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 「8月15日」に当たって思うこと

2014.08.16 3組 佐々木 洋


さすが平和宣言都市・小田原

 8月10日(日)小田原お堀端の「音羽プラ―ザ」2階大ホールで開かれた「8月15日を考える会2014年のつどい…時空を超えて語り継ごう『戦争』と『平和』を」に参加してきました。小田原のラジオ体操サークル「和みの会」で「梅津さんの戦争体験を聴く会」(2014/1/25:於、「音羽」)を企画実施した際にお世話になった小田原市会議員の植田理都子さんから「8月15日を考える会」をご紹介いただいたのがきっかけでした(「戦争と平和を考えてみよう」http://odako11.net/kyounowadai/sensoutoheiwa.html参照)。植田さんが小田高同窓生でしかも同じ3年3組卒業で私より“遥かに”後輩であることは、後になってFacebookで知りました。
 更にFacebookつながりでお知り合いになった今回のイベントの呼びかけ人中の重鎮である松本茂さんや佐々木ナオミさんや、一昨年の「小田原の心を届けるプロジェクト」で東日本大震災被災地(相馬市と南相馬市)訪問をともにさせていただいた加藤憲一市長と市議の鈴木敦子さんも参加される“小田原市あげてのイベント”です。「さすが平和宣言都市!小田原」と思わせる熱気が伝わったのか、当日は中国地方を北上中の台風11号によって低気圧前線が刺激され、各地に荒天の予報が出されていて、開催が危ぶまれていたにもかかわらず「音羽プラ―ザ」への来場者は引きも切らず、事務局の方が他室から椅子を借りまくって慌しく準備に当たられていました。

事実が語る戦争の悲惨さと愚かしさ

 70枚余りのスライドを使いながら講演された飯田耀子先生は、「戦時下の小田原地方を記録する会」の代表をされていて「語り伝えよう小田原の戦争体験」や「撃ちぬかれた本」などの図書を編集出版されています。そして、お話しによると、本町国民学校のご卒業とのことだから、こちらは小田原市立本町小学校(現在は三の丸小学校)卒の私より“僅かに”先輩ということになります。しかし、呂律が回らなくなってぼそぼそ口調になってきた私と違って、音声明瞭で声にも張りがあってとても聴き取りやすいお話でした。やはり、史実を集めて記録しながら張りのある日々を過ごされているからなのでしょうか。しかも、丁寧に集められた写真や資料について解説を加えられるだけで、殊更ご自分の意見や感想を差し挟もうとされず淡々とお話しになるので、逆にそれだけ説得力があって戦争の悲惨さや愚かしさが心に伝わってきました。「私たちの生活の場も戦場と同じであった」と語られ、「戦争を直接体験することだけが“戦争体験”ではなく、当時日本とその支配領域に生きていた普通の人々が何らかの形で戦争にかかわっていたということを“知る”ことがまず必要」と述べられる通りで、飯田先生の示されたスライドと語りを通じて満州事変(1931年-)から日中戦争(支那事変)(1937年-)、 アジア太平洋戦争(大東亜戦争・第二次世界大戦)(1941-1945年)に続く「15年戦争」戦争が社会全体に与えた影響や傷跡の深さについて学ぶことができました。

富国強兵」なれど「強兵富国」ならず

 「富国強兵」で国が豊かならば強い軍事力をもつことができますが、戦争に勝利して豊かな戦利を得ない限り「強兵富国」ということにはなりません。軍事力強化のために投じられる資金は一切付加価値を生産しませんから、国の経済は疲弊して逆に「強兵貧国」となって国民は貧困生活を強いられることになります。この「強兵貧国」の傾向が戦時中に集中的に現れたということが飯田先生のお話しの中に示されていました。若者たちが「召集令状」によって工場や農場から戦場に送りこまれることによって生産人口が減少し、食糧や日常必需品の供給量が一気に低下したために「配給手帳」による流通制限政策がとられ、国民が「欲しがりません勝つまでは」という意識をすりこまれた上で延々と続く耐乏生活をすることを強いられていたことは私たちの記憶にも残っているところです。飯田先生の写真には、小田原ゆかりの二宮金次郎の像が全国の校庭から撤収されたり、小田原のお堀にかけられた橋の欄干に取り付けられていた擬宝珠まで取り去られたりしている光景も写しだされていました。金属資源の乏しい日本としては苦肉の策だったのでしょうが、家庭や学校、市街から金属類が撤収され、武器や弾丸にするために溶解されていたのですから、当時の為政者の頭にあったのは「強兵」ばかりであって、日本は物質面ばかりでなく精神的にも恐ろしいほどの「貧国」になり下がっていたということが分かります。

「授業を全く行わない」学校に

 更に「強兵」が進むと、労働力不足を補う方策として「学徒勤労動員」が行われ、特に42年後半頃から太平洋戦争の戦況が悪化し、軍事力を誇る米軍の圧倒的攻勢にさらされるようになると軍需工場などへの勤労動員が強化され、1944年4月以降は学校での授業を全く行わない長期間にわたる勤労動員「通年動員」の状態に立ち至ったのだそうです。県立小田原高等女子学校(現在は小田高と合併した神奈川県立城内高校の前身)に通っておられた上のお姉様は日新工業小田原工場で海軍爆撃機「銀河」の機体製造、下のお姉さまは小田原製紙で風船爆弾用和紙製造にそれぞれ携わっていたというお話を飯田先生はされていました。小田原市より遥かに軍需工場が多くてそれだけ空襲被害が大きかったという平塚市について、他人事のように「さくら狩人・湘南桜錯乱物語Part 7 平塚市総合公園」http://odako11.net/Happyou/happyou_sasaki_4.htmlの中に「桜の楽園と化した海軍火薬廠」という小見出しの文章を載せていますが、実は、我らが小田高(当時は神奈川県立小田原中学)からもこの平塚第二海軍火薬廠に勤労動員されていた先輩がおられたということを初めて知りました。

徹底していた「非国民」 洗脳教育
 「召集令状」を受けて戦地に赴く出征兵士の見送りが頻繁に送られていた小田原駅前(下写真左)は、戦死した兵士の無言の帰郷を迎える場(下写真右)ともなっていたようです。しかし、戦況の悪化に伴って逃げまどうのが精一杯となって戦友の遺骨を収集することが難しくなってくると、空っぽの白木の箱だけが遺族のもとに送り返されてくることも珍しくなくなっていたようです。愛する家族の無言の帰還を迎える遺族の胸中は如何ばかりだったかと思うと胸が痛むのですが、遺族のお一人が言われているように「その時は泣くと“非国民”といわれるのでじっと我慢していました」というような洗脳教育が行われていたのですから恐ろしいことです。
 
 

 DVD上映に次ぐ意見交換会で、依然として行われている遺骨収集活動を支援されているという千葉県から来られた女性は「日本軍玉砕の地となったグアム島とサイパン島には未だ日本に帰れずにいる遺骨が残されており、しかもDNA鑑定ができないほどに風化してしまっている」と述べられ「こんな状態ではまだ“戦争は終わった”ということはできません。それなのに、集団的自衛権行使容認などによって、日本を“いつか来た道”を歩ませようとしている政治家たちを許すことができません」と声を詰まらせながら語っておられました。

「子どもは小さな戦士」とされていた

 更に、戦線が拡大していくと、生産人口だけでなく兵員不足が問題になってきました。そこで政府は働く人間と兵隊にするための人間を増やすために、国民に対して“産めや増やせや”と何人でも子供を作るよう推奨するようになりました。このような政府の方針に対しても律儀であった「律儀者の子沢山」の家庭が増え、6-7人の兄弟姉妹がいるということもザラにあることでした。元小田原市長のお名前が鈴木「十郎」であったのもその名残であったのでしょうし、私たちの小中学校の同期生の中にも「八郎」という名の友達もいました。「少子化」現象が顕著になった現在でも「子供は国の宝」と言われ始めていますが、戦時中は“軍事用人材としての宝”でしかなかったわけです。飯田先生の「子どもは小さな戦士」とされていたとお話を聞き、実際に城内国民学校(後の城内小学校。現在は本町小学校と合併し小田原市立三の丸小学校になっている)で行われていた「学童軍事訓練」の行われていた模様を写し出す写真を目にして、戦時においては、産児・育児という人間としてごく自然な行為に対する考え方さえ歪められ“まともではない考え方”が罷り通ってしまうようになるのだとつくづく思いました。図書「撃ちぬかれた本」には我が小田高3年3組同期の望月郁文君のご両親(望月正道・光さん)も登場していて、ご自分たちが立ちあげられた日の丸戦時保育園のような「戦時保育園は“国”も奨励しました」と述べられています。また、戦時には「学童集団疎開」なども頻りに行われていましたが、“まともな考え方”ができなくなってしまっていた“国”の当事者にとっては、子供ももはや“愛児”の対象ではなく、“強兵”につながる「小さな戦士」でしかなかったのではないかと思うと辛い思いがしてきます。

小田原は“最後の空襲”を受けていた
  飯田先生のお話しの後でDVD「小田原にも空襲があった」が上映されました。空襲は、グアム及びテニアン島の米軍基地から飛来してくる爆撃機B29、硫黄島空軍基地発の戦闘機ムスタングと、日本近海の空母から発進されるグラマンによって行われたので上空到達に“時差”が生じ、しかも富士山や箱根山を目標として飛来してからコース取りをする飛行機が多かったため、小田原では空襲警報が鳴り続け市民は頭上を通過する銀色の機体に脅え恐怖に震えさせられ続けていたようです。
 そして、1945年2月16・17日に始まって7月後半~8月にかけて小田原は小型機による空襲を毎日のように受けることになるのですが、8月13日の湯浅電池小田原工場で13名、隣接の多古地区防空壕直撃による13名、新玉国民学校での3名の計29名の死亡者が出たのが小田原地区での小型機空襲による最大の人的被害とされているようです。
 一方、大型機B29による日本本土空襲は、1944年11月から敗戦までの9ヶ月間絶え間なく続けられ、地方都市を含めた約120都市が大きな被害を受けたのですが、小田原はB29による空襲候補地「180都市リスト」の96番目であったため、“計画的な”小田原への空襲が行われる前に敗戦になったのだそうです。しかし、終戦の日(8月15日)の前日に埼玉県の伊勢崎と熊谷を空襲したB29のうちの1機が帰路に浜町と本町に焼夷弾を投下したために小田原市は被災し、400件近い家屋の全焼12名の死者を出すことになってしまいました。右の写真は“最後の空襲”の数少ない証拠写真とされるものですが、焼け落ちた古清水旅館の後方に被災した市街地が見えます。私にも小田原上空が赤く染まって見えたかすかな記憶が残っています。
 日本の無条件降伏を迫るポツダム宣言について前日(8月14日)の昼ごろ御前会議で受諾を決定し、同夜11時スイス政府を通じて連合国側に通告していたにもかかわらず、投下せずに終わった爆弾を積みながらグアム島の米軍基地に着陸するのを危険と見て身軽になるために“行きがけの駄賃”とばかりに帰り際のB29が小田原で焼夷弾を投下したために起こった「小田原空襲」は“無計画”のものであったので米軍の「作戦任務報告書」に記録されていないそうです。お陰で、この“太平洋戦争最後の空襲”によって小田原市民は、“8月15日”正午に、煙くすぶる焼け跡で敗戦を告げる「玉音放送」を聞くことになってしまいました。

「語り継ぐ」のWhoとHowが重要

 最後のセッションの「意見交換会」では、埼玉や長野などから馳せ参じられたゲストの方々が、それぞれ声涙ともに下る戦争体験談も語っておられました。あまりの生々しさや悲しみに涙をこらえることができず、ハンカチを目に充てて当てておられる聴衆の姿も目立ち、人一倍心の熱い松本茂さんも、呼びかけ人代表としてされた締めのご挨拶で声を詰まらせておられました。私もご多分にもれず涙にくれていましたが、一方で、このイベントのタイトル「語り継ごう『戦争』と『平和』を」の中の「語り継ぐ」ことがこれでできるのだろうかという冷めた考えにとらわれていました。ここに参集した人々は、多かれ少なかれ「既に語り継がれていて、更に語り継がれることを望んでいる」人たちばかりではないか。このように「語り継ぎ合う」機会も持つことも貴重だが、こればかりでは自己満足に終わってしまいがちなので、寧ろ「戦争と平和」論を異にする人たちや無関心な人たちに対して「語り継ぐ」機会を持つことがより重要なのではないかという思いでした。そして、参会者のうちの誰(Who)がどのように(How) 「語り継ぐ」のか具体的に考え方を固めなければ前進することができないと思って、次のようなことを考えてみました。

インターネットによるミニコミの限界

 中国で市民デモが盛り上がったのは意見の同調者がインターネットを通じて集結したからだと聞いて、私もブログ「浮世風呂愚」http://blogs.yahoo.co.jp/daihenjin2000/MYBLOG/yblog.html?m=lを立ちあげて投稿を重ねたのですが、思うような同調者が得られませんでした。さればと、気心の知れた小田高同期生のホームページならばと思い直して、上記の「戦争と平和を考えてみよう」http://odako11.net/kyounowadai/sensoutoheiwa.html、「平和憲法記念日に思う」http://www.odako11.net/tubuyaki/tubuyaki_sasaki_2.html、「“お坊ちゃま”の“お坊ちゃま”による “お坊ちゃま”のための日本の政治」http://odako11.net/kokunai/kokunai_sasaki_3.htmlを載せて同期生からの同調投稿を待ったのですが、なかなか思わしい反応が得られず、逆に宇佐美ミサ子さんが冒頭の呼びかけ人代表のご挨拶の中で指弾されていたような“普通の国(戦争のできる国)”志向の記事投稿が相次ぎ、私は疎外感を味あわされてしまいました。要するにホームページやブログなどのミニコミには“読みたいと思う記事だけ読む”傾向が顕著で、その点では、“戦争体験を聞きたい人だけが集まる”「8月15日を考える会」のイベントと大差がないように思えます。もし、インターネットによるミニコミを主要媒体としていくのなら、例えば、“同志”の中で多用されているFacebookでのやり取りを何らか目立つ形で集大成してマスメディアの注目を得ることによって、“同志”以外の「戦争と平和」論を異にする人たちや無関心な人たちにも読んでもらえるようにするような工夫がなんとしても必要だと思います。

日本は「特別な国」なのだ

 しかし、私が味あわされていた疎外感は、吉田龍夫さん(通称:タッちゃん)が「暑中見舞いに代えまして」の中に書かれている「戦争と平和」論http://odako11.net/tubuyaki/tubuyaki_tatsu_1.htmlによって一掃されました。“普通の国(戦争のできる国)”志向論者が、基本的に「人間とは戦争せざるを得ないものだ」という「戦争と平和」論に基づいているのに対して、タッちゃんがベランメー口調交じりで述べている「絶対平和主義」は、「平和憲法がなければ日本人として生きる価値がない」という志の高い見識に基づくものだと思います。そういう意味では、宇佐美ミサ子さんが“ついでに”発言されていた「私たち市民は”普通の国”で暮らしているのに…」という一言の中の”普通”という言葉はふさわしくなくて、「私たちは世界でただ一つ戦争放棄をした“特別な”国で暮らしている」という自覚と誇りをもって、加藤憲一市長が飯田先生の講話に先立つご挨拶の中で示唆されていたように「平和憲法を守るだけでなく世界の平和を“創る”」方向に力強く踏み出す必要があるのではないかと思います。

世界に語り継ごう『戦争』と『平和』

 私の頭のなかを去来していたのは「戦争を直接体験することだけが“戦争体験”ではない」とともに「戦争による被害だけが“戦争体験”ではないのではないか」という考えでした。確かに、日本は、アジア太平洋戦争における軍人・軍属の死亡者約230万人、外地で死亡した民間人約30万人、内地の戦災死亡者約50万人で計310万人の死者を出すという被害を受けました。小田原市も主にアジア太平洋戦争で戦死者数2,416名という被害を受けています。しかし、この間に日本軍が1千万人を超えるアジア太平洋の人びとを殺したことも事実です。また、アメリカ軍による空襲で日本は多大な被害を受けましたが、日本には、これより以前の日中戦争において、ナチスによるスペイン・ゲルニカ空襲と並んで悪名の高い重慶空爆を行って、この大規模な無差別空爆によって1万人にも及ぶ中国人の命を奪ったという“前科”があることを忘れてはならないと思います。このような加害者的な側面を無視して被害者的側面だけを訴求すると、正当な歴史認識を欠いた「戦争と平和」論として指弾されることになりかねません。受けた被害も与えた被害も「日本に特殊なもの」とせず、“戦争というもの”はかくも悲惨で愚かしいものであるということを後世代だけでなく世界に「語り継いで」いくべきではないでしょうか。“時”間的語り継ぎ(後世代へ)だけで“空”間的語り継ぎ(世界へ)を欠けば、今回のイベントのタイトルにある“時空を超えて”は空念仏になってしまいます。松本茂さんのFacebookによると、小田原市議会も「集団的自衛権について慎重な審議を求める意見書」を可決しているのですが、全国で合計190議会が安倍政権による集団的自衛権行使容認の閣議決定に「ノー」を突き付けているそうです。“最後の空襲地”として小田原市が音頭をとって、“同志”の地方自治体議会に呼び掛けて連帯し、世界中の交戦中の国に出向いて戦争体験を語り継ぎ「武器よさらば」を訴求するべきではないでしょうか。今年4月にノーベル委員会で日本の憲法9条が正式に平和賞候補にノミネートされたそうですが、加藤憲一市長が語られた「世界の平和を“創る”」ための実践行動が伴えば自ずと道が開けてくることでしょう。元小田原市民として「小田原市は、美しい地球を大切にし、輝かしい人類の未来を信じ、世界平和を実現するため、ここに永久に平和都市であることを宣言します」という小田原市平和都市宣言が実行課題につながることを祈念するとともに、そのために少しでも役立てることがあれば老骨に鞭うって参加したいと終戦記念日にあたって思いを新たにしました。

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