旅   行


韓国自動車旅行 その6
2016.02.05
4組   今道周雄

第6日目 儒城から安東へ

 第6日目の旅は河回村(Hahoe mauru)をみて安東(Andong)へ泊まる旅である。安東は儒城から直線距離で120-130Kmなのだが、西から直接東へ向かう道路がないため、南下して大邸(Daegu)近くまで往き、そこから中央高速国道14号を北上する。儒城から大邸までがおよそ140kmあり、そこから河回村までが100km、そこから安東までが30kmという旅程である。

 大邸の少し手前に「倭館」という地名がある。韓国では「倭人」のイメージはあまりどころかすこぶる悪い。倭冦と呼ばれ「各地で略奪して回った日本人」と言うのが多くの人の受け取り方であるようだ。それなのに何故地名に残っているのか、帰ってから調べてみた。倭館とは日本人居留地の呼び名で、通商の拠点ともなっていたそうだ。豊臣秀吉の朝鮮侵入(文禄・慶長の役)から途絶していた朝鮮との通商は1609年の己酉約条によって復活したが、日本人は倭館の外へ出ることが禁止された。倭館は釜山、蔚山、昌原、京城などにあり、日本は金、銅、硫黄などを輸出し、朝鮮人参、虎皮、絹などを輸入した。明治維新の後に日本は明治新政府の成立を大院君政権に通告したが、日本の新しい主権者が「皇上」を名乗っていることを理由に国書の受け取りを拒否した。さらに日本が草梁倭館を接収し大日本公館と改称したことを大院君政権は怒り強硬に退去を要求した。1875年(明治8年)には日本の軍艦雲揚号が江華島を砲撃する事件が起こり、日朝修好条約が結ばれた結果日本外交使節はソウル駐在となって釜山倭館は閉じられた。肝心の現「倭館」は文禄・慶長の役で日本軍の兵糧集積所だったそうだ。

 ところで「河回村(Hahoe Folk Village)」であるが、村全体が重要民族資料に指定され、昔の暮らしがそのまま残っている村落である。嘗てエリザベス女王やブッシュ(父)大統領が訪れたことがある。村は花川(洛東江 Nakdong-gang)が大きく湾曲して流れ、三面が河に囲まれた場所に位置する。庶民の藁葺き小屋と両班(貴族 Yangban)の瓦葺き家屋が整然と並び低い塀に囲まれた家屋の外側には畑が広がっている。村の南側には南山、北側には芙蓉台(Buyongdae)と呼ばれる絶壁がある。芙蓉台からの眺めがすばらしいというので、登ってみたが腰の悪い吉田さん、膝の悪い我が女房には結構難行であった。
 ( 韓国語をアルファベット表記する場合、P/B/FはPの発音になる。例えば、釜山は「Pusan、Busan、Fusan」と表記され「プサン」と読む。芙蓉台は「プヨンデ」と読む。大邸(Daegu)は「テグウ」。)



 
村落を囲む塀
 
芙蓉台から見た全景

 

 
両班の家の門   芙蓉台登り口

 両班の家は門構えが大きく門につながる導入路は長い。庶民のすむ藁屋にも低い石垣が巡らされていて、庭を囲むように家が建っている。芙蓉台へ登ってゆくと眼下に河回村の全景が広がり、心地よい風が吹いてくる。そこには屏山書院と呼ばれる17世紀の儒教の学校が残っている。内部は板張り床で何も作り物はない。開口部は大きく、窓というよりは入り口に近い。夏は風が通ってよいかもしれないが、冬場には寒くてたまらないだろうな。

 
立教堂内部
 
屏山書院外観

 さて、昼飯だが河回村の入り口にある食堂で食べることにした。もうすっかりお馴染みになったキムチとスンドウブそれにご飯など。概して食事は日本より安いし、口に合うものが多いので助かる。

 問題はホテルだった。予約した「安東ホテル」の入り口は普通のホテルのように見えたが、一歩中に入るとピンクやら、紫色のランプがピカピカ光っている。部屋に入るともっと驚いた。スケスケのガウンが置いてあり、艶いたベッドが座っている。まさしくこの歳になって女房とともに連れ込み宿に入ってしまったのだ。インターネットで探したホテルであるから当たり外れは当然あるが、まさかこんな宿にあたるとは思っても居なかった。⦅蛇足だが昨年の10月に同じ経験をした。大阪で展示会があり、ホテルをネットで探したが中国人客で一杯で空いていない。ようやく探し当てたホテルは、値段が安すぎるので心配だったが予約した。展示会の前日にホテルへ入ろうと歩いてゆくと、至る所に「無料案内所」という看板がかかっている。北区○○町という地域は危険地帯(?)であったらしい。⦆


 
ホテル近辺の食堂
 
安東ホテル(連れ込み風?)

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動画 儒城から安東へ

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