戦   争
Home


平壤脱出記港町の一団について
2016.04.20     18期 松永 昇
 
 11期生諸先輩の方々、私は18期生の松永 昇と申します。
ご近所でもありテニス仲間として10数年お付き合い頂いている今道さんに父が家族及び親戚友人に戦争体験を伝える為に執筆した小冊子をお見せした所、ウエブサイトに公開してはとのお誘いがありました。
 父は私の在学中に小田高教頭として教壇に立っていた、戦争に抵抗感が薄れているご時世でもある事から、このまま埋もれさせず皆様に是非見て頂きたいと思い、今道さんのご厚意に甘える事にしました。

平壌脱出記は10回に渡って掲載させていただきます  今回は第8回と最終回です

元小田高教頭 松永長雄氏

平壤脱出記 港町の一団  -8回-  開城天幕村

2016.04.20 元小田高教頭 松永長雄

 やうやう開城の天幕村に到着、北鮮満州からの引揚者約一万名がテントに収容されている。食事は朝五時頃夕方四時頃の二回で玉蜀黍のおかゆ、一回の量は湯呑茶碗に八分目位玉蜀黍は平均して十二~三粒である。収容所の南に当るだらだら坂を上ると清洌な小川が流れている。その水をすくって、うがいや洗顔をする。生きかへったようなさわやかさであった。四~五日するとこの坂が息がきれてのぼれなくなった。体力の著しい衰弱を感じた。そこで思い切っておかゆの増配のある使役に出た。この天幕村では毎日のように老人や子供が死んでゆく。入口のところに菰で死体をまいて相当数たまるとトラックで共同墓地(といっても大きな穴にただほうりこむだけである。その穴が一杯になったら上に土を少しかぶせるだけである)に埋葬する。使役の中でもこの死体運搬が最上の使役であろう。私は志願してよく行った。死体運搬は有難くないがここから外出できることが魅力である。生菓子をはじあ欲しいものが買えるたのしみがある。それもこっそりアメリカさんに発見されぬように買うのであるが大方は黙認の形を取ってくれた。
  私は時々出てはまんじゅう・きんつばのような甘味品をそっと六つ買ってポケットにしのばせて帰る。
勿論大びらでは食べられない。夜寝てからそっと子供の手にそれぞれ握らせる。そっと食べる。甘さが口一杯にひろがるこの時だけは天国だ。子供達もよく心得ていて私が使役に出るのを喜んでいた。その上玉蜀黍ばかりと言ってよい程多いおかゆの特配がかなり大きなあき缶に一杯貰える。これは公然とたべられる。或は清掃人夫の使役に出ても特配のおかゆが魅力であった。鉄柵の外に朝鮮人が薩摩芋・あめ菓子・野菜など売りにくる。警備の米兵に追いはらわれて逃げまわるがすきをみては売りこむ日本人もよく買っていた。
上手に昼の陽をあびて真裸になった虱退治は天下公然のことである。トイレには閉口した。大便所は深く直線に穴を掘って板を長く三〇米位渡して仕切りもなく一列縦隊になって用をすますのである。かこいは菰でかこった粗末なものである。現在では想像も及ばないことであろう。
平壤引揚げの最後の部隊がこのテント村に収容されているのを知って驚いた。港町の一団が七月中旬脱出した直後八月から引揚が開始され比較的順調にすすみ最後の部隊と奇しくも開城で落合ったのである。
 
妙につっぱったリュックを背負って天幕村に入ってきた人がいる。死体を葬るひまもなく移動また移動で荷物は全部すてて子供の死体だけ、すてきれずに背負ってきたという親なればこそと思わずには居られなかった。引揚の順番を待つこと約十日いよいよ仁川から引揚げと決ったときは何にもましてうれしかった。

軍事境界線の変遷

 

平壤脱出記 港町の一団  -最終回-  引揚船高栄丸

 仁川まで列車で送られた。仁川での夕食に「にこみうどん」が配給された。団子のようにかたまってはいたがなんとおいしいこと今でもあの味は忘れられない。上陸用船艇で高栄丸に近づき縄ばしごを子供達も必死になってよぢ登って甲板に上った。マストに翻翻としてひるがえる日の丸を仰いだときなぜか涙があふれ出た。船長が引揚者全員を甲板に集め力強い挨拶があった。「この船は日本の船であります。みなさんの国の船であります。みなさんの生命はこの高栄丸が保護し保証します。どうぞ安心して佐世保に上陸するまでお休み下さい云々」
救われたのだ。夢にまでみた日本、故郷へ帰れるのだ。自分自身にこう行って言いきかせて日章旗をいく度もいく度もあをぎみた。船中は私が団の責任者に選ばれなにかと雑用に追われた。この高栄丸は貨物船で私共を乗せた後まもなく廃船になったとか。佐世保の山が森が陸地がみえはじめる。
 あすは土陸という最後の日船倉で演芸大会が開かれた、腰のまがったお婆ちゃんから小さいのでは当年四才の克彦まで演壇に上った。忘れてしまったが何か歌って大喝采を博したことは当の本人も記憶がないらしい。まことになごやかであった。
 十月十八日佐世保上陸引揚列車に乗るまで団の雑事に追われ通した。三女温子が猛烈な下痢を起してしまった。四人一ますが私の家族の割当だ。私は腰かけの下にもぐって休む始末であった。阪神地区の空襲の惨状を車窓から眺めて、はじめて無条件降伏もやむを得なかったのだと自分に言いきかせてあくことを知らず車窓を眺めつづけた。

                    ********

 北鮮平壤から単身南鮮に脱出した平壤第一公立工業の卒業生在校生(当時)凡そ百名ばかり現在ソウルの第一線で活躍している。年に一回同窓会を開いて友情をあたためている。
昭和四十九年五月の総会に私が日本人教師として初めての招待をうけた。
死ぬまでに一度三十八度線近くにいって亡き弘道の遺骨代りにせめて小石の一つなりと持帰って墓に納めたいという悲願をもっていたので招きに応じて訪韓した。その時の感慨を日本の平壤第一公立工業同窓会の機関誌に発表した。いまその一節を披露して脱出記の筆を擱くことにする。

                    ********

 

 あれから28年・板門店二粁手前にて

 五月二十日(月)雨(昭和四十九年)ホテルの朝食が終ったころ教え児の金申周君が迎えにきてくれた。三十年来の悲願である八度線近くまで案内してくれるのだ。生憎の雨……でも意に介しない。早速車に乗り込む。坦々たる四車線のすばらしい道路「統一路」と命名されている。汶山が現在韓国鉄道の終着駅―曽ての京義本線であるがここでレールがはずされている。そこからなお北に向けて走りつづける。だんだん走る車の数も少なくなってくる。道路の左右に鉄筋コンクリートの杭のようなものが果てしなく東西につづいている。道路と交錯するところは橋梁の上に小さな家屋程の大きなコンクリートのかたまりがのっかっている。事あるときは橋脚についているボタンを押すとこれが道路にそのまま落ちて遮断する仕掛けとかこれが二粁位走ると左右に同じように敷設されている。このあたりになると韓国軍の完全武装した兵士が歩哨に立っている。警戒の厳重なこと何んとなく緊張感を覚える。もうこの辺でと思った。とがめ立てられぬ先に車を止めようと私の心づもりであったが金君はグングン車を北に向けて走らす。やがて大きな観光会館二階建の建物
―臨津閣―に近づいた。ここが現在韓国の最北端で一般人の出入が自由に出来る地点である。雨は可成り降っている。車からおりて金君の用意してくれた傘をさして更に北に向って歩いてゆく。前方に鉄橋が見える「自由の橋」という。が許可なくしては渡れない。なんと橋名の皮肉なこと。はるか二粁の地点が名に負う板門店、

     板門店指呼にのぞめば梅雨寒し

 韓国から立ち入りを許可されている最北端の地点に立つ。思いは二十八年前の昔にかへる。オンボロ服に栄養失調で弱りきった足どりで親子七人がいのちからがら突破した二十一年の九月二十九日疲れきった私達七人は仲間の隊列からいつでもおいてきぼりにされた。明日のいのちの保証もなく子供達は血のふき出る足をひきつるようにして、とぼとぼと歩みつづけた―あの時はまだ弘道は瀕死ではあったが生きていた。苦しい思い出が脳裡をかすめる。今梅雨にうたれながら停つむと二十八年の歳月は一瞬にして流れさった思いがする。感また無量。この辺は警備が厳重で歩哨の数も多い。ここらでと金君から促される。
前かがみになって道路沿いの堤の一角に移植こてをつきさした。一杯堀り上げる。待っていたように金君がビニールの袋の口をあけて差出してくれた。二杯目をすくい上げる。その途端近くで銃声が四~五発なった。度胆を抜かれた。
「弘道君、おとうさんが今日本からはるばる迎えにきてくれたのです。うれしいでしょう。」
金君はひとりごとのように言って手を合わせて拝む。明子(長女)も高橋・高柴(両名平工卒、東京から私と同行)両君も無言で手を合わせてじっと首うなだれる。三杯目がすむ。そこの小石を私が二つ明子が二つ拾う。袋におさめる。

     遺骨に代わる小石を納め高麗の夏
     朝焼の山襞永久に子の眠る
     変容の山河となりぬ星涼し
     眠る丘とむらひくれば松落葉
     失ひし次男の丘ぞ草茂る
     とざされし国より夏の霧ながる

 やっと二十八年来の重荷―いつの日か弘道の骨を―それがたとへ青丹でなくても近づける最北端の地点でせめて砂なり小石なりをお骨代わりに納めて祖先の眠る山北の墓地に埋葬したい。これが悲願であった。私の生あるうちにこの悲願が叶えられれば……と思いつづけてきただけにこの時ほど身体がスーッと軽くなったことはない。金君への感謝がいつか涙となって目頭にたまる。払っても払ってもわき出るのをどうすることも出来なかった。
 (昭和五十一年六月記)
                                        



軍事境界線付近(1985年撮影:吉田)
坡州近くの統一関門
境界線手前の標識
京義線韓国最終地点
監視所
望 拝 壇

臨津江(イムジンガン)(1985年撮影:吉田)
臨津江(Imjingang・イムジンガン)
臨津江に架かる鉄橋
北朝鮮への橋 右側橋脚は日本統治時代のもの
臨津閣(임진각Imjingak

日本海側の統一展望台より(1985年)
ソウルから統一展望台までの経路
日本海沿いに走る国道7号線
統一展望台(左下の許可証が必要)

3Km手前で申請・発行される許可証
 
国道7号線

 後 書
今道周雄

 松永先生は私ども十一期生が卒業してから三年後に小田原高校の教頭として着任された。
たまたま、松永昇さんから、「平壤脱出記」、自伝「燼余の繰言」(五百頁余りの大著)、遺言(入営に先立って毛筆で書かれた見事なもの)をお借りし読ませていただいた。
 先生は刻苦勉励の方で、意志力が非常に強かったことが自伝からは伝わってきた。それであるからこそ、非常に過酷な状況にあっても、ご家族を守り通せることができたのであろう。
 いま、韓国と日本の関係は必ずしも良くないが、先生のご経験から国という枠を超えて日本人と朝鮮人は人としての絆に結ばれていることを感じる。北朝鮮を含めて朝鮮半島に平和が到来し、いつか自由に墓参できる日が来ることを願う。


          1つ前のページへ