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 夜明けの素チャット
2015.03.20  佐々木 洋

 毎週水曜日には早朝5時過ぎに辻堂を発って、小田原の「和みの会」のラジオ体操に加わっています。「和みの会」は「戦争と平和を考えてみよう」http://odako11.net/kyounowadai/sensoutoheiwa.htmlでもご紹介している通り、御歳94歳の梅津忠雄さんが総指揮官で、梅津さんとのコンビでおよそ10年間にわたって「和みの会」を育ててきた浅田絢子さんが参謀総長格。そして、この浅田姐さんの参加を得てラジオ体操終了後に近くのファミレスで朝食会をするのが水曜夜明けの恒例行事になっています。集まるのは“元”少年“元”少女ばかりですが、皆さん気は“元”無し同然でありながら、交わされるチャット(おしゃべり)には“元”らしく滋味深いものがあります。そこで、こうしたやり取りの楽しさを一人占めしていてはバチが当たると思って、「夜明けの素チャット」シリーズとして都度皆さんにご紹介しようと思い立ちました。もちろん、このタイトルは由紀さおり「夜明けのスキャット」のモジリです。♪ルール―ルルルー♪と鼻歌を歌いながら軽くお読み流しください。


 Part -1-  チョッキ着る人がベストドレッサー?
 
 浅田絢子姐さんの発した「チョッキ」が話題の発端でした。たいして歳が違わないくせに、「それって死語ですよ。今は、チョッキがベスト、背広がスーツ、バンドがベルトになっているんだから…」と若ぶって言う私。すると今度は「そうそう、パンツなんて恥ずかしいことを人前で話してと思ったらズボンの事じゃないの」と“唱和” する誰か。こういうところは妙に素直な浅田ネ姐さん、黙って聞いていましたが、「でも、昭和言葉も良かったわね。ユモジだって、シタオビだって」と一言。これには昭和10-20年世代の一同、「えっ!?シタオビって、帯の下に巻くもの?」などなどと、突然の“昭和以前言葉”の出現に慌てふためいてしまいました。そこで、きっかけを作ってしまった私は、責任をとって一部始終を調べて以下のように纏めてみました。

 「チョッキ」の語源って何語なの?

 「ベスト」という言葉が広がる以前には、何も気にすることなく平気で「背広のチョッキ」、「毛糸のチョッキ」などと言っていましたが、改めて考えてみると、「チョッキ」という語感は日本語っぽくもなく、かと言って英語っぽくもありませんね。どうやらポルトガル語の”jaqueta”から来たようですが、“随分日本語なまり”して日本語化されていますね。英語でも”jack”ということもあるそうですが「チョッキなんてダサイ。ベストの方がカッコイイ」というので英語の”vest”の「ヴェ<ve>」を「ベ<be>」と“日本語なまり”して採り入れたんでしょうね。ですから、ベストを着ている人を見て”What a best dresser!”などとダジャレを言っても通じないと思いますよ。英語ではヴェ<ve>とベ<be>は全く違う音なのですから。なお、“昭和以前言葉”では「チャンチャンコ」が「チョッキ」に一番近い言葉ではないでしょうか。しかし、この言葉はシブトク生き残っているようです。還暦の時に着させられるのは「赤いチャンチャンコ」であって決して「赤いベスト」じゃありませんものね。

 ユモジもシャモジも同類項

 同じ“昭和以前言葉”の「シタオビ」は「下帯」で、インターネットには「肌に直接つける陰部を覆う布」というストレートすぎるような解説がありました。主に「ふんどし」を指す言葉だったのですが、ちょっとこれでは下品過ぎるというので、ご婦人用の場合などに「下帯」と言い換えられたもののようです。これが“昭和言葉”の「パンツ」になった(“平成言葉”ではなんて言うんだろ?)わけですが、「ふんどし」も「シタオビ」も「パンツ」も基本は“帯”だったんだと、妙なところで感心したりしています。一方の「ユモジ」については、「平安時代、御湯殿(宮中の風呂)に奉仕する女官が活動しやすいように袴の代わりに身に着けていた“湯巻”と呼ばれる白い巻きスカートのような衣服が起源とされる。 」というチョッピリ“学問的な”解説がありました。 更に「当時はあくまで袴の代用であり、下着と言う認識のものではなかった。 この白い腰巻は室町時代ごろに公家の女性の日常着となった。」という解説がありますから、徐々に袴の一種から肌着を示す言葉になって、下着の「コシマキ(腰巻)」と同じ意味で使われるようになったのは室町時代より後ということになりそうです。ついでに言うと 「××もじ」という言葉は室町時代あたりに使われた女房言葉であって、「かもじ(髢)」や「しゃもじ(杓子)」も「ゆもじ(湯巻)」と同類なのだとか。便利ですねえ、インターネットって。分からないことがあったら、インターネットに“相談”すれば、何でも(余計なことまでついでに)分かってしまうのですから。

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