小田原は“最後の空襲”を受けていた |
飯田先生のお話しの後でDVD「小田原にも空襲があった」が上映されました。空襲は、グアム及びテニアン島の米軍基地から飛来してくる爆撃機B29、硫黄島空軍基地発の戦闘機ムスタングと、日本近海の空母から発進されるグラマンによって行われたので上空到達に“時差”が生じ、しかも富士山や箱根山を目標として飛来してからコース取りをする飛行機が多かったため、小田原では空襲警報が鳴り続け市民は頭上を通過する銀色の機体に脅え恐怖に震えさせられ続けていたようです。
そして、1945年2月16・17日に始まって7月後半~8月にかけて小田原は小型機による空襲を毎日のように受けることになるのですが、8月13日の湯浅電池小田原工場で13名、隣接の多古地区防空壕直撃による13名、新玉国民学校での3名の計29名の死亡者が出たのが小田原地区での小型機空襲による最大の人的被害とされているようです。 |
一方、大型機B29による日本本土空襲は、1944年11月から敗戦までの9ヶ月間絶え間なく続けられ、地方都市を含めた約120都市が大きな被害を受けたのですが、小田原はB29による空襲候補地「180都市リスト」の96番目であったため、“計画的な”小田原への空襲が行われる前に敗戦になったのだそうです。しかし、終戦の日(8月15日)の前日に埼玉県の伊勢崎と熊谷を空襲したB29のうちの1機が帰路に浜町と本町に焼夷弾を投下したために小田原市は被災し、400件近い家屋の全焼12名の死者を出すことになってしまいました。右の写真は“最後の空襲”の数少ない証拠写真とされるものですが、焼け落ちた古清水旅館の後方に被災した市街地が見えます。私にも小田原上空が赤く染まって見えたかすかな記憶が残っています。 |
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日本の無条件降伏を迫るポツダム宣言について前日(8月14日)の昼ごろ御前会議で受諾を決定し、同夜11時スイス政府を通じて連合国側に通告していたにもかかわらず、投下せずに終わった爆弾を積みながらグアム島の米軍基地に着陸するのを危険と見て身軽になるために“行きがけの駄賃”とばかりに帰り際のB29が小田原で焼夷弾を投下したために起こった「小田原空襲」は“無計画”のものであったので米軍の「作戦任務報告書」に記録されていないそうです。お陰で、この“太平洋戦争最後の空襲”によって小田原市民は、“8月15日”正午に、煙くすぶる焼け跡で敗戦を告げる「玉音放送」を聞くことになってしまいました。 |