旅   行


韓国自動車旅行 その5 
2016.01.05
4組   今道周雄

第5日目 光州から木浦➡扶余➡儒城へ

 第5日は光州を発って木浦(Mokpo)へ、そして百済(Paekche)が首都を置いていた扶余(Buyeo)を経由して儒城(Yuseong)へ向かう。光州は1980年に全斗煥大統領の軍部政治に反対する民主化運動が拡大し、ついには武器庫を襲った市民が軍と銃撃戦を行うに至ったいわゆる「光州事件」で有名である。しかし、市内には見るほどのものはないため、一路木浦へ向かった。木浦は朝鮮半島の南西角に位置していて、西側の黄海に向かって開けた港町である。港の入り口には無数の島が点在し、波浪をふせぐ天然の良港となっている。

 百済の時代には聖王(Seong)が仏教布教のための使節を送ったそうだが、この港から使節は出発したのではなかろうか。木浦には国立海洋文化財研究所がある。1975年に全羅南道(Jeollanam-do)新安郡の會島沖で700年前の沈没船(新安沈船)が発見され、船体と積み荷を引き上げた結果水中考古学と海上貿易史の大成果となった。研究所にはこれらの品が陳列されている。陳列されている船はいくつかあるが新安船が最も大型で、しかも日本と元の間の交易に使っていた船であることが興味深かった。 


④光州➡木浦➡扶余➡⑤儒城へと赤い矢印の如く走行した

 
6人乗りのレンタカーと私
 
務安(Muan)料金所
 
15号線を木浦へ
 
国立海洋文化財研究所

 国立「国立海洋文化財研究所」は2009年に設立された立派な施設で、入り口には巨大な木製の錨が展示されている。圧巻は新案船の復元船体で全長30mある。外航船ではあるが平底で、このような船で交易をするのは大変だっただろう。復元模型を見ると、遣唐使船によく似ている。

 
巨大な木製錨
 
新安沈船

新安沈船からは陶磁器、銅銭のほかに木簡が発見された。この木簡から新安沈船が東福寺造営のための資金作りを目的とした交易船であったと推測されている。当時は社寺造営の資金作りのために元との交易が行われていて、新安沈船は1323年に元に入り、帰国途中で沈んだと推測されている。元寇(wongu)は1274年と1281年の二度であったが、その時の悲惨な記憶を捨てて1300年頃には早くも元と日本の交易が行われていたという政治的な柔軟さには驚く。

 
模型船
 
引き上げられた銅銭

 木浦からは西海岸高速道路11号を北へ向かって走った。舒川(Seocheon)ICで公州(Gongju)・舒川高速道路に入って西に向かい内陸に入るとおよそ30Kmで扶余(Buyeo)につく。木浦から扶余までは201Kmだが、道路は広く走り易いので疲れは感じなかった。扶余は百済の首都であったから、慶州のような遺産が残っているかと期待した。

 百済は4世紀頃既に倭国との交流があったが、660年に唐の軍に攻められ滅びてしまう。倭国に滞在していた百済の王子扶余豊璋は急遽帰国し百済王となる。斉明天皇は阿部比羅夫を大将とする救援軍を送ったのだが663年に扶余の白村江(現在は錦江)の戦いで敗れ、ついに百済は消滅した。このとき多くの官女が岩から錦江に身を投げた。その様が花びらが散るのに似たことから、この岩には落花岩(Nakuhaam)という名がついたという。残念ながら扶余ではこの河しか見ることが出来なかった。

         
動画:木浦から扶余へ(1分13秒)  起動に約10秒掛かります

               
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錦 江
 
落花片々
 次の目的地は儒城である。ここは温泉地として名高く、大田(Daejeon)広域市の郊外にある。この近くには鶏龍山(Kaeryonsan)国立公園があり山歩きの人でにぎわっているそうだが素通りした。儒城ホテルは温泉宿ではなく、ご覧の通りれっきとしたホテルであったが、次の安東(Andong)ではとんでもないホテルに泊まる羽目になった。次回のお楽しみで取っておくが、海外のホテル選びは難しい。晩ご飯は立派な焼き肉屋へ行き大満足。
 
儒城ホテル
 
焼き肉晩飯


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