<ありがとうイノさん> 佐々木洋(現常任幹事)
突如3組幹事であった私に1組だった井上久嘉さん(以下、呼び慣れていた「イノさん」にします)からコンタクトがありました。「3組出身で慶応大学同期の松田健一君が亡くなったので遺児育英資金募集の輪を3組内に広げてほしい」という話です。私自身も、1972年4月に仙台に転勤した時に、いきなり東北放送のアナウンサーをしていた松田さんにブラウン管越しで会ってビックリして以来お目にかかれずにいたので、イノさんの申し出に一も二もなく賛成しました。しかし、同時に「そうか、小田高同期生間のお付き合いは3年生の時の在籍クラス内に限ったものではないのだ」という思いを強く感じたので、今度は私からイノさんに11期会を立ち上げることを提案。そしてそこから、イノさんの義兄でもある海野尚光さん(ナオちゃん)も巻き込んで、学年合同の11期会を立ち上げて、小田高卒業30周年記念行事をとり行うことにしました。
しかし、「11期会の立ち上げ」は、そんなに容易にできるものではありませんでした。第一に各クラスの代表を招集しようにも誰が代表か分かりません。なんとか招集できた第1回のクラス幹事会では、「おれ何組だっけ?」と口にする幹事もおられたほどです。それでも、会合を重ねるうちに、お互いに‴11期生同士の交流“が楽しめるようになり、競い合うようにしてクラス別名簿が整備されてきました。1989年3月6日に小田原市民会館で「小田高卒業30周年記念パーティー」を行う前の1年間は毎月イノさんが都度予約してくれていた「伊勢寿司」で準備委員会を開いており、それに参加すること自体が各クラス幹事の喜びとなっていたようです。卒業30周年記念パーティーの後には各クラス毎のクラス会が組まれており、ナオちゃん、イノさんと私の発起人トリオは各会場を巡って挨拶した後それぞれ7組、1組、3組のクラス会会場に戻って、今度はそれぞれの‴クラスメート間の交流“を存分に果たすことができました。3組はまだまだお元気だった府川一郎先生を中中心盛り上がっていましたが、私がお茶目っ気を出して携えて行ったパーティー会場の花を、当時はもう後藤姓となっていた柏木明枝さんが嬉しそうに受け取ってくことも鮮やかに覚えています。
その後、小田高卒業40周年記念行事を機に私は辻秀志兄(3組)に役割を譲り、代わって3組クラス幹事の役割を引き受けることとなりました。そのうちにナオちゃんも、会社の不祥事に巻き込まれる形となった挙句に早逝されたので、発起人トリオではイノさん一人が残って11期会活動を支える形になりました。ご家業での中国工場建設やロータリークラブでの活動をこなされる傍らで小田高同窓会本部「樫友会」でも活動され、交流委員会長として、現在11期会が例年自主講演会を行っているホームカミングデーを主催されたりもしています。そんなご多忙な中、常任幹事を今道周雄さん(4組)に引き継ぐまでイノさんが頑張ってくれたおかげで私たち11期生は今も、‴11期生同士の交流“と‴クラスメート間の交流“を楽しむことができているわけです。有難うイノさん、一時は途切れかけていた1組も、新しく幹事になった佐倉久隆さんと女性幹事役を務める柳澤(旧姓:小澤)肇子さんを中心に積極的に11期会活動の輪に加わっています。11期のみんなも「小田高11期生傘寿を祝う会」まで同期会活動を続けていこうと盛り上がってきています。イノさんの遺志でもある‴11期生同士の交流“と‴クラスメート間の交流“がどこまで達成できるのか天国から見守っていてください。 |