最初は“狩人御用達”の秘湯であった?
三斗小屋温泉の発見は、康治元年(1142年)と古いが、恐らく相当長い期間文字通りの“秘湯”として放置されていたものと思われる。まず第一に、二山も三山も越えて人里まで木材を運搬する手段に事欠くこんな“山奥の孤島”にまで樵(きこり)が立ち入っていたとは考えられない。精々、「熊見曽根」の地名から示唆されるように、この辺りにもマタギに似た熊狩人集団がいて、その狩りの疲れを癒す“狩人御用達”の露天風呂だったのではないだろうか。
会津中街道「三斗小屋宿」が開設された
ここに宿泊施設が設けられたのは、1683年の日光大地震によってメインロードの会津西街道が通行不能になり、いわば“裏街道”として代替街道の会津中街道が開設された1695年以降のことであろう。会津中街道の宿場の一つとして設けられた「三斗小屋宿」から3kmほど東にある三斗小屋温泉は今度は“旅人御用達”の温泉になったわけである。会津の若松城下から下野の今市に至る会津西街道には、重要伝統的建造物群保存地区として選定されている大内宿がある。その代替街道として開設された会津中街道であるから、大内宿に相当する規模の宿場ができていたとしても不思議ではない。
しかも、三斗小屋宿の北には標高1,468mの大峠、南には麦飯坂があって、この一帯は街道一の難所であったとのことだから、「那須山中の三斗小屋宿」は東海道の「天下の険・箱根宿」のようなものである。実際に、元禄9年(1696年)の会津藩の記録では人家はなかったとあるそうだが、その後、ここを通る旅人の数が急増するのに伴って、旅籠などが建つとともに接客や、食材や資材の調達・運搬に当たる人たちが大量に流入してきて“宿場町”としてかなり栄えていたものと思われる。従って、三斗小屋温泉への食材や資材の運搬も三斗小屋宿からされ、その中で当時貴重品とされていた煙草を宿泊客に売っていたことから「煙草屋旅館」という名前が付けられたのではないのだろうか。
山岳信仰の拠点ともなった
また、那須の山々では山岳信仰が盛んに行われていたようだが、三斗小屋口を登り口とするルートが開かれ、多くの参詣者が白湯山信仰のため入山できるようになったのも、三斗小屋宿を起点とできるようになったからに違いない。因みに当地那須の山岳宗教は、「三山がけ」と称して白湯山・月山(茶臼岳)・旭岳の三山を、途中にある36ヶ所の拝所を参拝しながら登るのが一般的であり、この三山は出羽三山(湯殿山・月山・羽黒山)を模したもののようだ。そして、この白湯山信仰は、出羽三山の湯殿山信仰に当たるものだが、「白湯山」という名前の特定の山はなく、茶臼岳の八合目西に面したところにある温泉の湧出源の呼称らしい。三斗小屋温泉は、「三山がけ」の疲れを癒す“参詣者御用達”の温泉でもあったのだろう。
山峡の小さな宿場にも及んだ戊辰戦争の影響
しかし、代替街道の悲しさで、メインロードの会津西街道が再整備されるとこの会津中街道は次第に使われなくなり、現在では地図にも載っていない幻の街道になってしまっている。そして三斗小屋宿も昭和32年に最後の家族が去ってからは無人となり「三斗小屋宿跡」が残るのみで、三斗小屋宿も“登山客御用達”になっている。だが、そんな寂れる一方であった山峡の小さな宿場にも徳川の時代から明治へと移り変わる際に起こった戊辰戦争の影響が及んでいたのだそうだ。
当初、三斗小屋宿には、会津軍が詰めていたのだが、官軍による会津若松の町を焦土と化す攻撃が始まると、三斗小屋宿も激戦の末官軍の支配するところとなったのだとか。この間、三斗小屋温泉も“兵隊御用達”になっていた可能性があるが、当時はそんな悠長な事態ではなく、官軍と会津軍のせめぎ合いに巻き込まれて、「三斗小屋大黒屋ノ人」をはじめとする三斗小屋宿住民が常軌を逸した暴虐な仕打ちで惨殺されたという旨が、田代音吉なる人物が書いたガリ版刷りの資料「三斗小屋誌」に書かれているということがネット・サーフィンの結果分かった。こんな辺鄙な山奥でさえ、戦争が不条理にも、武器を持たない庶民に対して悲惨な災禍を及ぼしていたということを知り胸が痛む。
鉱山時代の終焉とともに三斗小屋宿は消滅
更に時を経た明治26年(1893)には三斗小屋宿の近傍に銅山が開かれ、採掘された堂が宿の近くで精錬されており、明治末期には三斗小屋住民44名のうちの21名が鉱山関係者であったということも分かった。鉱種は黄銅で、精錬には燃料として木材が大量に消費されるため木材伐採に当たる材木業者がおり、ここで伐採された木材が、前述の通り、牛によって那須硫黄鉱山にも運ばれて燃料として用いられていたようだ。那須硫黄鉱山に比べると規模が小さな鉱山だが、それでも、三斗小屋銅山は大正時代前半には第一次大戦の需要に支えられて好景気に沸いたらしい。
三斗小屋宿は会津中街道と栄枯盛衰をともにして、今は消滅して無人の地となっているが、その最後の姿はかつての "宿場町" からは随分と変遷して“鉱山の集落”となっていたようである。従って、三斗小屋温泉は“鉱山御用達”にもなっていた可能性がある。しかし、第一次大戦後は銅の需要が減って経営難となり、三斗小屋銅山はたびたび休山となり、昭和28年に廃坑になっている。那須硫黄鉱山の盛衰とほぼ一致しているように見え、最後の住民が転出して廃村となったのが昭和32年であるから、那須の鉱山時代の終焉が三斗小屋宿の消滅を決定付けたものと言えそうである。
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