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平壤脱出記港町の一団について
2016.04.05  18期 松永 昇
 
 11期生諸先輩の方々、私は18期生の松永 昇と申します。
ご近所でもありテニス仲間として10数年お付き合い頂いている今道さんに父が家族及び親戚友人に戦争体験を伝える為に執筆した小冊子をお見せした所、ウエブサイトに公開してはとのお誘いがありました。
 父は私の在学中に小田高教頭として教壇に立っていた、戦争に抵抗感が薄れているご時世でもある事から、このまま埋もれさせず皆様に是非見て頂きたいと思い、今道さんのご厚意に甘える事にしました。

平壌脱出記は10回に渡って掲載させていただきます  今回は6回目です

元小田高教頭 松永長雄氏

平壤脱出記 港町の一団 -6-  三十八度線突破

2016.04.05 元小田高教頭 松永長雄

 九月といっても日中はまだ暑い。石炭ガラや塵埃やらで誰の顔もすすけてくろくなった。でも歩くよりどんなによいか。貨車にゆられながら達泉の署長に感謝でもちきりであった。

 署長は終戦時平壤船橋里の警察署長だった由奥さんが日本人であるという理由で黄海道の達泉という小さな邑の署長に左遷された方とか。それにしても私達はこの署長さんのお蔭で百余名が助かったのである。もしあのまま歩きつづけていたら犠牲者は必ず出てきたであろう。妻のマラリアは今日は熱の出ない日である。(マラリアは隔日発熱)キニーネの服用によってあしたも大丈夫と思うが貨車にゆられながらも元気をとりもどした。


 夕方曽て追い返された鶴蜆についた。ホームに巡査が待ちうけている。またかと一瞬ギョッとした。しかし今度は違った。
「達泉の署長から連絡があったので出迎えに出た」ということ。駅の近くの民家に割当分散して夜中まで数時間を休養するようにということである。私共の案内された民家はオンドルを焚いてくれたので温かく数時間仮眠できた。

 夜半の一時八度線までの道案内者のあとについて永い行列を組んで出発した。この時は港町だけでなく
新義州からの一団と行動を共にした。

 私はこの行列の最後尾である。何しろ国民学校五年の長女を頭に五人の子供であり末の弘道は明子の背中でただ息をしているというにすぎない。もう泣くだけの気力もなくなったようである。途中で荷物の検査と称して調べられた。ここまでは写真類は台紙をはがして大事にもってきた。人物写真はよいが風景の入っているものは全部出せ。もし違反者があったらその団体は北鮮へ逆戻りさせる、とおどかされた。家内は正直に全部出してしまった。ここまで来たら私の荷物は殆んど空っぽといってよい。

 
弘道を背負わせた明子を先頭に次に妻と典子の手を手拭で結びつけて離れないようにして歩かせそのあとを温子と私のリュックの上には克彦という隊形で歩いた。夜が明けた。人里はなれた山の中を歩きに歩いた。あの木(電柱があれば電柱)のところまで歩いたら交替だ。と言ってはリュックの上の克彦を歩かせ代りに温子をのせる。こんなことをしながらなだめすかして交互に歩かせながら南下する。

 「松永先生を待っててやろう」
と言ってはみんなが一と休みしてくれる。やっと追いつくと出発だ。私は休むひまがない。子供達の足のうらはまめで一杯運動靴をはいては歩けない。そこで私の作った藁草履にはきかへる。そのうち鼻緒ずれで足は血だらけ。草履もはけない。最後ははだしで歩かせた。典子は背中に茣蓙一枚をまるめてななめに背負わせ半かけのパカチをぶらさげて歩く恰好は見るも哀れな姿である。明子も典子も歯をくいしばって最後まで頑張り通した。

 九月二十九日の夕方いよいよ八度線。河巾はかなりあったが水はきれいに澄んで浅瀬であった。この川が所謂八度線とか誰かが言った。川の手前で大休止、川の向うにバラック建の建物がある。そこがソ連の国境警備の分隊の詰所である。代表者が行って脱出を願い出た。
「夜七時から八時までの間は警備兵の夕食の時間である。その間に通過するように」
これでやっと脱出が可能となった。夕食らしい夕食ではないが腹こしらへをして出発を待つ。さあ川を渡るのだ。
 この時突然妻は夜盲症になってしまった。全く見えないという。極度の疲労と栄養失調からくるにわかめくらである。

 典子と手拭で手を結び合い、先頭に明子が弘道を背負って温子の手をひき次に典子がにわかめくらの妻の手をひいてつづき最後に克彦を背負った私という順で部隊の最後尾におくればせながらついて歩く。克彦は昼の間交替ではあったが歩きとほしたのでつかれ切って歩けない。ここで部隊から離れたらもう一巻の終りである。暗い夜道を石につまづきながら必死に歩きつづける。突然私の前に立ちはだかった男がいる。両手を合わせて頭を幾度も幾度もさげている。

 

 朝鮮の青年を助けて

 私の家族の一員として南鮮まで連れていってほしいと哀願する。前の人々にことわられ最後の私のところへきたわけである。当惑して決心しかねて歩き出した。とたんに背中の克彦を奪うようにとりあげ背中におんぶしてピッタリ私の横にならぶ。もうことわることも出来ない。
その時部隊は進行一時停止を命ぜられた。前の方から人員調査である。
 「この団体の中へ北鮮から朝鮮人が一人もぐりこんでいる。その者を出さなければこの部隊は北鮮へ逆戻りさせる。」
 威嚇しながらしらべてきた。私のところで引揚名簿といっても暗いので文字など読めない。総員に一名加えた数字を答える。
 「いない。いない。」
言いながら進発を許可する。前進をつづける。私は前を歩いている連中に「みなさんには迷惑はかけない。万一みつかったら私の家族だけ北鮮送りになるから、みんな知らぬ顔をしてほしい。」と伝え私はこの青年を
青丹(当時は南鮮 注1)まで連れてゆく決心をした。

 おそくなって雲の切れ目から月がときどき顔を出す。その時横の青年をみた。年令のころは二十七か八。三十は越えていまい。日本の大学を出ただけに親日派として色めがねで扱われるので北鮮では志を伸ばす余地がない。生きるために南鮮へ単身脱出を企だてたのである。前進がまたストップ。
 「この中の朝鮮人をつまみだせ。出さなければ北鮮送りだ」
どなりながらまた調査である。私のところへくると幸にも月が雲がくれする。こんな事が三~四回くり返された。

 八度線から約二粁位の間は米ソの不緩衝地帯である。道路に面して急造のバラック建の家が立ちならんでいた。日本人が通過する度に、おどしては金品をまき上げあまつさへ娘まで掠奪をする所謂強盗追剥の部落にさしかかった。私共の先頭は屈強な青年達をおいていたので一味と堂々とわたり合った。ただし暴力にまでは発展しないよう各自が心得ていた。この時も約二千円で無事に通過が出来た。話にきけばこの部落でまるはだかにされあまつさへ娘を犠牲にしてやっと通して貰ったとか、或はソ連の警備兵の威嚇射撃で折角八度線まで逃げてきたのに尊い一命を失ったものも数知れぬという。

 やっとの思いで南鮮青丹の邑に入った。あちこちの街灯がまばゆい。電燈の光を久しぶりにみて何か急に平和が近づいてきたような錯覚にとらわれた。青丹の駅広場についた。
隣の青年は背中から克彦をおろした。無事に南鮮へ潜入出来たことで感涙にむせびながらお礼のことばをくりかへしくりかへしのべている。そして私の名前をきかせてほしいと懇願する。
「朝鮮は私にとって十年余り生活をしたところ、いはば第二のふるさとと思っている。名前を言う程の者ではない。ただ一日本人が一朝鮮の青年を八度線突破に手助けをしたというだけでよいではないか。永い間の日本の統治から離れて独立したばかりでまだ動揺しているが地理的にも歴史的にも日本と朝鮮は手を握って共存共栄の実をあげねばならぬ、いはばそういう宿命をお互いにもっていると思うのだ。どうか将来日本との外交・交通など再開された暁には日本を理解して親日の実をあげるよう努力して欲しい。それが今夜のあなたの感謝のあかしである。私も及ばずながら内鮮共学の学校の教師であっただけに親善理解への礎石となる覚悟でいる。今を出発点としてお互い頑張りましょう」

 彼は私の手をいたくなるほど握りしめ熱涙が私の手の甲に滂沱と落ちた。
彼はふりかへりふりかへり闇の中に消えていった。九月三十日午前0時すぎのことである。午前一時頃から歩きつづけて日没なお歩きつ寸けやうやう青丹に午前0時すぎ到着した。二十三時間の強行突破である。腹こたえある食事もしないでよくもまあ子供達は落伍せずに歩き通したものだ。
 駅の倉庫には先客の引揚者で満員である。しかし夜露にぬれてはと思って何とか家内と子供だけは割り込ませ屋根の下で休ませた。
 暗くてその上
疲労困憊極限に達していたので弘道の様子もみず寝かせてしまった。私は外の大地の上に大の字になって寝た。心労と過労で豚のように寝込んでしまった。
朝五時頃夜露にぬれて寒さからくる腹痛で眼がさめた。家族はどこに寝ているのか急に不安になってさがしはじめた。

                                        つづく


注1

1946年当時は朝鮮半島の北側にソ連軍、南側に米軍が駐留していたが、軍事境界線は明確に決まってはいなかった。青丹邑は青丹村のこと青丹(청단・cheondan・チョンタン




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