一 般



夜明けの素チャット
2015.08.17  佐々木 洋

Part -6-  カンコクカンとカンコボコ

 毎週 水曜日早朝ラジオ体操後恒例の朝食会の会場「ガスト」に入るや否や、「和みの会」副将格の浅田の姐さんが、開口一番「佐々木さん、博学だからお聞きするん だけど・・・」と一言。「えっ、その“ハクなんとか”っていうの全然聞こえないんですけど…」と応ずる私。すると、「じゃ、浅学だってなんだって良いわ よ。浅いったって、踝(くるぶし)まで浸かるのから腰まで浸るのまであるんだから」とあまりよくわからないことを独りごちてから、やおら「あのね♪箱根の 山は天下の剣♪ていう歌あるでしょ、その中の、えーとなんだっけ…」に続いて歌い出し、「♪…カンコクカンもものならず♪…。そうそう、このカンコクカ ンってどういう意味なの?」、更に続いて「♪イップカンに当たるや♪のイップカンも分からないのよ。教えてくれない?」との“ご下問”がくだされました。


 そこで何事も中途半端に理解してことを済ませるのが得意の私は返答に大弱り。取りあえず思いつきのでまかせで「“カンコクカン”は“函谷関” で中国の高い山の名前じゃないかな。そして、“カンコクカンもものならず”は“函谷関”なんて問題にならない”っていう意味。“イップカン”は“一夫関” じゃ…ないのか…なあ」とボソボソ。さすが浅学の者は頼り甲斐なしと見て、これ以上質問してもムダと悟られたのか浅田の姐さん、話を転じて「祇園祭に行っ た時にカンコボコというのがあって字を見たら“函谷鉾”だったので、“わあ、箱根とおんなじだ!”ってんで、みんなで歌っちゃたわよ。京都で場違いだった けど、♪箱根の山は天下の剣…♪って。でも、函谷鉾って函谷関と関係あるのかなあ?」と今度は完全に独白調です。「じぇじぇじぇ(古い!)、函谷鉾!? まったく初耳で、思いつきのでまかせの一言もでやしないや、こりゃ」と舌と尻尾を巻きながら、また得意技の“聞こえないふり”を決め込んでその場を凌ぎま した。

 しか し心中は穏やかではなく、「踝までの深さもないじゃないか!」と我が浅学ぶりを思い知らされ呆れてしまいました。小田原出身でありながら、幼い頃から、わ けも分からずに♪カンコクカンもものならず♪なんて歌い続けてきたのですから。そこで、家に戻るや「せめて踝の浅さまで」と思って早速ネットサーフィン。 しかし、「函谷関」と「函谷鉾」の世界は、踝どころかとても私の短い脚ではとても届かぬ深いところにありました。先ずは♪箱根の山は天下の剣♪の歌の名前 が思い込んでいた「箱根山」ではなくて「箱根八里」でした。そしてその「八里」とは、旧東海道小田原宿から箱根宿までの四と箱根宿から三島宿までの四里をあわせたものなのだとか。「へえー、だけどそんなこと聞いてなかったもんね」と例のように“聞こえなかったふり”で済まそうとしたところに、心の耳に♪箱根八里は馬でも越すがこすにこされぬ大井川♪という歌声が聞こえてきました。まぎれもなく「箱根馬子唄」の一節です。しかもこの歌は神奈川民謡。実際に幼い頃から何度も耳にしていて、この一節を聞いて、箱 根が大井川と並んで東海道の難所中の難所だったということを教えられてきたのでした。ひょっとすると、“聞こえないふり”をし続けているうちに私の耳は すっかり節穴になってしまっていたのかもしれません。更に、「箱根八里」の方は、「箱根馬子唄」が神奈川民謡であるのに対して、1901年(明治34年) 発行の「中学唱歌」に掲載されて以来歌い継がれてきた堂々たる全国区の歌だということが分かりました。作曲は瀧廉太郎ですが作詞は鳥居忱(まこと)とあり ます。そして、この鳥居忱先生が大変な博学家で、漢籍にみられる故事古典歴史に由来する事項を数多く「箱根八里」に盛り込んだのだそうです。道理で、浅学な私には漢籍などチンプンカンプン(珍文漢文)で分からなかったはずです。


 さて問題の「函谷関」とは、「中国の長安と洛陽の間、長安のある漢中の地への入り 口を扼する関所」のことだと分かりました。「なんだ、“高い山の名前”じゃなくて関所だったのかよ。するて―と、“函谷”が地名なんだな」と思いついた私 は更に念入りにネットサーフィン。すると、右の写真が見つかって、「函関古道実景…東 側から西を見ています。道が“函(はこ)”の底にある感じです。」というキャプションが付いていました。「ほうら見てごらんなさい。博学な鳥居忱先生が♪ 箱根の関は♪としないで♪箱根の山は♪として「函谷関」と比べたものだから、浅学な私が山の名前と間違っちゃったじゃありませんか。因みに、峡谷の壁は 「関壇」と呼ばれていて、高さ9m、南北25m、東西20mあり、この壇の上に二層建ての楼閣があるのだそうです。そして、壇の下の通路は幅4m、高さ 7mで、これが洛陽から長安に向かう古代の重要な通路だったのだとか。  

 それじゃ“イップカン”の方はどうかというと、♪一夫関に当るや万夫も開くなし ♪の意味は、「一人の兵士が関所を守れば、一万人が攻め寄せても破られない、守りの堅いことをいう。」のだそうです。鳥居忱先生は、李白の詩「蜀道難」か らこの一節をとったのだとか。まったくもう“度し難い”博学ぶりですね。  

 一方、「函谷鉾」についてもインターネットにたくさん記事が載っていて右のような 写真も見つかりました。ある解説に「カンコボコとも呼ぶ」とありましたので、浅田の姐さんが聞き間違えたのではないということが分かりました。ところで、 「鉾」って何だろう?浅学の私は「鉾」と言えば「蒲鉾」しか知りません。そこで今度は「広辞苑」で「鉾」を引いてみると「山鉾の略」とあり、「山鉾」には 「山車(だし)の一種。屋台の上に〝山“の形などの造物があって、その上に“鉾”・薙刀などを立てたもの」とありました。しかし、更に調べてみると「鉾」 とは別に「山」があり、「鉾」は車輪がついていて“曳子”が曳(ひ)くもの、「山」は(少数の“曳山”を除いて)“舁子”が担(かつ)ぐものだと分かりま した。「なーんだ、幼少のころ小田原のお祭りで曳いた屋台と担いだお神輿とおんなじじゃないか」と一瞬思ったのですが、それぞれ豪華絢爛で図体のデカイ 様々な「鉾」と「山」の写真を見て、すぐにこの「なーんだ」を撤回しました。  

 「鉾」 は、車輪の直径が1.9メートルもあって、巡行時の重量は8.5-12トン、高さが地上から屋根まで8メートル、鉾頭まで25メートルで、囃子舞台に 40-50人もの囃子方が乗り込んで、巡行に当たって綱を曳く“曳子”役が40-50人を擁するという巨体ぶり。「山」の方も、重量0.5-1トンで“舁 方”が14-24人必要だそうです。
このようにデカキレイ(デカイだけでなくてキレイ)な山鉾が、次々と四条通~河原町通を巡行する「山鉾巡行」が祇園祭の最大の見どころの一つなのだそうで すが、さもありなんと思い、浅田の姐さんがついつい浮かれて、京都で場違いにも♪箱根の山は天下の剣…♪を歌いだした気持ちがわかるような気がしました。

  さて問題の「函谷鉾」は、並み居るデカキレイの山鉾の中でも、鉾櫓、屋根の規模がデカイうえに、応仁の乱(1467-1477)以前に起源をもつという “由緒”があるだけに、“くじ取らずの鉾”とされ、鉾では長刀鉾に次いで第二番目に巡行することになっているといいますから、“永久第二シード”といった ところでしょう。大きな鉾で、応仁の乱以前から曳かれた歴史ある鉾だそうです。そして、この「函谷鉾」の名前は、中国戦国時代(前403-221)に、秦 の昭王に招かれて宰相となったが、讒言によって陥れられ、深夜に国を脱出して、函谷関まで逃げた斉の孟嘗君(もうしょうくん)の故事にちなむものなのだと か。孟嘗君は、朝になって鶏が鳴かねば開かない函谷関を通るに通れず立ち往生。そこで家来に鶏の鳴声をまねさせたところ辺りの鶏がそれに加わって刻を作っ たので函谷関を通過できたという。函谷鉾の鉾頭の三日月と山形が山中の闇をあらわし、真木の上端近くには孟嘗君、その下に雌雄の鶏が祀られているのだそう です。鉾は数々の工芸品・染織品で飾られていて、中国の故事とは全く関係のない旧約聖書の創世記の場面を描いた16世紀の毛綴の前懸まであって重要文化財 に指定されているそうですから、こんな「函谷鉾」を作った京都の人々の博学ぶりは「箱根八里」で「函谷関」入りの作詞をした♪鳥居忱先生も物ならず♪と いったところでしょうか。

  四条通烏丸西入ルに「函谷鉾町」という町があり、函谷鉾はこの町の出し物(山車物?)だということも初めて知りました。応仁の乱の後一度途絶えた祇園祭が 復興したのは町方の団結によるものであり、「山町鉾町」と呼ばれる組織(山鉾の保存会)が明応9年(1500年)頃にできあがってから、現在も祇園祭の 山鉾は各町で維持保存され、町が祭を支えている形になっているそうです。一般に、京都と言えば、「公家や寺社の文化の地」とされがちですが、こと祇園祭に ついては、室町幕府が神事停止を命じた際に「神事これなくとも、山鉾渡したし」と申し出たほどの、町衆たちの熱意があったからこそ「町人の文化」として根 付いたようですね。現在も山町鉾町の人々の熱意に支えられて、山鉾は保存され古くからのしきたりが守られているのだそうです。京都の町人は、博学であるだ けでなく、熱意があり、その上かなりお金持だったようですね。

 しかし、「箱根八里」で箱根の山の険しさを“函谷”と比べたのはまだしも、「な ぜ京都に“函谷鉾”なのだ」という疑問が残ります。そこでゲスのカングリをしてみました。つまり、京都に来ていた往時の中国人が、山鉾を作ろうとしていた 京都の人々に〝入れ知恵“をしたのではないだろうかという説です。なにしろ中国語には「鶏鳴狗盗(けいめいくとう)」という四字熟語ができていて、孟嘗君が部下にニワトリの鳴きまねをさせて天下の険”函谷関を開かせて無事脱出したという故事が「鶏鳴」として取り込まれています。要するに函 谷関」は、それほど博学でもない中国人にも知れ渡っていたものと思われます。しかも、函谷関には“箱根の関も物ならず”で、奥深い山中にあるにもかかわら ず、右上の写真のような立派な建屋があります。「この建屋のイメージをとりいれ孟嘗君の故事来歴を絡ませた山鉾を作れば、当時の先進国であった中国からの “舶来もの”として訴求できるのではないか」と京都の人はほくそ笑んだのではないかと、右下の写真の“函谷鉾”を見ながらコジ(故事)付けて見たのですが 如何なものでしょうか。

 

 
 

 ちなみに「鶏鳴狗盗」の方は、孟嘗君が、秦の昭王に捕らえられたとき、王の妾にとりなしを頼んだところ謝礼として狐の毛皮(狐白裘:こはくきゅう)を要求されたので、イヌのように盗みの うまい部下にこれを盗ませ寵姫に献上して難を逃れることができたという故事によるものでこれも孟嘗君がらみ。鶏鳴狗盗は「広辞苑」にも載っている中国伝来 の日本語四字熟語で、「物まねやコソ泥のようなくだらない技能の持ち主」と「くだらない技能でも役に立つことがあるたとえ」という両意が添えられていま す。いずれにしても、これも初耳初目でした。浅田の姐さんのご下問のお陰で随分勉強させてもらいました。これでも精々膝くらいの浅さなのでしょうが、アッ プアップと溺れそうになりながら数々の初耳初目との出遭いを楽しませてもらいました。

 


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