戦   争
Home


平壤脱出記港町の一団について
2016.02.01   18期 松永 昇
 
 11期生諸先輩の方々、私は18期生の松永 昇と申します。
ご近所でもありテニス仲間として10数年お付き合い頂いている今道さんに父が家族及び親戚友人に戦争体験を伝える為に執筆した小冊子をお見せした所、ウエブサイトに公開してはとのお誘いがありました。
 父は私の在学中に小田高教頭として教壇に立っていた、戦争に抵抗感が薄れているご時世でもある事から、このまま埋もれさせず皆様に是非見て頂きたいと思い、今道さんのご厚意に甘える事にしました。


父松永長雄の略歴

1932年
立正大学専門部高師国漢課卒業
1935年
平安南道鎮南浦尋常高等小学校着任
1940年
平壤公立工業学校教諭
1945年
抑留
1946年
帰国
1948年
県立山北高等女学校(現山北高等学校)教諭
1962年
県立小田原高等学校教頭
1967年
県立厚木高等学校教頭
1970年
平塚学園高等学校総務部長就任
1984年
平塚学園高等学校依願退職
1976年
「平壤脱出記」執筆

平壌脱出記は10回に渡って掲載させていただきます

平壤脱出記 港町の一団 -1- 運命の賽(さい)

2016.02.01  元小田高教頭 松永長雄

 三十年の昔を思い起して港町の脱出前後の模様を曽ての異常な体験―生命財産の保証もない苦難の連続であった当時―を恵まれた太平の現在から角度をかえて考えてみたい。メモでもとっていたならと残念に思うばかりである。詳細に日時までの記憶がない印象にはっきり残っていることどものうちいくつかを思い浮かべての文章である。万一にも私の思い違いがあったらご寛恕願いたい。出来ますならばご批正のご連絡を賜れば幸甚に存じます 。

 昭和二十年八月十五日快晴。めづらしく未明にB29の編隊が上空を例の通り通過した。平壤はまだ空襲の経験がない。今年の六月頃から(?)きまって午前十時半頃南から北へB29の編隊に見舞われた。始めの頃高射砲による射撃が行われたがB29よりはるかに低いところで炸裂する全く漫画そのものである。その上落下する破片による被害が馬鹿にならない。七月頃からはただ敵機の通るにまかせていたにすぎない。
今日は二回目の臨時召集。午前八時平壤四十四部隊へ入隊しなければならない。すでにソ連が戦線布告をして満州を席捲しつつ南下している。ソ連兵団を満鮮国境付近で阻止するため重機関銃陣地を死守する任務と聞いた、生還は期し難い。昨夜は滝本さん(当時平壤公会堂食堂経営平工剣道師範)に無理を承知で料理を頼んで心ばかりの門出を祝った。
 町会の有志に送られて営門近くさしかかると平工の全校生徒が小旗をふって迎えてくれた。嵐のような歓呼の声、校長先生をはじめ同僚生徒に別れを告げて入隊。営庭に集合整列八時部隊長から、「本日の召集は演習である。近日中にほんものの召集を行うからその時は本日の通りおくれぬよう参集のこと。更に本日正午に重大放送があるから必ずラジオにスイッチを入れて拝聴せよ」
この訓示で召集解除全く狐につままれたようである。力ぬけして営門を出る。まだ見送ってくれた生徒や同僚があちことにいる。早速召集解除の旨と正午の重大放送の件について校長に申告した。
決死の覚悟で二時間ばかり前に出た私が玄関の戸をあけたのだ。妻も子供もあっけにとられてしばし無言のにらみ合い。やっと解除のこと重大放送のことなど妻にはなして国民服のゲートルを脱ぐ。
正午の放送ー玉音に耳を疑うーやはり真実である。無条件降伏を確める。万感胸にせまりしばしなすところを知らず、あふれ出る涙ぬれるにまかせた。餞別を頂いたところへおかへしにまわる、これで戦争は終わった。これからどうなる?
 翌十六日に出勤。二~三ヶ月の給料賞与などが一括支給された。職員室殊に自分のテーブルなどのかたづけをすまして帰宅。


 当時平壤駅の駅長さんの息子が本校の生徒であった。駅長さんから、今明日のうちなら釜山までの急行の切符を家族分用意するから(但し荷物はもてない)引揚げてはどうかと有難いお話である。この時切符をお願いして引揚げればこれからの受難物語はなかったものを。神ならぬ身の知る由もなかった。
戦争に負けた経験のない日本人は-私はかかる事態に立至った場合の処理、判断があまりにも甘すぎた。
何れ政府の手で引揚げさせてくれるであろう。その時は荷物は一人何箇と制限されても少しは持って帰れるであろう。全く自己本位の甘い判断で切符をおことわりしてしまった。十七日頃になると郷里を同じくする平壤兵事部勤務の親友大橋大尉がどうも朝鮮人の感情が非情に悪化してきた。万一万宝山事件の二の舞が起ったら万事休すだ。彼等の手にかかるよりは潔ぎよく自決して日本人としての最後を飾ろうではないかと意見が一致した。
 決行の日時は十八~十九日の夜、場所は港町の私の家ということになった。いよいよ決行ときめた十九日、昼湯に入り子供達には自分のすきな着物―晴れ着―を着せた。子供等がこの日までためた陶器の貯金箱を金槌で砕いて取り出した。五円余りあった。これを全部子供にあたえて、「市場へ行ってすきなものをかっておいで。お金は残さなくていいよ。」
子供達は大はしゃぎで市場に出かけた。
 今夜は大橋君夫妻を交えて最後の晩餐である、もう金もいらない。最後だから心残りのないように酒肴の準備をする。隣りの原田さん(主人は八月二回目の臨時召集で龍山部隊に入隊)の奥さんから一緒に殺してほしいと懇願された。おことわりにほとほと閉口した。脱出にも関連するのでここで当時の私の家族構成を紹介しておくことにする。
 私が平壤第一公立工業学校教諭三十七才、妻愛子三十二才、長女明子十二才国民学校五年、次女典子八才国民学校二年、三女温子六才、長男克彦四才、次男弘道一才の計七名である。
市場から帰ってきた子供達は晴れ着をきてほしいものを買ったうれしさで大はしゃぎである。夜になった。いよいよ決行の時が迫ってくる。大橋君夫妻が来ればそして食事をすればそれで終りだ。たまらなくむなしい。
 八時をすぎて、待てども待てども仲々現らわれない。おそくなるから子供達には先に食事をさせようとした。盛り沢山のご馳走に克彦や温子は目をまるくして大よろこびである。さすがに明子典子は急にしょんぼりとして箸をとろうとしない。それに気付いてか克彦も温子も急に箸をおいてしまった。
「食べなさい」いくら言っても箸をとらない。子供でもやはり異様な気配を敏感に感じとったのであろう。私共は胸一っぱいになって食卓をかこんで無言の行、心のうちで鳴咽。十時をすぎたころ大橋君があらわれた。
「情報まとめでおそくなったが、朝鮮側に行政の実権を委譲したので治安は一応平穏になったようだ。何も死を急ぐこともない。少し経過をみて最悪の場合は決行しよう」
折角用意した料理であるからそれまでの体力増強に平らげよう。やっと重々しかった緊張から解放されて箸を取った。この空気が子供達にも通じたのかやっと箸を取る。子供のいじらしい姿に料理ものどを通らない。

 八月二十五日ソ連軍の入壤軒々に俄かごしらえの大小さまざまなソ連国旗、朝鮮国旗がひるがえる。
部隊の行進を垣間見て驚ろいた。年令から言えば十七八才と思われる少年兵から五十才以上と思われる老兵までそれに婦人部隊も交っている。装備にはあきれた。軍靴をはいている者は十人中四~五名で他ははだし、軍服の色はカーキ色青色黒色と様々な色合いである。マンドリン銃は十人に一挺位の割合他は手ぶらで行進烏合の衆ともいうべき集合体である。こんな軍隊にどうして無条件降伏したのか無性に腹が立った。
これより先隔日に平壤一中の会議室で府内の中等学校長と道庁学務課員と引揚までの情報連絡に午前の一と時を過すことになっていた。校長官舎が龍興里(yongheungri)で遠いので私が代理に出席していた。
会合しては引揚開始となったら、真っ先に学校関係から……そして荷物も出来るだけ多く持ち帰れるように陳情懇願しようなど、後から考えてみると全く甘い観測に酔っていたというべきである。たしか八月末か九月の初めと思う。その日は会合のある日で、私はいつもの通り起床した。その日に限って頭痛がひどい。おまけに目まいまでして歩けそうもない。やむなく無断で欠席してしまった。
その日の夕方隣りの原田さんの奥さんが、血相変えて飛び込んできた。
「先生いますか」
頭痛はおさまったがまだ床に入っていた。
「はいおります」
「まあよかった。先生今日は町を歩いている日本人の男はみんなソ連のトラックに乗せられて、どこかへ連れてゆかれました。家にいらっしてよかった」
思いがけないことを聞かされた。原田さんは言葉をついで「日本人狩りだからほとぼりのさめるまで外出しない方がいいですよ」 親切につけ加えてくれた。

 一日おいて会合のある日になった。いつもの通り一中の会議室へ行く。待てど暮らせど人一人現れない。十一時を大部すぎた頃、思いあまって近くの校長官舎へ立寄った。
「おととい会合に出かけたきり、まだ帰ってこないのです」
原田さんのいう日本人狩りに関連しているのではと思った。ずっとあとの話であるが、情報連絡が終って揃って一中の校門近くまで来たところヘソ連のトラックが通りかかり全員トラックに乗せられた。
勿論シベリヤ送りであった。危機一髪というところで思いがけない頭痛のため命びろいをした。これが奇跡の一回目である。
 二回目は終戦前々日だったか満州の疎開者が大挙平壤に流入してきた、私も三人受け入れた。隣の原田さんの家には軍属だという五~六才の女の子をもつ三人家族であった。
別に用事もないしまた炎暑のつづく毎日であったのでせめて風呂にでも入って引揚げをまとうというわけで毎日入浴していた。隣りの原田さんにはないので私の家のを利用していた。せめて薪でも割らせてほしいとの申出があった。二人の薪割りも日課の一つである。

 九月中旬のある日、例の通り私とならんで表庭で薪割りをしていた。どうしたわけか急に尿意を催したのでトイレに飛び込んだ。その前までは庭の隅ですませていたのに。
トイレに入って窓越しにみるともなしにみると赤衛軍の一人が何か二言三言、言葉を交わしてパンツ一枚の隣りの男を連行していった。私は用をすまして薪割をつづけた。夜になっても隣りの男は帰ってこない。風呂帰りのタオルと石鹸をもった浴衣姿の男まで……
日本人狩りにはうまくのがれた私ではあるがこの先どうなるのか?
早期引揚げを期待してその日その日を売り食いの生活であった。
秋も深まり平壤は十一月といえば内地の厳寒とかわりない零下十度から十四~五度のきびしさ三寒四温もあったものではない。

 十一月の中旬ソ連軍司令官よりの日本人世話会への通達と巷間のデマを要約すると、
「曽て軍人軍属であった者、又はそうでなくても内地に早く帰還したい者は申出ること」、
「ソ連軍は日本兵を捕虜として年内に敦賀へ送還する。これは日本より賠償金を取りたてるためである。」
「荷物は持てるだけ持たせる。」
 こんな噂さが流れはじめると、朝鮮側警察も協力的態度をとった。同僚の田原政四郎先生(陸軍伍長)は申出て一と足先に帰り家族の受入れ、再出発にそなえたいと申出に踏み切った。同僚貫名先生は私に相談。私は曽て兵事部が終戦と同時に兵籍名簿を焼却したということを聞いていた。家族のことを考えると幼ない子供が多いこと、妻一人にまかせることはあまりにも酷である。この点、貫名先生も同じ条件であった。そこで私は、どんなことがあっても家族と同一行動をとることに腹を決めた。貫名先生も私と同一歩調をとることにした。
 申出た人数が予想より少なかったのか旧町会を通して虱つぶしに軍籍にあった者軍属の者などの洗い出しにかかった。勿論私の家にもやってきた。
「あなたの出征を平壤駅へ見送りに行った記憶がある。」 朝鮮側の町会事務員はきめつけてきた。
「たしかに見送られたことはある。しかしあれは戦争が苛烈となっていつ配属将校を引揚げるかわからない情勢となった。そこで日本人の教員に軍事訓練を教育するために私は龍山の二十三部隊に入ったまでである。」 と頑張り通した。 十一月の下旬田原先生を平壤神社の広場で見送った。これもあとで判明したことであるが日本への送還ではなくこの一団もシベリア送りであった。田原先生はたしか二十三年の晩春シベリアから復員してきた。

                                        つづく


平壌市街図 赤色の地域が龍興(現在は龍興洞) 中央は大同江(Taedong gang)
拡大した龍興yongheun dong)
 
平壌神社
 
併合中の平壌市内電車