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井上久嘉氏追悼文集 
2018.09.21


井上久嘉氏追悼文集
 先日開かれた11期学年幹事会では、この7月4日に亡くなられた前々常任幹事の井上久嘉さんに対する追悼の意が強く個々の11期生の胸に残っていながら、Web11に追悼文が掲載されていないことについて発議がありました。いささか遅きに失した感がありますが、ここに歴代常任幹事が抱いている追悼の念を列挙して、改めてお悔やみを申し上げることにします。十分申し伝えできないところが多いと思いますので、どうぞ11期生の皆様の追悼の意を追加投稿の形でお加えいただければ幸いです。

<ホームカミングデー> 今道周雄(前常任幹事)
 井上さん、平成17年11月26日に11期幹事会が開かれ、その時に46年ぶりに顔を会わせましたね。当時井上さんは交流委員長だったと思います。11期生の同窓会費納入率が悪くて困ったと聴かされ、何とかしなくてはと思い、クラス幹事会を開くごとに会費納入を幹事さん方にお願いしたのですが、時には自分が納入を忘れてしまう事がありました。少しでも同期生の絆を強めようと吉田さんと一緒にメールマガジン「11期通信」をはじめたり、また、井上さんのイニシアチブで始まった「ホームカミングデー」を盛り上げるために、同期生による講演会を始めたりしました。
おかげで、毎年「ホームカミングデー」には、同期生が集まって懇親会を開き、交流を深めることが慣例になりました。
井上さんの茫洋としたお姿が見られなくなり、残念な限りです。ご冥福を祈ります。

<井上久嘉さんを偲んで> 太田充(現常任幹事)
井上久嘉さん、とうとう幽明境を異にしてしまいましたね。
井上さんとは小学校4年~6年時に同じクラスで学んだ仲でした。
小学校時代の井上さんで思い出すのは、小田原市の児童作品展で井上さんが書いた「さんま、さんま、さんまは美味い」で始まる詩が入選したことでした。「井上さんにこんな才能があったんだ」とビックリした記憶があります。
その後、中学、高校では一緒のクラスになることはなかったため親交も薄いものになってしまい、高校卒業後も私が小田原を離れたため親交はなくなりました。
が、平成14年頃、小学校時代の女性陣から水戸市在住の私に電話があり、小学校のクラス会幹事を引き受けてほしいとの依頼でクラス会を隔年ごとに開催するようになりました。井上さんは欠かさず出席していただき、親交が復活しました。
写真は、平成15年の小学校クラス会でカラオケを楽しむ井上さんです。
東北大震災直前に50数年ぶりに小田原に帰省しました。その後、平成26年から11期生の常任幹事を仰せつかり、同じく常任幹事の佐々木さんから11期生のこれまでの同窓会活動を知らされました。今日の11期生同窓会活動の礎を築いた一人が井上さんであり、小田高同窓会広報委員長や小田原市の会計監査まで務めているとのことでした。
あの温厚で口数の少ない井上さんの変身ぶりに驚かされたものです。
井上さんは常々「自分は生かされているんだ。」と話していましたが、その井上さんが今年7月4日に逝去されたことを、翌5日に山本哲照さんから知らされました。すべてを悟りきった井上さんですから、泰然として彼岸に渡ったものと確信しています。
心からご冥福をお祈りいたします。



<ありがとうイノさん> 佐々木洋(現常任幹事)

突如3組幹事であった私に1組だった井上久嘉さん(以下、呼び慣れていた「イノさん」にします)からコンタクトがありました。「3組出身で慶応大学同期の松田健一君が亡くなったので遺児育英資金募集の輪を3組内に広げてほしい」という話です。私自身も、1972年4月に仙台に転勤した時に、いきなり東北放送のアナウンサーをしていた松田さんにブラウン管越しで会ってビックリして以来お目にかかれずにいたので、イノさんの申し出に一も二もなく賛成しました。しかし、同時に「そうか、小田高同期生間のお付き合いは3年生の時の在籍クラス内に限ったものではないのだ」という思いを強く感じたので、今度は私からイノさんに11期会を立ち上げることを提案。そしてそこから、イノさんの義兄でもある海野尚光さん(ナオちゃん)も巻き込んで、学年合同の11期会を立ち上げて、小田高卒業30周年記念行事をとり行うことにしました。 

しかし、「11期会の立ち上げ」は、そんなに容易にできるものではありませんでした。第一に各クラスの代表を招集しようにも誰が代表か分かりません。なんとか招集できた第1回のクラス幹事会では、「おれ何組だっけ?」と口にする幹事もおられたほどです。それでも、会合を重ねるうちに、お互いに‴11期生同士の交流“が楽しめるようになり、競い合うようにしてクラス別名簿が整備されてきました。1989年3月6日に小田原市民会館で「小田高卒業30周年記念パーティー」を行う前の1年間は毎月イノさんが都度予約してくれていた「伊勢寿司」で準備委員会を開いており、それに参加すること自体が各クラス幹事の喜びとなっていたようです。卒業30周年記念パーティーの後には各クラス毎のクラス会が組まれており、ナオちゃん、イノさんと私の発起人トリオは各会場を巡って挨拶した後それぞれ7組、1組、3組のクラス会会場に戻って、今度はそれぞれの‴クラスメート間の交流“を存分に果たすことができました。3組はまだまだお元気だった府川一郎先生を中中心盛り上がっていましたが、私がお茶目っ気を出して携えて行ったパーティー会場の花を、当時はもう後藤姓となっていた柏木明枝さんが嬉しそうに受け取ってくことも鮮やかに覚えています。

その後、小田高卒業40周年記念行事を機に私は辻秀志兄(3組)に役割を譲り、代わって3組クラス幹事の役割を引き受けることとなりました。そのうちにナオちゃんも、会社の不祥事に巻き込まれる形となった挙句に早逝されたので、発起人トリオではイノさん一人が残って11期会活動を支える形になりました。ご家業での中国工場建設やロータリークラブでの活動をこなされる傍らで小田高同窓会本部「樫友会」でも活動され、交流委員会長として、現在11期会が例年自主講演会を行っているホームカミングデーを主催されたりもしています。そんなご多忙な中、常任幹事を今道周雄さん(4組)に引き継ぐまでイノさんが頑張ってくれたおかげで私たち11期生は今も、‴11期生同士の交流“と‴クラスメート間の交流“を楽しむことができているわけです。有難うイノさん、一時は途切れかけていた1組も、新しく幹事になった佐倉久隆さんと女性幹事役を務める柳澤(旧姓:小澤)肇子さんを中心に積極的に11期会活動の輪に加わっています。11期のみんなも「小田高11期生傘寿を祝う会」まで同期会活動を続けていこうと盛り上がってきています。イノさんの遺志でもある‴11期生同士の交流“と‴クラスメート間の交流“がどこまで達成できるのか天国から見守っていてください。