旅  行


ボケナス那須山行記
3組 佐々木 洋

それは四枚の写真から始まった
 三井業際研究所時代からお付き合いをいただいている近藤芳夫さんから、MIT会OBテニス会の際に、「私のコーラスグループに元東芝の松浦さんという人がいますが知っていますか」というお話があった。なにぶん遊び呆けてばかりいたのでボケナス社員で終わってしまったが、その分遊び仲間の多さという点では東芝広しといえども私に並ぶものは稀だろうと自負している私のことである。“松浦さん”にも心当たりがあったので、早速古いアルバムから以下の4枚の写真を引っ張り出してスキャナーで取り込み、近藤さんにPCメールで送って、その“松浦さん”が私と昭和38年東芝入社同期生の「松浦紀久雄」であると“身元確認”することができた。
 
 

半世紀beforeと半世紀after
 上の写真は、入社して間もない頃に松浦さんとガールフレンド2人の4人で那須登山に出かけた時に撮ったものである。学生時代からボケナスであった私は、「お金は借りることができるが時間は借りることができない」と理屈をつけて、アルバイトの合間を縫っては学業を顧みず旅行や山歩きに出かけていた。特に、尾瀬がお気に入りで、会社に入ってからも毎年出かけていたのだが、これが尾瀬ではなくて那須になったのは、多分その前に家内旅行で那須北湯温泉に来ていて、そのひなびた風情と温水プールが気に入っていたからだと思う。そして、この北湯温泉を拠点にして那須連峰を縦走しようと目論んでいたのだ。半世紀も前のことで、当時は“天然色”写真はまだ稀有のものだったのでモノクロだし、登山スタイル、特にリュックサックは現在のものとは大きく違っているように思える。
 しかし、ボケナスの私と正反対の松浦さんは経理畑一筋に精勤に励みながら、なおかつ上段左右と下段左の写真に見られるような温和で端然とした風貌と態度は会社生活の晩年に至っても変わることがなかった。下段右の私が示しているボケナスの風貌が未だ変わっていないのを考え合わせてみると、「何十年たっても変わらないものは変わらない」というのも真理だと思う。

半世紀前の足跡を辿ってみたい

 近藤さんから、「9月7・8日の土日計画で昔佐々木さんが若い女性達を引き連れていかれたコースの登山の計画があります」というメールが届いたのは暫くしてのことであった。キーワードが“松浦さん”つながりから“那須”に代わったわけである。早速スケジュール表を見てみると、直前(9/2-6)に長崎旅行、直後(9/9-10)に山中湖テニス合宿の予定が既に入っていたが9/7-8は毎週末恒例の大磯でのテニスの予定が入っているだけであった。大磯の予定を変更して那須山行に切り替えることができると思う積極的な気持ちと、残暑厳しい時候に9連チャンとなる“長崎・那須・山中湖サーキット”では古稀過ぎの老人にとって過酷な日程となるのではないかと逡巡する気持ちがせめぎ合う。 
 
 しかし待てよ、近藤さんからのメールには「市民向け行事」、「バス貸切」、「ケーブル利用」などといった文言が含まれているではないか。“年寄りに優しい山歩き”なのかもしれない。しかも、近藤さんからのお誘いに乗って失敗したとか損をしたなんて思ったことはこれまでに一回もなかったではないか。このようにして気持ちが大きく積極派に傾いてきたところに背を押したのは「半世紀前の足跡を辿ってみたい」という思いであった。近藤さんのメールの件名欄にあった「那須岳・三本槍・朝日」はいずれも半世紀前に縦走しようとしていた山々である。しかし、十年一昔というから五十年では五昔。強い風雨に苦戦を強いられたことだけは覚えているが、どのようなルートを辿ったのか殆ど記憶から消え去っているからだ。

「山岳」に“場違い感”

 しかし、申し込み手続きを済ませた後に自宅の送られてきた封書の差出人が「横浜“山岳”協会」となっているのには驚きかつ慌てた。「山岳/登山」と「山野/野山歩き」とは全く別物である。学生時代にも「山岳部」があったが、大きなキスリングを背負って高山に挑む連中は自分とは別種族であり、私は寧ろ「ワンダーフォーゲル部」に限りなく近い山野歩きを楽しんでいたのだ。燕岳(標高2,762m)、大天井岳(標高2,922m)、槍ヶ岳(標高3,180m)と続く北アルプスの表銀座縦走コースや、大学の寮があった池の平から登った妙高山(標高2,454m)、日光白根山(標高2,578m)に次いで東日本第2の高山とされる尾瀬の燧岳(標高2,356m)や至仏山(標高2,2228m)のような標高 2,000m超の“山岳”を“登山”した経験はなくもないが、大半は“山歩き”で、殊にこの少なくとも30年間は「丹沢の山高さベスト10」にも入らない標高1251.7mの 大山を“山歩き”したのが“関の山”なのである。“山岳”の文字を見るや、「おいおい」と慌てて近藤さんからのメールを読みなおしてみると確かに「横浜山岳協会」とあった。

 要は、近藤さんが“不当表示”によって私を誘ったのではなくて、私の方が近藤さんを「山岳とは無縁」と“不当に”思い込んでいたために見落としていたのである。どうやら“年寄りに優しい山歩き”というのも勝手な思い込みだったようだ。この思い込み癖も半世紀前と変わっていない。よく人から「相変わらず若いですね」と言われるが、この”wakai”の”w”は限りなく”b”に近くて、私は天性のボケナスなのだ。しかし、さすがノー天気なボケナスも、今度ばかりは、那須山行によって確実に“場違いな”体験をするに違いないという強迫観念に苛まれながら直前の長崎旅行の間も過ごし、“場違い感”を引きずりつつ当日を迎えることになった。

 

いざ那須路へ

のっけから味わう“異邦人”感覚
 そうこうしているうちに、当初の「バス貸切」が「マイクロバス貸切」に変わってきたという話が近藤さんを通じて伝わってきていた。そうか、「市民向け行事」とは言っても、大方の横浜市民は私と同じように“山岳”の名に腰が引けちゃったんだろうなと一人納得。しかし、それじゃ「少数精鋭ベテラン登山家向け行事」になってしまうのではないかと一方で更に気を重くしながら当日(9/7)集合場所のJR横浜駅近傍の横浜天理ビル前に臨んで、「横浜山岳協会」の“少数精鋭ベテラン登山家”と思しき人々が屯している場所を探し当てた。
 やっぱり皆さんいでたちが違う。長崎旅行中にスーパーで買ったばかりの36リットルのリュックサックを背負った私はのっけからして“異邦人”感覚を味あわされた。そんなところに唯一の“同邦人”と頼む近藤さんが来られたのでマイクロバスに隣り合わせで乗り込んだ。そして、やがて全員集合、マイクロバスは那須路めざして出発した。
アウェイ感募る“馬の骨”
 マイクロバス車内で渡された参加者リストによると総勢は17人。他はみんな横浜市民なのに私だけが藤沢市民でやはり“異邦人”。リストの「備考」欄には各人の堂々たる山行歴が記されていて、唯一の“同邦人”と思っていた近藤さんの欄にも「北穂高、硫黄16、湯の丸」と書かれているではないか。「硫黄岳に16回も登られるなんて、いつの間にいっぱしのアルピニストになられちゃったんですか!」と隣席に向けて内心で呟く。これに対して私の欄には「近藤さんの友人」とあるだけ。場違い感が高じてすっかり“アウェイ”の感覚となる。
 一方、横浜駅前出発以来、最前席で説明したり書類や配ったりして、何くれとなく一同の面倒を見てくれている人がリスト上のCL(Chief Leader?)の石井清一さんであることは後になって分かったのだが、マイクロバス車内では一切の自己紹介もなし。皆さん、何回も山行をともにされ、お互いをよく知りあっているため今更自己紹介し合う必要のないお馴染さん集団のように見える。こんな調子では、初見参の私なぞは皆さんから内心で「どこの馬の骨か」と思われているに違いない。
 皆さんに素性を分かってもらっていない「馬の骨」としてはなんとも居心地の悪い限りであった。しかし、根がノー天気な私のこと、CL石井清一さんが下見山行してくださった時に写した那須の画像を収めたPCを回覧を見たりしているうちに、「これはベテラン登山家たちと行動をともにすることのできる貴重な機会ではないか」というプラス思考が徐々に芽生えてきた。

ここで道草
山行歴詐称

 1994年に近藤さんを団長とするミッションがMITを訪れた時には、一般の旅行者ではなかなか経験できないボストンフィルの“リハーサル”(初日前日に本番とまったく同じ手順で行う「ゲネプロ」と同じだと思う)を鑑賞した上に、終了後一同で控室に招かれて指揮者の小沢征爾としばし談笑するという僥倖を得た。このことをもって「私は小沢征爾に師事したことがある」と虚言するようなヘキのある私は、山行についても「1週間のうちに4,000m級の山2峰に登ったことがある」と放言しまくっている。
 実は、1週間の間に、アメリカン・ロッキー中の2峰であるパイクスピーク(Pikes Peak:標高4,301m) とマウントエバンス (Mt. Evans:標高4,300m)に登ったのは事実だが、“マイル・シティ”と呼ばれそこ自体が標高1,600mあるコロラド州デンバーに出張滞在している間のことであったから、標高差としては高々1,700mの“登山”だったのである。しかも、パイクスピークは、モータースポーツ「パイクスピーク・インターナショナル・ヒルクライム」が行われていること、マウントエバンスは北米一高度が高い舗装道路の走る山として、それぞれ知られており、私たち一行も当然のごとく“車で登山”しただけの話なのである


いつの間にか“中心人物”になっていた

 そうこうするうちに、マイクロバスは東北自動車道を順調に北上し、那須ICを出るとそこからは栃木県道17号那須高原線。道路の両側に並ぶ瀟洒な感じのレストランやギフトショップを見ているうちに高度が次第に高まってきた。そして山路に入って、標高800mの地点を過ぎると、これまで立ちこめていた暗雲が嘘のように消え去り、青空が顔をのぞかせ眺望が開けてきた。「こういう日は、谷からガスが登ってきて晴れてくるんですよ」という近藤さんの言に意を強くする。やがて、ロープウェイ山麓駅…と思いきや、マイクロバスはそれより先にある県営駐車場までやってきた。さては“最後の砦”と思っていた「ケーブル利用」という謳い文句も反故にされてしまって麓から登ろうってことなのだろうか。
 半世紀ほど前に社内旅行で来て北湯温泉で一泊した後に登った茶臼岳の苦い記憶が頭をよぎる。あのときは昭和37年に開設されたばかりのロープウェイで8合目まで行ってから頂上まで登ったのだが、ガレ場続きで結構難儀したっけ。それでも、コケならぬボケナスの一念。一旦、プラス思考に転じた後はイケイケドンドン。下の写真はCL石井清一さんが後日送ってくださった茶臼岳登山開始直前の写真だが、これを見ると、あれほど“異邦人感覚”にとらわれていたはずのボケナスがチャッカリと後列の中心に写っているではないか。写真の中とはいえ、いつの間にかベテラン登山家の中で“中心人物”になってしまっているのだからボケナスのノー天気ぶりには度し難いものがあると改めて思う。


那須岳(茶臼岳)登山

リンドウに半世紀前を偲ぶ
 さていよいよ登頂目指す「那須岳・三本槍・朝日」三山のうちの第一峰の那須岳(茶臼岳)への登山開始。3班編成で私は近藤さんとともに女性2名を含めたメンバー6名の第3班でリーダーは片倉順一さん。穏やかなお人柄でありながら、信頼感を湛えられており、“これぞ山男”という風格をそこはかとなく漂わせておられる。茶臼岳は溶岩が火口から押し出され成長してできた活火山で、頂上周辺の噴気孔から吹き出される噴煙が見えるはずなのだが、先ほどの近藤さんの予報通りに、山裾の方から上がってきた霧が我々に追いついてきたせいか眺望が悪く、頂上どころか五里霧中の状態に近く行く先さえはっきりとは見ることができない。
 それでも、路傍にはエゾリンドウやミヤマリンドウが霧に煙るように咲いていて、石や小岩だらけの道を6名編隊で通り過ぎる私たちの眼を和ませてくれる。そう、およそ50年前、若かりし私たち男女4人が雨の朝日岳山中を彷徨していた時にもリンドウが路傍に咲いていたっけ。ふと半世紀前の思い出がほろ苦く蘇ってきた。


限りなく「峠の茶屋」っぽい「峰の茶屋」
 なだらかだった山道の傾斜が少々急になってくると、立派な石造の道標があって、「右に0.8kmで峰の茶屋、左に0.7kmで峠の茶屋」とあり(下の写真の左)、峠の茶屋の方から登ってきた我々は、峰の茶屋との間のおよそ中間点に来ているということが分かった。しかし、“茶屋”というのは詐称であって、私たちが立ち寄った峰の茶屋(次の写真の右)では何も売られておらず喫茶サービスなどもされていなかった。正式には「峰の茶屋避難小屋」というらしい。「峰」というより「これぞ峠」という場所にあり、ここが茶臼岳、三斗小屋、朝日岳-三本槍岳方面への分岐点となっている。「茶屋」などはもともとなくて、ここで道に迷った遭難者が出た後に「避難小屋」が建てられたものらしい。既に「峠の茶屋」というのがあったため「峰の茶屋」という名前にせざるを得なかったのだろうが、これも紛らわしい限りである。
 しかし、我々は後刻、茶臼岳登山後にここで昼食を摂り、その際に片倉リーダーが持参してくださったラジウスで沸かしたお湯で、石井CLから配られたコーヒ―・スティックできちんと喫茶をしてから三斗小屋方面に向かったのだから、我々にとっては「避難小屋」ではなくて「茶屋」であったわけである。
 

かつては“牛歩”の場であった
 「峰の茶屋避難小屋」のすぐ横に、「牛守護大日尊」と彫られた石碑がある(下の写真)。寡聞にして知らなかったのだが、ここ茶臼岳では、噴火口からの硫黄採取が黒羽藩(1837〜1867年)の時代に始まり、昭和23年頃まで硫黄鉱山の操業が行われていたという。硫黄生産高が日本のベストテン入りしていたというから、相応の人が入り込み、機材や食糧が搬入されていたに違いない。しかし、昭和46年にボルケーノハイウェイ(現在の栃木県道17号那須高原線)が供用開始されるまでは自動車によるアクセスができなかったのだから、運搬手段として牛が重用されていたのだろう。そして、食べる草もない山中で餓死したり、急峻な坂道で脚を踏み外して転落死したりする牛たちを見るに見かねて"牛を守護してくださいまし"という願いを込めて建立されたのではないだろうか。現に鉱山の現役時代の「昭和2年建立」と刻されている。
ところで、下の左の写真は我々が峰の茶屋避難小屋に着いた直後(12:30)に撮ったもので、目の前に剣が峰(標高1799m)がはっきりと姿を見せている。ところが、茶臼岳登頂後戻った時(14:17)には下右の写真の通りで、「牛守護大日尊」の石碑ばかりが寂しそうに佇んでいるように見えた。“牛歩”と正反対の景観の変わり身の早さには牛さんたちもさぞやビックリしていたことだろう。
 

茶臼岳よ、キミはどうして“名山”なんだ?
 茶臼岳を登っていると、インターネットWeblio辞書の「数枚の溶岩流、火砕流、頂部の火砕丘、溶岩円頂丘から成る成層火山である」という説明が嫌になるほど良く分かるような気がする。下の写真のように、草木一つ生えていないガレ場で、ザックの赤が“万灰岩中紅一点”と目立って見えるような殺風景な光景が延々として続く。浮石もあって歩き難いが、「まあ、いいか、♪雪よ岩よ我らが宿り♪なんだもの」と自分を慰めつつ歩を運ぶ。
 

 しかし、翻って考えてみると、こんなに殺風景な光景ばかり続く岩山がどうして日本百“名山”の一つに選ばれているのだろうか。標高1,915mの山で那須連峰では三本槍岳(標高1,917m)と並ぶ最高峰であり、しかも、箱根山系の最高峰の神山と違って木々に視界を遮られることがないから、晴れた日にはそれこそ眺望絶佳なのであろう。つまり、“晴れてこそ晴れの名山”なのであろうか。だとしたら、茶臼岳よ、キミは晴天の出し惜しみし過ぎていやしないのかね。50年前に登頂した時にもガスっていてまったくの視界不良だったじゃないか。あの時に僕たちが口ずさんだ♪また来る時には笑っておくれ♪をキミは聞いてくれていなかったのかね。えっ、「オレは“岩山”なんだから“雪山”讃歌なんか歌ったって…」だって?ああ、そうか、そのように“お高く”とまっているところが“名山”ってわけか。それじゃ、日本百“名山”=日本百“高山”?オカシイなあ、「山高きが故に貴とからず」と言われ、それを信じて、長身者による上から目線の物言いを「人高きが故に貴とからず」と自分に言い聞かせて70年間余りこらえ続けてきたのに。

ここで道草
「茶臼岳」のあこがれ

「茶臼山」という名の山は、通称を含めると、北は青森県から南は宮崎県まで全国に200以上あるという。形状が茶を挽く茶臼に似ているところから付けられた名前のようだが(*)、それだけ左右対称で台形状の山が数多くあり、しかも茶を挽く習慣が日本の各地に根付いていたことが端的に示されているように思える。しかし、「茶臼岳」となると那須“だけ”なのではないかと思って調べてみたところ、八幡平にも標高1,578mの茶臼岳、更に、赤石山脈(南アルプス)には標高2,604mの茶臼岳があり、ここ那須の茶臼岳(標高1,915m)はOnly 1 でもNumber 1でもないということが分かった。

(*)那須岳(茶臼岳)は成層火山(カルデラ)だが、Wikipediaによると、成層火山とは「同一箇所の火口から噴火を繰り返して、その周囲に溶岩と火山砕屑岩が積み重なった、円錐形に近い形の火山体」であり、「日本の火山のほとんどは成層火山である」とある。

それでは、「那須岳」と「茶臼岳」はどんな関係にあるのだろうか。一般的には「那須岳」は、「茶臼岳の別称」とされ、「那須岳(茶臼岳)」と表記されることが多いようだが、地図によっては「那須岳」と「茶臼岳」を少し場所をずらして別に表記した紛らわしいものもある。また、「那須岳は栃木県の那須塩原市と那須郡那須町と福島県西白河郡西郷村にまたがる山の総称である」という説がある傍らで、「日本百名山」の著者である深田久弥氏はその著書に「那須岳とは那須五岳の中枢を成す茶臼岳、朝日岳および三本槍岳のこと」と記しているという。因みに、その「那須五岳」とは、北から南にほぼ直線状に並ぶ三本槍岳(1917m),朝日岳(1896m),茶臼岳,南月山(1776m),黒尾谷岳(1589m)の五岳を示し、さらにその南の白笹山(1719m)も含めて全体を那須火山または「那須山」ともいうのだそうだから紛らわしい限りである。

いっそのこと、「“箱根山”なんて山ありませんよ」というように開き直っていれば「富士“箱根”伊豆国立公園」と連名で冠されるのだが、温泉地帯も含めた地域の総称と割り切っていないため、「那須」はその名を冠されることもなく「日光国立公園」の一部とされ続けている。



三斗小屋温泉へ向かう

滑落したら奈落の底へ
 昼食休憩後、我々は峰の茶屋跡避難小屋を出発して、右手に剣が峰から、朝日岳、熊見曽根、隠居倉と続く連山の中腹部をトラバースする形で、今宵の宿「三斗小屋温泉」を目指した。進路に危険な個所があるというので、その修復のために石井CLと片倉リーダーがスコップを携えて先行したために、私たち第3班は志村健一リーダーの率いる第1班に一時吸収合併されることになった。危険と思しき個所にさしかかって見るとそこは、細い山道の左側が奈落の底に続くような急斜面になっていて、一歩道を踏み外したら遠く深く滑落していって、無事に戻ってこられそうもない難路であった。第3班に戻ってこられた片倉リーダーは、脚をすくませている高所恐怖症の私に対して、「このように、左足を谷に向けて歩けば滑落を防げますよ」と懇切丁寧な“OJT(On the Job Training)”を 施してくださった。

“牛でも”通っていた道を行く
 そして、このアドバイスに従って、左足を直進方向に対して90.°.左に曲げる“逆トの字”歩行を続けて、ようやく長く続くヒヤヒヤドキドキの難所を通り過ぎてきたところで、今度は石井SLから「さあ、これからは牛でも通っていた道なんだから」という励ましの言葉が贈られた。俊足で馬力のある“馬でも”と言われても困ってしまうが、“牛でも”と言われると何となく安心できるから不思議だ。しかし、ボケナスの私は、ここで再び「牛」の話が出てきたことの方に気がひかれた。やはり、牛は重要な輸送手段であったらしく、後日調べてみたところ、戦前は三斗小屋温泉方面から燃料用木材などを牛の背に乗せて茶臼岳の硫黄鉱山に供給するルートがあったということが分かった。「三斗小屋」という奇妙な名前の由来についても、「牛の背中を借りても米3斗以上は運ぶ事ができないような場所」という説があるそうだ。

登り上手と降り上手と
 競馬場を走る馬に右回り上手と左回り上手があるように、人にも登り上手と降り上手があるようだ。“山岳界”では普通のやり方なのかもしれないが、最も脚力が弱いとみられるメンバーが先頭に立つリーダーのすぐ後ろにつくという形がとられており、ボケナスの私が当初は“不動の2番バッター”であった。ところが、上り坂となると、「足の裏全体に体重を乗せて」という片倉リーダーの“OJT”に従って着々と歩を進める私と、これに続く近藤さんとの間に“車間距離”が生じがちになってしまう。そこで、登り苦手と見られたのか、私と近藤さんとの間の2・3番手交代がなされ私が近藤さんの後を追う形になっていた。ところが、下り坂にさしかかると一転して、近藤さんのステップが“華麗”になり、“加齢”現象の膝痛に悩む私との間の“車間距離”が一気に広まる。ストックを両手にされた近藤さんは、まるでスキーをしているかのように我が目の前を舞っておられるかのように見える。近藤さんの軽やかなステップに目を遣って、「あんな風に降れたらいいのになあ」と羨望の念を抱いたときであった、私に“突然の宙づり事件”が起きたのは。

突然の宙づり事件勃発
 小石に蹴躓いたのだろうか、75kgの私の体がヒョイと浮き上がり、右に回転しながら山道の外へ落ちていって、次の瞬間は目が山道の高さに。とっさに、目の前の路傍の立木の根元の幹にすがりついたが、もし、その幹が、手ですがりつけないほど太かったら、あるいは、75kgの物体の加重に耐えられないものだったとしたら、2-3mは落下して打撲傷を負うのを避けられないところだったが、運よく宙づりの状態でとどまることができた。一瞬の出来事だったので、自分自身もそうだが、すぐ後ろを歩いてこられたメンバーも一体何事が起ったのかわけが分からなかったに違いない。
心優しいメンバーが、次々と上から、「大丈夫ですか」、「落ち着いて」、「しっかりつかまっていて」、「今すぐリーダーを呼ぶから」などと声をかけてくださるのだが、何より宙づり状態になってボケナスぶりをさらしている姿が恥ずかしい。やがて、リーダーが手を差し伸べてくださって“路上の人”に戻ることができたが、「どこか打撲しているはずだから」とか「精神的なショックがあるはずだから」とかいう理由で小休止をとるよう勧めてくださるリーダーの声にも上の空。実際に、足下の部分が切れていたために脚を打撲することもなく、何事につけノー天気の私には精神的なショックは皆無に近かったので、ひたすら私がもたらしたお騒がせと旅程の遅れを詫びながら、すぐさま“行軍”を再開するよう申し入れ聞きいれていただいた。但し、この宙づり事件によって私は再び2番バッターの定位置に戻ることとなった。

“山奥の孤島”にたどり着く
 箱根に特定の「箱根温泉」がないのと全く同じで、那須にも特定の「那須温泉」はない。代表的な大丸、北、旭、弁天、八幡、高尾、湯本、新那須、板室、三斗小屋の諸温泉が「那須十湯」と呼ばれていて、このうち那須温泉郷の最奥に位置する三斗小屋以外の九湯は茶臼岳の東側にある。隠居倉(標高1,819m)の中腹に位置する三斗小屋温泉は隠居倉火山の熱によって湧出しているからだと立て看板に書かれていた。そして、高度が下がって緑が濃くなった所に、霧に霞む三斗小屋温泉が見えてきた(下の写真の左)。
しかし、「温泉」とはいうものの、温泉街や商業施設、民家の類は何もなく、大黒屋と煙草屋の2軒の旅館があるだけで、我々の投宿先は、そのうちの煙草屋旅館(下の写真の右)。奇妙なことに、「煙草屋」と称していながら煙草は売られていないし,煙草を吸うこと自体がここでは禁じられているという。また、「旅館」と称していながら実態は限りなく山小屋に近い。
那須の市街地からは、山路を3-4時間かけて徒歩で来なければならないので、まさに“山奥の孤島”。後で女将に聞いたところ、食糧や物資の搬入はヘリコプターによらざるを得ず、しかも、その着陸場所もないので、ホバリングしたヘリコプターからロープで積み荷を降ろしているとのことであった。
 

三斗小屋温泉にて

早飯早寝の生活へ
 当然、送電線がここまでつながっているわけがないので、すべて自家発電。そのために、消灯時刻も9時と早く、これに伴って夕食の開始時刻も4時半と早い。近藤さんと一緒に「先ずは内湯にでも行こうか」と出かけてところ元気のいい女将に「もうすぐ晩御飯だから急いでよ」と“教育的指導”をされてしまい、10分間だけの慌しい入浴タイムとなってしまった。
 さて、太鼓の音とともに、食堂に討ち入り。
我々一行16名は与えられた縦長2列の席に勢ぞろい。ボケナスの私には、脚が攣りそうで、畳の上で正座するのはおろか胡坐をかくのさえ苦痛だが、CL石井清一さんが後日送ってくださった右の写真を見ると、さすがベテラン登山家の皆さんは座り方もお行儀が良いということが分かる。
 お膳の上には、それでも5-6品の菜が載せられている。
これもすべてヘリコプターによる“本土”からの空輸物なのだろう。肝っ玉母さん風の威勢のいい女将の精一杯の心尽くしが感じられる。


“家風”に合わずイエロー・カード
 夕食前に女将から“教育的指導”を受けた私は、夕食後の懇談会で、今度は石井CLからイエロー・カードを受けることになった。「雨と登山」が懇談会のテーマだったのだが、私の順番になると、「雨と登山」の話はそこそこに済ませて自己紹介をしてしまったからだ。朝から思い続けていた、リスト上で「近藤さんの友人」と紹介されているだけの私には、「皆さんから“どこの馬の骨か”と思われているに違いない」という思いが未だ強く根付いていてこの場で再び頭をもたげてきたのである。従って、せめて「近藤さんの“どんな”友人なのか」皆さんに分かって欲しかったのだが、聊かこれが冗長に過ぎたようだ。しかしこれは、冗長かどうかという問題ではなくて、石井CLのご説諭によれば、「私たちだって自己紹介しあったりしたことがないのです。さりげなく会って山行をともにし、山行が終わったらさりげなく別れればいいんです。」とのことであった。そうか、山男・山女の交際は、「君子交淡如水」(君子の交わりは淡きこと水の如し:才徳のある者の交際は水のようにさっぱりしており、濃密ではないが長続きする)なのか。非君子のボケナスは、あらぬところで“家風”に合わないところを暴露して、山男・山女の皆さんのヒンシュクを買ってしまったようだ。

百均で臨む “King of Sports”
 懇談会では、「雨の日の登山ほど楽しい」といったような高尚な、但しボケナスの私にはとてもついていけないような話が披露されていた。しかし、私が気になったのは、「登山は、さすがにKing of Sportsと言われるだけあってお金がかかる」という発言に端を発した「雨着は最低ゴアテックでなければ」という発言であった。なにしろ私は、直前の長崎旅行で堤防釣りの際に使って軽くて小さく畳みやすいのが気に入った百均(百円均一)のレインコートしか持ってきていないからだ。
更に悪いことに、同じ3班の原美恵子さんが、山登りに百均の傘を使ったところ、たちまち骨が全部折れてしまったとか、ビニールの部分が吹っ飛んでしまったとかの「アンチ百均論」を面白おかしく語っているではないか。今日のところはザックカバーを使っただけでレインコートを使わずに済んだが、雲行きを見ると明日の百均レインコート登板は避けられそうもない。強風にあおられてビリビリになってしまったら、またぞろボケナスぶりを曝すことになってしまう。しかし、解決できない問題に気をもんでも仕方がない。明日は明日の風が吹くさ…とまた、ここでボケナス得意のノー天気さをもって凌ぐことにした。


百均がつくる“大人物”
 さて、懇談会もお開きになって、めいめいが就寝の準備を開始。我々に割り当てられたのは3部屋で、大きめの部屋が女性6名用、男子10名が2部屋に分かれることになった。しかし、どんなに配置を変えてもお互いの布団を重ね合わずに敷くことは困難だと分かったので私は床の間に布団を敷いて寝ることにした。もももと、床の間は装飾のためのスペースで、書や焼き物、花瓶などで飾るものだが、ここはまたぞろ「床の間に床をとってどこが悪い」というボケナス流開き直りの出番である。
 そして、このようにして寝所を確保してから、やおら露天風呂へ。下の写真は翌日出発する前に撮ったものだが、夜は写真左の着替え小屋も真っ暗であるし、右下方にある渡り廊下から上がってくる石段も、それこそ鼻をつままれても分からない暗くて足元が覚束ない。しかし、ここで近藤さんの持参されたLEDランプが威力を発揮した。それに使われているのが百均で買われたという電池でこのパワーがものすごい。写真右の手前の浴槽べりにランプを置いてその前に立てば、前方の空に立ちこめた雲のスクリーンに黒くてでっかい大入道の姿が黒く映し出されるのだ。良質な単純泉に疲れた体を癒されながら、自らの“大人物ぶり”を演出して単純に楽しみあって慌しく過ぎた一日を終えた。
 

ここで道草
三斗小屋物語

最初は“狩人御用達”の秘湯であった?
 三斗小屋温泉の発見は、康治元年(1142年)と古いが、恐らく相当長い期間文字通りの“秘湯”として放置されていたものと思われる。まず第一に、二山も三山も越えて人里まで木材を運搬する手段に事欠くこんな“山奥の孤島”にまで樵(きこり)が立ち入っていたとは考えられない。精々、「熊見曽根」の地名から示唆されるように、この辺りにもマタギに似た熊狩人集団がいて、その狩りの疲れを癒す“狩人御用達”の露天風呂だったのではないだろうか。


会津中街道「三斗小屋宿」が開設された
 ここに宿泊施設が設けられたのは、1683年の日光大地震によってメインロードの会津西街道が通行不能になり、いわば“裏街道”として代替街道の会津中街道が開設された1695年以降のことであろう。会津中街道の宿場の一つとして設けられた「三斗小屋宿」から3kmほど東にある三斗小屋温泉は今度は“旅人御用達”の温泉になったわけである。会津の若松城下から下野の今市に至る会津西街道には、重要伝統的建造物群保存地区として選定されている大内宿がある。その代替街道として開設された会津中街道であるから、大内宿に相当する規模の宿場ができていたとしても不思議ではない。

 しかも、三斗小屋宿の北には標高1,468mの大峠、南には麦飯坂があって、この一帯は街道一の難所であったとのことだから、「那須山中の三斗小屋宿」は東海道の「天下の険・箱根宿」のようなものである。実際に、元禄9年(1696年)の会津藩の記録では人家はなかったとあるそうだが、その後、ここを通る旅人の数が急増するのに伴って、旅籠などが建つとともに接客や、食材や資材の調達・運搬に当たる人たちが大量に流入してきて“宿場町”としてかなり栄えていたものと思われる。従って、三斗小屋温泉への食材や資材の運搬も三斗小屋宿からされ、その中で当時貴重品とされていた煙草を宿泊客に売っていたことから「煙草屋旅館」という名前が付けられたのではないのだろうか。


山岳信仰の拠点ともなった

 また、那須の山々では山岳信仰が盛んに行われていたようだが、三斗小屋口を登り口とするルートが開かれ、多くの参詣者が白湯山信仰のため入山できるようになったのも、三斗小屋宿を起点とできるようになったからに違いない。因みに当地那須の山岳宗教は、「三山がけ」と称して白湯山・月山(茶臼岳)・旭岳の三山を、途中にある36ヶ所の拝所を参拝しながら登るのが一般的であり、この三山は出羽三山(湯殿山・月山・羽黒山)を模したもののようだ。そして、この白湯山信仰は、出羽三山の湯殿山信仰に当たるものだが、「白湯山」という名前の特定の山はなく、茶臼岳の八合目西に面したところにある温泉の湧出源の呼称らしい。三斗小屋温泉は、「三山がけ」の疲れを癒す“参詣者御用達”の温泉でもあったのだろう。


山峡の小さな宿場にも及んだ戊辰戦争の影響
 しかし、代替街道の悲しさで、メインロードの会津西街道が再整備されるとこの会津中街道は次第に使われなくなり、現在では地図にも載っていない幻の街道になってしまっている。そして三斗小屋宿も昭和32年に最後の家族が去ってからは無人となり「三斗小屋宿跡」が残るのみで、三斗小屋宿も“登山客御用達”になっている。だが、そんな寂れる一方であった山峡の小さな宿場にも徳川の時代から明治へと移り変わる際に起こった戊辰戦争の影響が及んでいたのだそうだ。

 当初、三斗小屋宿には、会津軍が詰めていたのだが、官軍による会津若松の町を焦土と化す攻撃が始まると、三斗小屋宿も激戦の末官軍の支配するところとなったのだとか。この間、三斗小屋温泉も“兵隊御用達”になっていた可能性があるが、当時はそんな悠長な事態ではなく、官軍と会津軍のせめぎ合いに巻き込まれて、「三斗小屋大黒屋ノ人」をはじめとする三斗小屋宿住民が常軌を逸した暴虐な仕打ちで惨殺されたという旨が、田代音吉なる人物が書いたガリ版刷りの資料「三斗小屋誌」に書かれているということがネット・サーフィンの結果分かった。こんな辺鄙な山奥でさえ、戦争が不条理にも、武器を持たない庶民に対して悲惨な災禍を及ぼしていたということを知り胸が痛む。


鉱山時代の終焉とともに三斗小屋宿は消滅

 更に時を経た明治26年(1893)には三斗小屋宿の近傍に銅山が開かれ、採掘された堂が宿の近くで精錬されており、明治末期には三斗小屋住民44名のうちの21名が鉱山関係者であったということも分かった。鉱種は黄銅で、精錬には燃料として木材が大量に消費されるため木材伐採に当たる材木業者がおり、ここで伐採された木材が、前述の通り、牛によって那須硫黄鉱山にも運ばれて燃料として用いられていたようだ。那須硫黄鉱山に比べると規模が小さな鉱山だが、それでも、三斗小屋銅山は大正時代前半には第一次大戦の需要に支えられて好景気に沸いたらしい。

 三斗小屋宿は会津中街道と栄枯盛衰をともにして、今は消滅して無人の地となっているが、その最後の姿はかつての "宿場町" からは随分と変遷して“鉱山の集落”となっていたようである。従って、三斗小屋温泉は“鉱山御用達”にもなっていた可能性がある。しかし、第一次大戦後は銅の需要が減って経営難となり、三斗小屋銅山はたびたび休山となり、昭和28年に廃坑になっている。那須硫黄鉱山の盛衰とほぼ一致しているように見え、最後の住民が転出して廃村となったのが昭和32年であるから、那須の鉱山時代の終焉が三斗小屋宿の消滅を決定付けたものと言えそうである。


百均レインコートのデビュー
 さて明くる朝、床の間で寝ていた私は、屋根をたたく雨音で目が覚めた。起きしなに真っ先に頭に浮かんだのが、「やっぱり、今日は百均レインコートを着なくちゃならないか」ということだったから、よほど昨晩の懇談会でのKing of Sports論議が気になっていたようだ。下左の写真もCL石井清一さんが後日送ってくださった写真で、三度小屋温泉出立の直前に撮られたものだが、さすがにただ一人百均レインコートを着用に及んでいるボケナスぶりを恥じて、写真の中での“中心人物”の地位から身を引いて前列最後部に身を屈めている。下右の写真は、三斗小屋から0.6km、隠居倉まで0.8kmの地点で近藤さんに撮っていただいたものだが、百均派のボケナス(左)とアンチ百均派の原美恵子さん(右)の雨衣装が対照的で、“山歩き”と“登山”の違いが歴然としているように見える。
 

再び行く手を阻む三本槍岳

三本槍は尖っていない
 我々の「三山がけ」は、茶臼岳、三本槍岳、朝日岳の三山をめぐる予定であったが、三本槍岳は登山路が悪路になっていて危険だということで、スキップされることになった。半世紀前にも、若かりし男女4人も、余りの風雨の強さに早々に三本槍岳登山を断念していた。それだけに、脚力を欠く身の程をわきまえないボケナスとしては、三本槍岳登山に最も惹かれていたのだが、半世紀の間を置いて再び三本槍岳に行く手を阻まれることとなったわけである。

「三本槍岳」の故事から学ぶ
 三本槍岳は、朝日岳、茶臼岳、南月山、黒尾谷岳ともに構成する那須五岳の北端にあり、奥羽山脈の南端として位置付けられている。また、太平洋に流れる阿武隈川、那珂川の源流部にあたり、更に、山頂近くのピークが日本の中央分水嶺となっており、日本海側に流れる阿賀川(大川)の支流の源流部になっていて、地勢的に“分け目”となっている。行政区域としても福島県西白河郡西郷村と栃木県那須塩原市にまたがっていてヤヤコシイ。これは今に始まったことではなくて、昔も、この山頂の領地がはっきりしないため、会津藩、那須藩、黒羽藩の3藩が領境界を確認するため槍を立てあったそうで、これが「三本槍」岳の地名の由来となっているらしい。

 言ってみれば尖閣諸島や竹島などの国境問題の藩境版である。もともと国境は、ヤクザの縄張りと全く同じで、力関係の変遷の歴史を通じて決まってきたものなのであるから、客観的で理論的な根拠などあり得ない。要は、三本槍岳の例のように「槍を立てる」ことによって実効支配権を確認し訴求し続けることが肝要ではないかと思う。その点で、古くは日本の漁業の拠点として実際に活用し、近くは国有地化することによって「槍を立てた」尖閣諸島はまだしも「槍を立てる」努力を怠ってきた竹島には残念ながら“失地”回復の余地がないように見える。国土領有権についても「権利の上に眠る者は保護に値せず」が当てはまるのであって、「槍を立てる」行為が伴わなければ保護されないのだということを、「三本槍岳」の地名の由来を知ってから改めて教えられた。


そもそも「那須」とは
 ボケナスにして寡聞の私は、「三本槍岳」についてネットサーフィンをしていて初めて「那須藩」なるものの存在を知った。もともと下野国那須郡(現栃木県那須郡付近)を発祥とする武家の「那須氏」がいて、様々な紆余曲折を辿った後、那須資景の代になってから、慶長15年(1610年)に1万4000石を領する大名として諸侯に列し、当地に那須藩を立藩したのだとか。

 那須氏の全盛は室町時代だったそうだが、それ以前の源平時代に壇ノ浦合戦で扇の的を射たと言われるかの那須与一もルーツは同じで、那須一族は源氏勢の有力な旗頭でもあったようだ。そして、平家残党追討の為各地に向かい、そのまま土着したものが多いため「那須」姓が日本各地に分布するようになったらしく、特に宮崎県や熊本県の一部に多く、山形県、和歌山県、岡山県でも比較的多く見られるそうである。そう言えば、大学の弓術部で1年後輩で最高裁判事まで務めた那須弘平さんも長野県の伊奈北高校の出身で、三権分立の一つの頂に立って不可侵の司法の領域に「槍を立て」て、立法や行政の悪に対して弓を引いていたものだ。


“隠居倉”の由来についての憶測
 しかし、「那須氏」の枝葉がこのように生い茂っていくのと裏腹に「那須藩」の消長の方ははかばかしくなく、隠居した那須資景から家督を譲り受けた子の資重が寛永19年(1642年)に父に先立って死去した時には、その嗣子がいなかったため、那須氏の所領1万4000石は幕府に没収となり那須藩は廃藩となった。しかし、那須の家名が絶えることを惜しんだ幕府によって“隠居”していた資景に5000石が与えられて旗本として存続したのだという。“隠居倉”という山名の由来が分からずにいたのだが、ことによると旗本として復帰した“隠居”に因むものかもしれない。那須の地にいたから那須氏なのか、あるいは逆に、那須氏がいたから那須という地名になったのか分からないが、早々に家督を譲って“隠居”した那須資景は、無欲で恬淡とした好もしい人物であるように思え、地元民からも“ご隠居さん”と呼び親しまれていたのではないのかと想像の輪を膨らませている。

ついでに黒羽藩について
 因みに、那須藩・会津藩とともに三本槍岳で槍を立てあっていた黒羽藩も、那須氏を支えていた那須七党の一つ大関氏が立藩したようだ。大関高増が豊臣秀吉の小田原征伐に参陣したため、1万3000石の所領を安堵されていながら、関ヶ原の戦いの時には、大関資増が東軍に与して下野小山に参陣した後、領国に戻って会津の上杉氏(西軍)の動きに備え、その戦功により戦後、今度は徳川家康から7000石を加増され、合計2万石の大名となったのだそうだ。

 Wikipediaによると「外様の小藩ながら幕末には15代大関増裕が海軍奉行や若年寄など幕府要職を歴任し、藩政では作新館を開校してスペンサー銃の標準装備など兵装の洋式化を行い軍改革を進めた」とある。また、戊辰戦争では政府軍方について参戦して三斗小屋攻略や会津戦争などで戦功を挙げ、戦後に永世賞典禄1万5000石を贈与されたという。このようにしたたかな動きをしていたために、本家筋の那須藩がその後再立藩されたのにもかかわらず天和元年(1681年)に廃藩となったのと裏腹に、黒羽藩は、同じく外様の小藩でありながら、明治4年(1871年)に廃藩置県が行われるまで存続していたということがネットサーフィンした結果分かった。

三本槍岳で槍を立てあっていた会津藩、那須藩、黒羽藩の3藩のうち黒羽藩だけが藩としての“天寿”を全うしたわけである。江戸から遠い下野国那須郡に在しておりながら、きちんと時勢の流れを読んだ藩政を行い、15代大関増裕のような広い視野と進取の気性を持った人材を輩出したのは驚くべきことだが、逆にいえば、会津藩や那須藩と違って歴史が浅い若い藩であったからこそ、様々なしがらみにとらわれることなく臨機応変にふるまうことができたのではないかと思う。


朝日岳登山

趣を異にする那須三山
 隠居倉からは、左手に“憧れの”三本槍岳、右手に茶臼岳と朝日岳とが、それぞれ一望できるはずなのだが今日は雨に阻まれて眺望が悪い。得意の心眼で見ようとしても、心眼レンズまで雨に濡れそぼってしまって景観を想像することができない。右の写真は、後日インターネットで検索してみて、「多分このように見えるはずだ」と思える写真を拝借してきたものである。先に画像を掲げた三本槍岳のテーマカラーをグリーンとすると、左の朝日岳はブラウンで右の茶臼岳はグレイ。那須三山はそれぞれに趣を異にして面白い。

那須の山々と初対面
 しかし、隠居倉を過ぎて熊見曽根を行くと、眺望が良くなってきて、ようやく那須の山々が姿を見せてくれた。下の写真はいずれも近藤さんに送っていただいたものだが、左が朝日岳、右が剣が峰に連なる茶臼岳である。
 
 更に、景観は、CL石井清一さんが後日送ってくださった次の写真のような物凄いパノラマへと展開して、降り続く雨の中に立ちつくして見惚れる私の胸を打つ。クライマーはいざ知らず、私のようなハイカーにとっては、やはり景観が山登りの何よりの“ご褒美”になる。


垣間見える“さりげない介護”ぶり
 やがて、清水平と峰の茶屋との分岐点に到達。ここから左に進むと清水平を経て道は“憧れの”三本槍岳に続く。右の近藤さんが撮ってくださった写真を見ると、心配された百均レインコートは健在だが、ボケナスの私の疲労度は覆い隠しようもないように見える。後刻、出発点の駐車場に戻った時には、片倉リーダー(写真左)が握手の手を差し伸べてくださったばかりか佐藤CL(写真右)まで近寄ってきて握手をしてくださった。「ああ、ずっと私のことを気遣ってくださっていたのか」と感謝感激したのだが、この写真を改めてみると、お二人のさりげない“介護”ぶりが垣間見えるような気がする。
 悪路であることを理由にされていたが、ことによると、我々の行程から三本槍岳が外されたのは、昨日“牛が通れる道”を踏み外して宙づり事件を起こしたボケナスの脚力のなさを憂慮されたからなのかもしれない。今更ながら、とんだ“お荷物”が参加したお陰で行程を短縮されることになった健脚ぞろいの皆さんには本当に申し訳のないことをしてしまったと思っている。


半世紀越しの目標達成
 やがて更に少し登って「朝日の肩」に着いたところで♪この道はいつか来た道♪の記憶が蘇ってきた。古いアルバムには次のような添え書きがしてあった。
三本槍、朝日岳、茶臼岳縦走をめざしたが、途中強い風雨に遭い(朝日岳にて)退散
 そうだ、ほぼ50年前、若かりし男女カルテットは、北湯温泉から登ってから早々に三本槍登頂を諦め、清水平を通って朝日岳頂上間近のここまで来て、余りの風雨の強さに尻尾を巻いて退散したのだった。
しかし、ほぼ50年後の今日は、雨こそ降ってはいるが小降りになっていて、風は50年前と比べれば無風に近い。我々“朝日岳登頂隊”はここにザックを置いて班別に頂上を目指す。朝日岳は、北アルプスの山並みを連想させる風貌をしているところから「偽穂高」という異名があるそうだが、確かに、頂上までの直登・直降の道も結構傾斜がきつく、足元に積み重なる大小の岩が歩行を阻む。しかし、ボケナスの私も難なく健脚のメンバーについて行って、次の朝日岳登頂記念写真に、石井CLと、片倉リーダー率いる3班の皆さんとともに加わることができた。半世紀越しの目標達成の写真でもある。
なお、近藤さんのカメラに収められたこの写真によると、百均レインコート姿のボケナスが、再び“写真上の中心人物”となっており、ハタ迷惑をおかけした分際であるにもかかわらず「横浜山岳協会」の“旗”の支え手となっているのが分かる。
 周りに視界を遮るものがない朝日岳山頂からは、前後の茶臼岳と三本槍岳も含めた360°の大パノラマを楽しめるはずなのだが、ここでは山登りの“ご褒美”を得ることができなかった。


岩場伝いの険しい道を行く
 朝日岳から峰の茶屋に向かう道は、剣が峰の中腹を走る岩場伝いの険しい道が続き、高所恐怖症のボケナスが大嫌いな鎖場も何箇所かある。「偽穂高」と続いているだけあって、高く隆起した溶岩が固まったものと思われる巍巍とした岩塊もあって、“落石注意”どころか“落石注意”の標識がほしいと思われるようなところは、思わず息をひそめてその下を通り過ぎてしまいたくなる。しかし、この道はまさに♪いつか来た道♪で、次第に記憶が明確に蘇ってくる。こんな岩場だらけの道でも、路傍に花が咲いているところがあって、私たちの目を楽しませてくれているが、50年前に濡れそぼりながらここを通った私たちの眼に映ったリンドウは一層美しくて優しいものだった。その印象が強かったのは、古いアルバムに以下のように書き添えられていることからも分かる。
強い雨足の中で見た山路のリンドウの美しさ
 

ここで道草
「剣が峰」のあれこれ

 Wikipediaによると「剣が峰」は、「火山の噴火口の周縁」が原義であり、特に富士山の山頂の八つの峰で本邦最高地点(標高3,776m)の峰を指す名称であったようだ。相撲用語の「剣が峰」も同様に、土俵の円周を形成する俵の一番高い所(上面)の呼称であり、ここを境にして体が残るか否かで勝敗が分かれる土俵際であるため、「これ以上少しの余裕もない、ぎりぎりの状態」や「物事の成否の決まる瀬戸際」に追い込まれることが、「剣が峰に立たされる」と表現されるようになったようだ。
しかし、日本に34峰もある「剣が峰/剣ヶ峰/剣ヶ峯」は必ずしも火口と関係なく、「“剣”のように鋭い山頂や顔料を持つ“峰”(山岳で周囲より高まっている部分/頂き)」という意味で、那須の剣が峰もこれに当たるようだ。34“峰”とは言いながら、御嶽山の最高峰(標高3,067m)や乗鞍岳の主峰(標高3,026m)のような3,000m級で、飛騨山脈(北アルプス)北部の立山連峰に連なる剣“岳”(標高2,999m)を高さで凌ぐ「剣が峰」もある。白山の山頂部にある峰の一つである「剣が峰」(標高2,677m)にも及ばない標高1,799mの那須「剣が峰」は、“剣が峰番付”では精々小結程度なのかもしれない。但し、34峰中の11峰を擁する栃木県は“剣が峰シェア”32%で断然他府県を圧している。



突如蘇る50年前の悪夢
 剣が峰の中腹を通る難所を過ぎて一息ついだところに三斗小屋との分岐点があった。右の写真が、行程が終りに近くなって初めて撮った近藤さんとのツーショットである。背後に霞んで見えるのが昨日訪れた峰の茶屋である。そして、その峰の茶屋とこちらを結ぶ尾根を見下ろした途端に、思わず「あっ!」と息を呑んだ。忘れもしない峰の茶屋との間をつなぐ細尾根の姿が見え、それとともに50年前の悪夢が突如として蘇ってきた。そうか、ここだったのか、あの“事件”が起きたのは!
 古いアルバムには次のような添え書きがしてある。
  強風にしばし躊躇していた茶臼への細尾根越え。意を決して匍匐前進し範を垂れたつもりが随行者なく、谷を挟んで1:3。やがて、風がおさまるやKnight1人現われ、このサポートにより、ようやく残る3人も谷越え。  
 それはそれは風の強い日であった。濃霧の中に見える鞍部は見るからに細く、左右の谷が千尋の谷の如く切り立っているように見えた。風が物凄い音をたてて吹いており、一歩、鞍部の上に足を運ぼうものなら、左の谷の奈落の底まで吹き飛ばされることは必定と思われた。恐怖心に駆られた私たちがここで躊躇して脚を止めたのは当然のことであった。しかし、風は一向に止もうとせず、濡れそぼった体は冷え込んでいく一方。ここで徒に待機しているのも危険に思え思案に暮れる。そんな一瞬濃霧に切れ目ができて、左側の谷が存外浅く、たとえ吹き飛ばされたとしても軽いダメージで済むものと思われた。匍匐前進による鞍部越えを私が決意したのはその時であった。そして、率先実行してみて他の3人の追従を促した。しかし、鞍部の半ば以上を過ぎたあたりで「ほら、大丈夫だろう?」と声をかけながら振り向いてみると誰もついている者はいなかった。よほど私が危なっかしく見えたのか、それとも、四つん這い姿が余りに不格好で追随する気になれなかったのか。いずれにしても、谷を隔てた1と3の間に相互不信感が生じ、気まずい心のわだかまりが残ったことは確かである。


名だたる"風の通り道"であった
 50年ぶりに訪れたこの日は強風も濃霧もなく、鞍部とその両脇の谷がクリアに見える。50年前に一瞬濃霧の切れ目に見えた通り、左側の谷は浅くなだらかであり、右側も実際にこうして見てみると“千尋の谷”とは程遠い“ただの谷”である。「盲蛇に怖じず」というが、逆に、「見えざる脅威に対して過度の恐怖心に怯える」ことがあり得るということが良く分かる。
 しかし一方、強風は那須の“特産物”だということが今回の山行で初めて分かった。登山路の随所に「強風に注意」という立て看板があった。特に、ここは日本海側から吹きつける風が抜けていく "風の通り道" に当たっているそうであり、右の近藤さん撮影の写真のような看板があり、「峰の茶屋付近で強風による遭難、転倒による捻挫、骨折などの事故が発生しています」と書かれていた。だとすると、50年前に「吹き飛ばされたとしても軽いダメージで済む」と思って決行した私の匍匐前進はやはり暴挙だったのかもしれない。

エピローグ

百均が汚水漏洩を救う
 県営駐車場を発ったマイクロバスは、帰路も順調に東北自動車道を今度は南下する。石井CLの粋な計らいで那須ICに乗る前にコンビニに立ち寄り、銘々“アルコール飲料”を買い込んでいるので、車内の談笑の雰囲気も順調に盛り上がってくる。私の場合はここでもボケナスぶりを発揮して、「3本纏めてお買い得」の謳い文句に釣られて発泡酒「金麦」500mlを3本買い込み、「これで三本槍(遣り)だ」とばかり、隣席の近藤さんと談笑しながら超順調にグビグビが進む。この“飲み込みの速さ”も半世紀を通して少しも変わっていない。そして「InputあればOutputあり」という質量不変の法則(?)をすっかり忘れている。古くは在庫管理、近くはコンピューターのデータ格納・取り出しの仕方を表す言葉にFIFO(First In First Out :先入先出方式)というのがあるが、“早吞込み”(Fast In)の私はFast OutのFIFOで、たちどころに“自然に呼ばれる”ことになった。山を登り始めて、トイレがないところでは、木陰や岩陰に分け入って熊や鹿、猿のお仲間になるしかないのだから、まさに「自然の呼び出し」であり、”Nature calls me.”とは言い得て妙なる表現だなどと考えたりしてしばし、気を紛らわせていたのだが、そんな悠長な事態ではなく執行(シッコう)猶予できない事態になってきた。もとよりマイクロバスは“バストイレ付”ではなく、悪いことに次のSAまで程遠い。そこで、近藤さんにすがる目で訴えたところ、やおらポケットを開いて、「じゃ、これを使ったら」と百均のポータブルトイレを手渡してくださった。「なんでも出てくるポケットをお持ちの近藤さんはドラえもんみたいだ!」と妙な感動の仕方をしながら、生涯初使用のポータブルトイレの中で凝固させることができたので、福島原発のような「汚水漏洩事故」を引き起こさずに済んだ。尾籠な話だが、「たかが百均されど百均」を改めて実感させられた。

“古文書”により“まだらボケ”発覚
 ところで、このレポートを書きあげる頃になって“古文書”が見つかった。私が東芝に入社した昭和38年(1963年)の手帳である。ここに次のような書き込みがあり、これによってボケナスの“まだらボケ”ぶりが露わになることになった。まず第一に、課内旅行で来たのと男女カルテットで来たのは別の時期だと思い込んでいたのだが、なんと不埒なことに、課内旅行で来ていた私が一人北湯温泉にとどまっていて、他の3人を呼び寄せていたのである。当時は日曜日だけが休みで土曜日は半ドンだったので、課内旅行への出立は当然9月21日(土)の午後だったものと思われる。東海道新幹線が開通したのさえ翌年(1964年)のことだから、東北本線は当然在来線で、那須駅からバスに乗り継いで「北湯」に着いた時には夕刻になっていたに違いない。同じように時間をかけて来着したはずの3人をバス停で出迎えた記憶がおぼろげに蘇ってきた。そのまま、那須岳縦走にかかるのは如何にも暴挙であるから、4人が勢揃いして温水プールで泳いだりしたのは9月22日(日)だったようだ。
  9月21日(土)   課内旅行       那須北湯泊
9月22日(日)   茶臼岳登山      北湯泊
9月23日(月)   清水平、朝日岳退散  北湯泊
9月24日(月)   茶臼岳
 

四枚の写真でお仕舞に
 “古文書”を見て驚いたのは、上掲のように私は9月21日(土)と9月24日(月)の2度にわたって茶臼岳に登っているという事実を全く忘れ去ってしまっていたということであった。そこで、もしやと思って古いアルバムを繰り直してみたところ、以下のような写真が次のページに“潜んで”いたことが分かった。
 
 

 上の写真で分かるように、男女カルテットで登った時には茶臼岳は気前よく雄姿を見せてくれていたのだが、この良き記憶が、山中で強い雨風に祟られたという強いマイナスの記憶によって上書きされてしまっていたのだ。茶臼岳に出遭えて、”w”が限りなく”b”に近い”wakasa”丸出しでハシャイでいる姿も写し出されているではないか(右の上下の写真)。こんな“恩”を忘れているのだから、今回は茶臼岳のご機嫌が悪く、邪険に姿を隠されてしまったのかもしれない。
なお、下左の写真には半世紀前の“古式ゆかしい”自動車が写っているところから、若かりし男女カルテットは峠の茶屋駐車場に降りてきたのかもしれない。そして、ここから見た山肌全面が真っ赤に染まった姿が印象的だったので、爾来この半世紀間、「三本槍岳の紅葉は凄味が感じられるほど美しい」と言いふらし続けてきた。半世紀たった今分かったことは、三本槍岳はソッポの方にあり私が目にしていた山肌は恐らく鬼面山のものだったらしいということである。こんな支離滅裂ならぬ“地理滅裂”ぶりも依然として“健在”なのも困ったものだが、半世紀前に地図も持たずに那須連山に挑んだのは、やはり私の暴挙だったのだと改めて思う。

あらぬイチャモンの最後っ屁
 この半世紀の間に、写真はモノクロからカラー主流に変わっている。しかし、写真をめぐる最も大きな技術革新はアナログからデジタルへの転換であろう。一時は全盛を極めていたレンズ付きフィルム(使い捨てカメラ)も今や影が薄くなり、デバカメからバジ転換した(?)デジカメの世界となり、撮影スタイルもファインダーから“のぞき込んで”被写体を見る形から、モニター越しに被写体を“公然と”みる形になっている。更には、“写真撮影専用”のデジカメから、“写真も写せる”多機能性を有するケータイやスマホ、携帯端末が主役の座を占めていきそうな勢いを示している。半世紀前は、トランシーバー(市民バンドラジオ)が市場導入期にあり、やがて登山にも使われるようになったが、“相互位置確認専用”のトランシーバーは“相互位置確認にも使える”携帯電話にとって代わられることになった。トランシーバーの歴史がデジカメで繰り返されつつあるように思える。多機能端末を用いれば、静止画だけでなく動画が撮れ、併せて音声を録音することもできるので、特に滝の録画録音などの場合に威力を発揮する。私もガラ系から多機能端末への切り替えを検討中だが、今度はバッテリーの持続時間が問題になる。電池技術もこの半世紀の間に革新を遂げたが、ことバッテリーの持続時間に関しては革新度が低くまだまだ革新の余地と必要性があるように思える。今回の山行で我が愛機Nikon Coolpixが途中で使えなくなってしまったのも電池切れのせいである。ボケナスの事前の充電のし忘れを棚に上げて、電池技術についてのあらぬイチャモンをつけて、この長大なレポートの最後っ屁とする。


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