岐阜提灯と小田原提灯
昭和38年に東芝の通信機事業部に入社して新人研修が始まった時に、隣に座った同期生の石山詢兄が岐阜の出身と聞き及んでいたので、「こちらが岐阜提灯で、私は小田原提灯」と、新人指導員であった潮江さんに対してボケをかましたことを思い出しました。毎週水曜日早朝恒例の朝食会で席が隣り合った亀山忠彦さんが岐阜のご出身と分かったからです。この亀山さんは、大変な博識家である上に、フットワークが軽く、あちこちを旅行されておられます。その上、ペンワークならぬ打キーワークも軽くて、A4判で81ページにも及ぶ「南仏旅行記」を書きあげておられます。しかも、この著作を秘めたものとされ続けているところは、イギリス、フランス、スイスの「“3カン”トリー」の「“トリ”ップ」を「ヨーロッパ三感トリップ」(http://h-sasaki.net/EuropeTrip.htm)と名づけて318枚の写真入りで仰々しくマイホームページに載せている私とは大違いです。お願いして贈っていただいた非公開の「南仏旅行記」の力作ぶりを拝観して、「岐阜提灯と小田原提灯との何たる違い!」と痛感しました。
えっ、小田原に“錦織”が!!
もともと“元お嬢様たち”は、テニスのテの字にも興味をお持ちでないはずなのに、最近は朝食会の席でも「錦織」の名前がちょくちょく話題になります。きっと、お孫さん世代の日本人の若者が世界の舞台で活躍をしているのを見て好もしく思われているからでしょう。そして、特に「錦織」の話題が盛り上がっていたある時に、普段は寡黙な岐阜提灯の亀山さんから「ところで皆さん、小田原に“錦織”神社があるということをご存じですか。最近ではパワースポットにもなっていて、北海道から来ている人もいるそうですよ。」という声がかかりました。「えっ、小田原に“錦織”が!!」というのが、朝食会に居合わせた“元お嬢様たち”と“元錦織世代青年たち”の一様の反応でした。もっとも、小田原の方の“錦織”は、神社があった相模の国の西郡(にしこおり)が音便変化したものであり、島根県出身の今をときめく錦織圭クンの方は、織り物を業としていた帰化人が帯していた姓なのではないかと、亀山さんは控えめにウンチクを傾けておられました。
“知ったかぶり”をしたかったのに
この日の「夜明けの素チャット」は、朝食会の後の小峰庭球場での八幡山テニスクラブの水曜練習会に引き続くことになりました。“生まれながらの小田原提灯”で、いっぱしの小田原通を自認していた私が、“生まれながらは岐阜提灯で新参小田原提灯”の亀山さんに生半可通ぶりを思い知らされた“腹いせ”を、テニスコートの場で、“現役小田原提灯”でしかも“錦織圭命”のテニス仲間の前で、“知ったかぶり”をして晴らしてやろうと思ったからです。そこでコートサイドにつくや開口一番、「ねえねえみんな、小田原に錦織神社があるってこと知ってた?」と声をかけたのですが、これにいち早く応えたのが八田迪男さんだったというのが誤算でした。なにしろ、この八田さん、小田原高校では私の後輩ですが、長年高校の先生をされていたこともあって知識の量は不肖の先輩を遥かに超えています。更に、都合の悪いことには「私は、その錦織神社の氏子なんですから」とのことで、逆に「佐々木さん、下田隼人という人物をご存知ですか」という質問をされ、これを調べるよう“八田先生”から宿題を出されてしまいました。私の方が“先”に“生”まれているのに。
大稲荷神社の境内社であった
我が出身の本町小学校のテリトリーは松原神社の縄張りだったので、城内小学校の学区にある「ダイナリさん」の名前を知ったのは城山中学校(私の入学時点では第一中学校、略称、一中)に進学してから後のことでした。“新参小田原提灯”の亀山さんと“純正小田原提灯”の八田さんの両方から「錦織神社はダイナリさんの中にある」と聞いていたのでカーナビに入力しようとしたところ、画面に現れたダイナリさんは、中学生時代以来無慮60年間思い込んできた「大成神社」ではなくて「大稲荷神社」でした。「“だいいなり”の“い”を省略するからいけないいんだ。城内小学校卒業勢ももっときちんと発音してくれなくちゃ」と、自分の小田原生半可通ぶりを棚に上げて、今は三の丸小学校に統合されて同じ小学校同窓生となっている連中に対するウラミツラミを抱きながら臨んだ大稲荷神社は下左の写真の通りで、錦織神社は下右の写真のような神社というより祠のような形をしており、ここでは愛宕神社とともに境内社として位置づけられているということが分かりました。
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