旅   行


韓国自動車旅行 その4
2015.12.17
4組  今道周雄

第4日目 慶州から光州へ

 第4日は慶州(Gyeongju)を発って大邸(Daegu)、海印寺(Haeinsa)、と9号路を東から西へ進み、咸陽(Xianyang)分岐路で南へ下って南海高速国道へ入り、そこから西へ向かって松廣寺(Songwansa)へ寄ってから光州(Kwangju)に向かう計画である。海印寺は高麗(Golyeo)八萬大蔵経(Palman daejang gyeongng)を蔵していることで有名で、世界遺産に指定されている。

 大蔵経が初めて作られたのは1011年に契丹(Korang)が高麗に攻め込んできた時、勝利を祈願して版木が作られて大邸の符仁寺(Buinsa)に納められた。その後高麗は1231年から1273年まで元(Won)に侵攻され6度の戦いで国土は荒廃した。符仁寺の版木は1236年に消失したが、江華島(Ganghwa do)に避難していた高宗が再び製作するよう命じて15年の歳月をかけ、8万枚あまりの版木を完成させて海印寺へ納めた。韓国ドラマ「武神」にこの辺りの事情が詳しく描かれている。元の第六次侵攻で「骸骨野を覆う」惨状となった高麗はついに全面降伏し、以後80年間は元に支配されることになった。

 1308年に復位した忠烈王(Chunglyeol-wang)は元に協力して日本への侵攻(文永・公安の役)を行った。高麗は1350年代に入って元朝が衰えると李成桂⦅イ・ソンゲ(Iseong-gye)⦆等の働きで1356年には高麗の領土を取り戻し、ようやく元の支配を脱したのである。


慶州から光州へGyeongju to Kwangju)
 
海印寺山門
 
大蔵経経板閣
 
海印寺仏像   松廣寺山門

海印寺を発って咸陽分岐点から一路南下して全羅南道を目指し、晋州までおよそ50km走った。晋州分岐点から第二の目的地である松廣寺まではさらに50Kmある。南海高速道路の松廣寺インターチェンジ で高速道路を下りたのだが、松廣寺の入り口がよく分からない。農道のような道を走ってようやく寺の入り口にたどりついた。駐車場に車を置き、水のきれいな渓流に沿って20分ほど歩くと見事な山門が現れた。この寺は新羅時代末期に創建され、1208年に松廣寺という名前になったという。 1948年の李承晩政権時代に麗水・順天事件と呼ばれる軍の反乱事件で建物はほとんど消失したというが今はきれいに再建されていた。寺内には歴代の僧侶の墓が並んでいた。日本の墓石とは違って屋根付きになっているのが面白い。韓国の三大寺とは通度寺、海印寺そして松廣寺であるそうな。中でも松廣寺は韓国仏教の最大勢力である曹渓宗の発祥地で、16人の国師を出したことから韓国随一といわれている。

 
松廣寺門前
 
墓 碑
 
 
見事な屋根組
 
寺院を巡る疎水

松廣寺から無等パークホテルまでは約30Kmなので、楽々とドライブできた。ホテルに着いてから吉田さんが「今夜の晩ご飯はカンジャンケジャンで豪勢にゆこう」というので勢いこんで町へ繰り出した。カンジャンケジャンとはワタリガニを醤油ダレにつけ込んで熟成したものなのだそうだ。私も家内も食べたことがないので、大いに期待したのだが中なか適当な店が見つからない。そのうちにやや大きめでこ綺麗な店が見つかった。早速カンジャンケジャンを注文したのだが、出てきたものを見た途端に吉田大人が怒りだし「これは冷凍のインチキケジャンだ。」と宣うではないか。本物はもっと大きくて堂々としたものらしい。結局カンジャンケジャンへの再挑戦は、ソウルまで持ち越すことになった。
 そこを中途で抜けだし、近くの店に適当に入ったら、何と大盛りのうどんのようなものが出て来た。韓国では何というか分からないが、シコシコして美味しかった。これは当たりだった。

 
無等パークホテル   いんちき冷凍カンジャンケジャン

 今回の韓国旅行は、時間があれば何でも観ようということであったが、どうしてか風景の他は市場とお寺になってしまった。普段は韓国の寺などはおよそ世間で話題にはならない。しかし、仏教の日本への伝来は朝鮮半島経由で来たのは事実である。大きな寺としては、仏国寺・通度寺・海印寺・松廣寺があるが、韓国の三大寺院は「通度寺・海印寺・松廣寺」とされている。

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