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平壤脱出記港町の一団について
2016.04.13  18期 松永 昇
 
 11期生諸先輩の方々、私は18期生の松永 昇と申します。
ご近所でもありテニス仲間として10数年お付き合い頂いている今道さんに父が家族及び親戚友人に戦争体験を伝える為に執筆した小冊子をお見せした所、ウエブサイトに公開してはとのお誘いがありました。
 父は私の在学中に小田高教頭として教壇に立っていた、戦争に抵抗感が薄れているご時世でもある事から、このまま埋もれさせず皆様に是非見て頂きたいと思い、今道さんのご厚意に甘える事にしました。

平壌脱出記は10回に渡って掲載させていただきます  今回は7回目です

元小田高教頭 松永長雄氏

平壤脱出記 港町の一団 -7-  青丹哀歌

2016.04.13 元小田高教頭 松永長雄

 九月と夜半夢中で割込ませたところは朝の感覚からは反対の方向であった。近づいてみた。

 家内をはじめ子供達の憔悴しきったそれでいてあどけない姿に涙がこみあげてきた。弘道はとみれば虫の息である。ここまで辿りつくため大方お金はつかい果たして財布には僅か三十五円なにがしである。脱出非常の際であるから止むを得ないとは言へ親としてせめて医者の手にかけ注射の一本でも、脈でもとってもらっての死であればあきらめもするがこのままでは何としてもあきらめきれない。私は倉庫の柵を飛びこして邑内へ出た。医者をさがしにあちこちかけづりまわった。やっと一軒医者の家を見付けた。

「子供が急病でこまっています。ぜひ診察して下さい。駅の倉庫にいます。」
口早に訴え哀願した。医者はどういう状態かと反問する。
「はしかのあと丹毒にかかり手当も薬ものませず昨夜八度線を越えてきたのです。一才四ヶ月の男の子です。」

「それなら助かるまい。行っても無駄だ。」
往診の気配もない。重ねて懇願する。
「注射は高いぞ、しても無駄だろう。」
仲々腰をあげない。
「高くても無駄でもいいのです。一度だけみていただければそれでいいのです。早くきて下さい。私と一緒にきて下さい。」
 執拗に迫った。医者も根まけしたのか渋々ついてきた。注射を一本お大事にと医者はそそくさと帰る。往診料注射代合わせて金二十五円を支払う。
「先生は何を考えているのか? 駄目な子供に金を使うより生きている子供に使った方がどんなによいか……金もないくせに……無駄な注射までして……」
 非難の声は覚悟の前であった。それから二時間位たったころ大きく二回程呼吸してこときれた。九月三十日午前十時半頃か、涙も涸れた。家内は「弘道には可愛想だがこれでよかった。何だか一つ大きな仕事が片づいた気がする。」

 涙も涸れていた。死顔をぼんやりみつめている時、トラックで三班が意気揚々と広場についた。それを一班の者がみつけトラックから引きつりおろすようにして取りかこみ所謂人民裁判の第一回が行なわれた。(これからあと夜になると幹部をさがしてはなぐる・けるの暴力がふるわれた。殷栗での反感が婦人にまで及んで毎夜毎夜の暴行にたえかねてのちに団長は日本人世話会に申出て隔離保護された。)
「貫名さんを乗せて先生を歩かせたそれで先生は坊ちゃんを死なせたのだ。これも三班の連中のためだ。先生、坊ちゃんの恨みを晴しなさい。」と私をけしかける。

 「人をなぐって、けって、それで死んだ弘道が生きかへるなら……話は別だ。」
私はとりあわなかった。それどころではない。弘道の死体をどう処理しようか迷っていた。トラックで引揚げた中に内科の医師がいた。誰かがしらせたのであろう聴診器をもってかけつけてくれた。すでにこときれた後であったがそれでも丁寧に診察して頂き死亡診断書も書いて頂いた。それからそれへと弘道の死は伝えられた。思いがけない人から過分の香典を頂いた。浅ましいと思ったが多額な香典で何かしら救われたようなホットした気持になった。親として恥かしい限りである。
教え児の跡部君貫名先生の助力で菰に包んで運ぶ。邑長の許可を得た。青丹のはつれ山の中腹に埋葬した。そこは遠く黄海を望み下には北から南へ日本人の引揚者が通る道路である。(私達は昨夜ここを通った)韓国墓地の一角である。

 近くにいた人から「子供は甘いものが好きだ。生憎なくなってしまったがせめてこれでも」といって砂糖をいれた小さな空き缶一つ―有難く頂戴した。他には死出の旅路にもたせてやるものは何もなかった。
紙片の上の僅かな頭髪と爪それが残されたいとし子弘道のすべてであった。
祖国日本の土を一度も踏ませないで異国の丘にただひとりおき去りにせねばならなかった。いかに脱出途中とはいえ断腸の思いであった。

 「弘道お前は戦争が苛烈となった二十年五月二十八日それは海軍記念日の翌日だ。その日にお前は生まれたのだ。だからお前に皇道を弘あてほしいとひそかな祈りをこめて皇国の道を弘める―弘道―と名付けたのだがとうとうその願いも空しく日本は負けてしまった。お前に托した夢も破れてしまった。だからお前は死を選んだのか? これからの日本はどうなることか? それにしてもあまりにも短い命だった。麻疹の苦しみにも丹毒の痛みにもなにもしてやれなかった腑甲斐ない親だ。ほんとうに情けない。ゆるしておくれ。
 だが弘道よ。これからこの山の下を通る日本人を今日からお前が守ってやっておくれ。それが日本人と生まれたお前のせめてものあかしだ。この海のずっと向うが日本だよ。そこへ帰りつくまで大勢の引揚者の守り神になっておくれ。」

 小さなそれでも割に格好の良い手頃の石を墓石代りにして愛児との永久の別れを惜んだ。私は弘道の死体を埋葬出来ただけでもしあわせであった。移動又移動で肉親の死体を溝におしこんだり、道路のはたにおきざりにして逃げるようにして移動した日本人も数多くいる。

 土城で一泊。この時米軍の身体検査持物検査といっても殆んどなかった。虱退治のDDTを頭から吹きかけられて閉口した。青丹から開城の天幕村まで三日ばかりかかった。
 十月上旬薩摩芋の出盛りであったが高価なので手が出ない。一番安かったのが大根である。朝鮮味噌をつけた生大根を横かちりして歩いた。といってもこれは家内や子供のことで私はその葉をたべた。大根の葉を縄でしばって腰にぶらさげて歩いた。腹がへると葉っぱをむしゃむしゃ食べて空腹をしのいだ。
私共の部隊では有名になった。
「松永さん大根の葉でよかったらあげましょう」
「先生葉っぱをあげましょう」

あちらからもこちらからもお声がかかって私は大根の葉だけで三日間をすごした。


                                        つづく



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