「鉾」 は、車輪の直径が1.9メートルもあって、巡行時の重量は8.5-12トン、高さが地上から屋根まで8メートル、鉾頭まで25メートルで、囃子舞台に 40-50人もの囃子方が乗り込んで、巡行に当たって綱を曳く“曳子”役が40-50人を擁するという巨体ぶり。「山」の方も、重量0.5-1トンで“舁 方”が14-24人必要だそうです。
このようにデカキレイ(デカイだけでなくてキレイ)な山鉾が、次々と四条通~河原町通を巡行する「山鉾巡行」が祇園祭の最大の見どころの一つなのだそうで すが、さもありなんと思い、浅田の姐さんがついつい浮かれて、京都で場違いにも♪箱根の山は天下の剣…♪を歌いだした気持ちがわかるような気がしました。
さて問題の「函谷鉾」は、並み居るデカキレイの山鉾の中でも、鉾櫓、屋根の規模がデカイうえに、応仁の乱(1467-1477)以前に起源をもつという “由緒”があるだけに、“くじ取らずの鉾”とされ、鉾では長刀鉾に次いで第二番目に巡行することになっているといいますから、“永久第二シード”といった ところでしょう。大きな鉾で、応仁の乱以前から曳かれた歴史ある鉾だそうです。そして、この「函谷鉾」の名前は、中国戦国時代(前403-221)に、秦 の昭王に招かれて宰相となったが、讒言によって陥れられ、深夜に国を脱出して、函谷関まで逃げた斉の孟嘗君(もうしょうくん)の故事にちなむものなのだと か。孟嘗君は、朝になって鶏が鳴かねば開かない函谷関を通るに通れず立ち往生。そこで家来に鶏の鳴声をまねさせたところ辺りの鶏がそれに加わって刻を作っ たので函谷関を通過できたという。函谷鉾の鉾頭の三日月と山形が山中の闇をあらわし、真木の上端近くには孟嘗君、その下に雌雄の鶏が祀られているのだそう です。鉾は数々の工芸品・染織品で飾られていて、中国の故事とは全く関係のない旧約聖書の創世記の場面を描いた16世紀の毛綴の前懸まであって重要文化財 に指定されているそうですから、こんな「函谷鉾」を作った京都の人々の博学ぶりは「箱根八里」で「函谷関」入りの作詞をした♪鳥居忱先生も物ならず♪と いったところでしょうか。
四条通烏丸西入ルに「函谷鉾町」という町があり、函谷鉾はこの町の出し物(山車物?)だということも初めて知りました。応仁の乱の後一度途絶えた祇園祭が 復興したのは町方の団結によるものであり、「山町鉾町」と呼ばれる組織(山鉾の保存会)が明応9年(1500年)頃にできあがってから、現在も祇園祭の 山鉾は各町で維持保存され、町が祭を支えている形になっているそうです。一般に、京都と言えば、「公家や寺社の文化の地」とされがちですが、こと祇園祭に ついては、室町幕府が神事停止を命じた際に「神事これなくとも、山鉾渡したし」と申し出たほどの、町衆たちの熱意があったからこそ「町人の文化」として根 付いたようですね。現在も山町鉾町の人々の熱意に支えられて、山鉾は保存され古くからのしきたりが守られているのだそうです。京都の町人は、博学であるだ けでなく、熱意があり、その上かなりお金持だったようですね。 |