束して待機させておいたとの報告を得た。携行食の用意をしながら飛ぶ鳥あとを濁さぬようみんなであと始末をして、恥かしくないようにと注意をしながら見廻った。二班が脱出すれば残りは僅か二~三十名である。用意という程のことも出来ないが(金がなくて)一応整理は終った。私の家族は長女明子に弘道を背負わせ典子の手を引いて先頭に立たせその次に三女温子と家内をならばせそのあとに克彦をリュックの上にのせてつづくという隊形をくずさずに歩いてゆくことにした。
たしか九時半頃かと思う。脱出組の一人が入口のところで「先生にあいたいという人がいますよ」
しらせてくれた。
 今頃私に用事があって尋ねてくれる人など心当りはなかった。脱出直前だけに一寸不安を感じながら入口のところまで行った。夜目にすかしてみるとどうやらニーヤンらしい。
 「二―ヤンか」
 「まつながか」
ほとんど同時に声を掛け合った。
「今夜逃げることきいた。子供にたべさせろ。日本に無事につくように、ここから中へ入れないから呼び出してもらった。」

 有刺鉄線のそば近くよって風呂敷をカサカサさせながら私の手に持たせた。農園作業のときもそうであったが今夜の脱出にあたって金のない私はろくな携行食も準備出来ない。子供が多いのでのどから手の出るほど欲しい携行食である。それを沢山作ってわざわざ夜にまぎれて見送りながら持ってきてくれた行為はただ有難いだけではすまされない。

「二―ヤンどうして私にこんなに親切にしてくれるのか?」
この二―ヤンは若いとき南鮮で日本人の農園で働いた。その時の日本人が親切にしてくれ貯金も出来た。今の農場はその貯金で購入したものである。主人の恩は一生忘れられない。今主人へ感謝のつもりで私を見送るのだといっていた。私は心から泣かされた。ただただ頭のさがる思いであった。このことは終生忘れることは出来ない。学校で生徒に話が中国又は朝鮮、引揚げなどになる度にこの中国人農夫の朴訥で日やけした二―ヤンの顔を思い出しながら、断片的ではあるが農場の光景などまで思い出しては語るのがくせの一つとなった。

 いよいよ十一時だ。校庭に整列した。全員にまづ隊形の説明順路等を明示し町はづれの山すそに牛車が二台用意してあるから幼児と老人はそれに乗って南下すること。そこまでは声を立てずになるべく町中の道をさけて川沿いに河原を歩いてゆくこと。私が
殿をつとめる。道案内を兼ね元気な青年を先頭にして時折連絡にくる等の手筈であることを説明した。三班の人々と別れの挨拶を交わして出発した。折柄小雨が降ってきた。河原を歩く。さすがに緊張して静粛そのものである。牛車のところで一と休み。
 老人子供を二台に分業させて出発。自分の子供を乗せたいばかりに牛車を雇ったと蔭口をたたかれるのがいやで私の子供は終始歩かせた。朝八時頃大休止。朝食をとる。山の中なので安心して休める。
 また山の中を歩きつづけた。正午すぎになって、一昼夜早く先発した一班のおそい連中と一緒になった。一班はへとへとに疲れている。朝から妻はマラリア熱でおそらく九度以上はあろう。フラフラの状態。明子や典子に手をひかれ必死に歩いている。噂さに聞けば
信川(*1)は思想が悪いところで日本人の引揚などに危害を加えるかもしれない。出来得れば夜半に信川を突破通過してその南で夜明けを迎えたい。そのため今夜も徹夜の強行軍を覚悟しなければならない。

 午後三時すぎ。道路が二筋に別れるところにさしかかった。地図をみると直線の道は
達泉をへて更に信川に至る道路である。もう一つの道は達泉を大きく迂回して信川に至る道である。一班の残りの人々と私共二班は小休止をしながら何れを選ぶかを協議した。私は昨夜から徹夜で歩きつづけしかも今夜も徹夜で歩かねばならない。従って最短距離を選ばなければと覚悟して達泉に通ずる道を選んだ。一班の人達は「折角ここまで逃げてきたのに途中で捕っては何にもならない。急がばまわれだ。迂回路を選ぶと完全に意見が割れた。「私は直線の道をゆくから私の班でもし不安と思うなら一班の人と一緒に行ってよろしい。又一班の方でも私の考えに賛成ならご一緒にゆきましょう。」言い切った。

 妻は相かわらず高熱である。しかしここにおいてゆくわけにはゆかない。心を鬼にして叱ったりなだめたり元気づけたりしながら歩かせた。昨夜の十一時から歩きつづけて全員ヘトヘトになってしまった。夕方の四時半頃広場へ出た。あたりを検討する余裕もなくみな申し合わせたようにヘタヘタと坐りこんでしまった。

 

 ―達泉(*2)の憩―

 木造二階建の建物から警官が四~五名飛び出してきた。
 「しまった。」と思ったがもうおそかった。
「この団体の責任者は誰か? 手をあげろ」
私は手をあげて引揚名簿をもって警官に近づいて行った。二~三問答しているうちに署長が現われた。
「今夜はこの達泉(温泉があり日本人が旅館兼料理屋を経営していた)で温泉にでも入って、ゆっくり疲れをほぐしなさい。明日貨車でここから
鶴峴(haghyeon)まで責任をもって送ってやるから安心しなさい。」思いがけない言葉に皆ほっとするやら感極まって泣き出す者もいた。
 「この中で病人はいるか?」
 署長は重ねて聞いてくれた。私は妻のマラリアで閉口していた折なのでどうなるか一寸不安ではあったが手をあげた。他の人々はかたづをのんでひっそりとして手もあげない。
「病人は一人か? どこが悪いのだ。」
「マラリアです。薬もなくて弱っています。」
「よし何とかしてやる」
 署長は部下に温泉のある元日本人旅館へ案内を命じ名簿に従って部屋割をして休ませろと言いすてて自転車のペダルを踏んでどこかへ行ってしまった。案内されたところは畳襖など取りはらわれて、ただ屋根と床ばかりさすがに浴場(十人位入れる)は温泉があふれていた。

 夕食の仕度やら入浴やらで一としきり混雑をきわめた。署長の命令で私の家族だけ六畳間の畳襖も入れて夜風をふせいでくれた。その上署長はマラリアの薬(キニーネ)をもってきてくれた。それのみならず一班の人々はおそらくこの山の向うを歩いている頃だろう何とか連絡してあすの朝までにこ
へつれてこい。一緒に貨車で送ってやるから……有難い言葉を頂いた。署長から「明太」を家族の人数に大体比例して全員に見舞として頂戴した。早速教へ児の跡部之也君ともう一人青年をよんだ。
 「疲れているところへこんなことを頼むのは、ひどいと思うだろうが、一班の人々に連絡してあすの朝までに
ここへ連れてきてくれないか。いやな骨の折れる仕事ではあるが、我慢して行ってくれないか?」
 跡部君らは疲れもいとわず心よく「承知しました。いって参ります。」
 明るい返事であった。私は夜食用におにぎりとおかずを団体の中から寄付してもらって二人にもたせた。
久し振りの入浴はほんとうに生き返った。そして久し振りに畳の上に寝かせてもらった。
 昨夜からの強行軍でぐっすり寝込んでしまった。朝になって聞いた話であるが他の人々は夜中にたたき起されて警官の荷物検査と称して目ぼしいものはかたっぱしから没収されてしまった。朝八時半頃昨夜の伝令跡部君が帰ってきた。あとから手ぶらで一班の人々が(出発時の大半)ついてきた。
 人員点呼をして署長に総数を報告、昨夜来のご厚志を感謝した。十時過ぎ十輌ばかりの無蓋車に乗って達泉に別れを告げた。

 聞くところによると一班は私共と別れて山の向うを足をひきづりひきづり歩いて夜になった。派出所の前を通りかかると全員ストップをかけられ荷物の検査と称して殆んど没収されてしまった。その上夜中になってもう歩く元気もなくなって道端に腰をおろしてしまった。休むと急に寒さが身にしみた。誰かが枯木を集めてきてたき火をした。みなそのたき火をかこんで休んでいるとき、一台のトラックが驀進してきた。助けて貰らおうと必死に手を振った。トラックの人々は明らかに三班だ。団長はじめ幹部家族とボデーガードの役を負った青年たちである。焚火の近くにさしかかったとき声を限りに「とまれ! 助けてくれ! 乗せてくれ!」声を限りにどなった。トラックの人々は焚火に近づくと一斉に毛布を頭からかぶり顔を伏せて全速力で走りぬけてしまった。路ばたの連中は怒り心頭に達して罵言雑言大さわぎをしているところへ私の出した伝令がついたということである。

                                        つづく

*1 信川 :sincheon  신촌 シンチョン
*2 達泉 :dalcheon  달천
 タルチョン (殷栗と信川の間にある温泉郷)


 
信川博物館
信川塹壕
 

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