しもさんの趣味 -1-


懐かしき西部劇
2014.04.11
2組 下赤隆信


 地元のオーケーストアで、DVDを売っているコーナーがあり、家内の買い物が済むのを待っていて何気なく冷やかしていると、「シェーン」、「荒野の決闘」、「黄色いリボン」、「真昼の決闘」、「赤い河」など、西部劇の懐かしいタイトルが目についた。

 一本500円というので、何となく「赤い河」を買ってしまった。 若き日の最大の楽しみは映画だったな。「シェーン」は銀映座で、「OK牧場の決闘」は中央劇場で観たような記憶がある。錦町をもう一つ右へ曲がったところに東宝劇場があって、その隣に新しく出来たのが、洋画専門の銀映座ではなかったか。

 帰って早速「赤い河」を見てみると、記憶の中にある映像よりも格段にきれいなのに驚いた。モノクロスタンダード画面ながら素晴らしい広がりと奥行き、清澄な空気のようなものまで感じられる。遠くにいる人物が遠くなりにはっきり見えている。 今のデジタルの機械のせいなのか。それにしても、絵として大変きれいだ。むかしの映画人は、ていねいに時間をかけていい画面を作っているように思える。

 物語は、ダンスンという男(ジョン・ウエイン)とその相棒のグルートという入れ歯の老人(ウォルター・ブレナン)、そして途中で二人に拾われる孤児のマット(モンゴメリー・クリフト)の三人が、カウボーイ達と一万頭の牛をテキサスからアビリーンまでの千数百キロの荒野を追って行く、いわゆるキャトルトレイルものと言われる映画である。

 映画の冒頭、ダンスンはテキサスに牧草地を見つけ牧場を開く。 ダンスンの牛の烙印は「レッドリバーD」であって、映画ではダンスンが不器用に砂の上に斜めの線を二本描き、これがレッドリバーだ、そのそばにDと描いてみせ、ダンソンのDだとマットに説明しているシーンから、一転して何頭かの牛が次々とこの烙印を押されるシーンになる。

 ダンスンは、十四年という歳月をかけてこの数頭の牛から大牧場を築き上げる。マットはその間修行に出て一人前になって戻り、いまやダンスンの片腕といえる存在になっている。

 余談だが、このレッドリバーDの意匠をあしらったバックルがアメリカで売り出されたらしい。写真で見たことがあるが、かまぼこ板のような大きなのもので、大男のアメリカ人でないと使いこなせないような代物だった。

 西部劇はガンプレイが売り物であって、この映画にも重要な要素として扱われている。 ダンスンについては実際に何人もの相手を倒す場面が用意されている。 ここでチェリー・バランスと言うガンマンが登場する(ジョン・アイアランド)。 この役者は「OK牧場の決闘」ではリンゴー・キットという拳銃使いで、ドク・ホリデー(カーク・ダグラス)に撃ち殺される役をやっていた。ちなみに、「駅馬車」でJ・ウエインが扮する若者も、リンゴー・キッドと呼ばれていて、劇中で本人が、子供のころからの仇名だと言っている。

 チェリー・バランスは、ダンスンンと近隣の牧場主とのトラブルがあり、その際相手方の用心棒だった男で、銃の使い手である。 マットとチェリーは、お互いに銃の腕を認め合っていて、腕試しをしたりする。「いい銃だ、見てもいいか?」と相手の銃を借りたチェリーが空き缶を撃ち、銃弾に舞い上がった缶をマットがすかさず撃ち飛ばすといったサービスシーンも用意されている。

 チェリーは賃金のためでなく、いつか自分の銃の腕を示すときが来るだろうとこの旅に加わるのである。道中でも、食料と弾薬を盗んで脱走していった二人のメンバーを、ダンスンの命令で捜索に行き、苦も無く捕らえてくるといった曲者ぶりをみせている。

 W・ブレナンは、物語のナレーションもやっていてそれがいい味をだしている。その字幕になったものもなかなか良い。「われわれはいく日も西へ進んだ。牛は疲れて気が立っていた」と言うような一行で多くのことが表現されている。

 画面は牛の群れと、馬を駆ってそれを追うカウボーイたちが描かれ、昼間の情景からだんだん暮れてゆき野営のシーンになる。 しんみりした、「ライフルと愛馬」のメロディーが流れる。 この「ライフルと愛馬」、この赤い河では特にタイトルは不明であって、同じハワード・ホークスの後の作品「リオ・ブラボー」に使われたときには、劇中でディーン・マーチンが歌っていた。そのタイトルが「ライフルと愛馬」なので、ここでも「ライフルと愛馬」としておくのだが、「赤い河」の音楽担当ディミトリー・ティオムキンが「リオ・ブラボー」でも音楽を担当しているので、同じ曲を使ったのかも知れない。

 余談だが、このディミトリー・ティオムキン、かずかずの映画音楽を手がけていて、私が見た映画だけでも、この「赤い河」、「リオ・ブラボー」のほかに、「真昼の決闘(ハイヌーン)」、「OK牧場の決闘」、「紅の翼(The High And The Mighty)」、「ピラミッド」、「ジャイアンツ」、TVの「ローハイド」の「♪ローレンローレン~」など、ずい分記憶にある。

 さて、この映画の最大の見せ場である牛の暴走シーン。「スタンピード」暴走だ、と叫ぶダンスンの顔の大写し。
J・ウエインを大根役者だという人は多いが、こういう場面でのこういう顔はJ・ウエインにしか出せない味である。
 ある西部劇愛好者同士の対談で両方ともJ・ウエイン嫌いで意見が一致していたことがあったが、西部劇通にはそういう人が多いらしい。

 むかし、田中英一という映画評論家がやっていた「西部劇通信」(Western Telegram)という小雑誌があって、J・ウエインが好きか嫌いかというアンケートをとったときに、生意気にも「これがJ・ウエインでなかったら、もう少し小味の利いた映画になっていたろうなと思うことはあるが、やはりJ・ウエインはJ・ウエインである」という、分かったような分からないような投稿をして掲載されたことがあった。同じような意見が多かったのではないだろうか。

 牛の暴走は夜中のことで、寝ていたカウボーイたちは、はじけるように起きて馬に鞍を置き、とび乗って牛を追う。服装を整える間もなく、下着姿の者もいたりする。 むかしこの映画を初めて見たときに、咄嗟になにも考えず本能的に牛を追うカウボーイたちに感動したことを思い出した。

 暴走する牛の激流のような動きと凄まじいひづめの音、それに飲み込まれそうになりながら牛を追うカウボーイ達の描写は延々と続き、ついに牛が谷の奥の行き止まりに集められて暴走が止まったとは、画面も音も急に静かになり見ている方もほっとするのであった。

 その後、ダンスンとマットは目的地を巡って意見が対立するが、メンバーたちの支持を受けたマットはダンスンを追放してミズーリへ向かう。 一行は途中で、インディアンに襲われている幌馬車隊を助けて、その中のミレーという女性とマットとの恋愛ムードも描かれる。

 H・ホークスは女性の描き方があまり上手でないような気がする。このミレーという女性が出てくる場面ではどうも話しがもたもたしてくる。 「リオ・ブラボー」でもJ・ウエインのお相手に、アンディー・ディッキンソンという美人女優を起用しながら、あまりその魅力が出せていない。

 そこへゆくと、J・フォードは、男っぽい作風ながら、「荒野の決闘」のクレメンタイン(リンダ・ダーネル)の清楚な美しさ、またそれにほのかに恋心を抱くワイアット・アープ(ヘンリー・フォンダ)のほのぼのとした描き方などなかなか良かった。
 

 映画の原題が、My Darling Clementieというのだから、このクレメンタインという女性が重要だったのかも知れないが。
 また、「駅馬車」でも、乗り合わせた人たちの人間模様と、途中のインディアンとのアクションを綯い混ぜて描いてゆくのだが、この中に商売女ダラス(クレア・トレバー)と東部の令嬢(役者は無名?)がいて、令嬢は住んでいる世界が違うダラスと席を並べることを嫌っている様子が折にふれて挿入されてこれがまた一つ伏線となっている。この令嬢は妊娠していて臨月に近く、やがて旅の途中で出産を迎える。
 乗客の一人、いつも酔っ払っていて、そのくせシェークスピアのせりふなんかを口にする医者(トーマス・ミチェル)が、大量のコーヒーを飲み何杯も水をかけてもらって正気を取り戻し、赤ん坊の取り上げにかかる。唯一の女性であるダラスが甲斐甲斐しく世話を焼く。

 やがて無事赤ん坊が産まれ囲いの中から赤ん坊を抱いたダラスが出てくる。 このときのダラスの表情が、優しくおごそかで、職業や家柄の貴賎を越えた女性の尊厳のようなものを感じさせるものであった。

 暗い部屋の片すみからそのダラスの様子をじっと見つめるJ・ウエインの表情のアップ。 こんなシーンもJ・フォードの男っぽい映画の中にしっかりはめ込んであって、なみの活劇ではない一級品となっているのだろう。巻末では二人は結ばれるという余韻を残してThe Endとなる。
 
 さて、「赤い河」にもどると、つれていってとせがむミレーを振り切ってマットの一行は出発する。しかし、幌馬車隊の一行は、マットたちを追ってきたダンスンと遭遇し、やがてア
ビリーンで登場人物たちが一堂に集まるという筋立てとなっている。

 マットの一行はやがて無事アビリーンへ付く。そこでは牛が不足していて、牛の大群は大歓迎を受け、牛は高く売れる。 しかし、追いついてくるダンスンとの決着が残っていた。一行は緊張のなかで、ダンスンを待つ。腕に自信のあるチェリーが銃を点検する場面などが、緊張を演出する。

 ダンスンが登場するとまず、チェリーが後ろから作法どおり声をかけ銃を抜くが、振り向きざまに抜いたダンスンのほうが早かった。チェリーは腹を押さえて倒れる。どの程度の傷なのかは描かれていないが、致命傷ではなかったようだ。ダンスンもまた腹に傷を負う。このあたりがうまく仕組んであるところで、誰が見てもJ・ウエインとM・クリフトが殴り合ったら勝負にならない筈なのだが、このハンデをつけたことでラストに近いこの場面がもう一つうまく盛り上がるというわけだ。

 ダンスンはマットの足元や頬すれすれに銃を撃ち応戦を促すが、マットは抜かない。「腰抜けめ」とダンスンは銃を捨ててマットを殴る。 最初のうち、マットは散々に打ちのめされる。心の底では兄とも父とも思っているダンスンである。戦いを避け、殴られるままになっていたような印象であるが、やがて本気で戦いだす。 ダンスンが殴られて後ろへすっ飛ぶとウォルター・ブレナン扮するグルートがこぶしを上げて叫ぶ、「これでもう大丈夫だ」

 マットがダンスンの掌を離れて男として一本立ちしたと感じたのだろう。 すっ飛んだダンスンは、一瞬びっくりした様子で、おやっやるなという思い入れ、そして少し嬉しそうな顔をする。このへんがハッピーエンドを匂わせた演出で、殴り合いは続くが、突然の銃声に虚をつかれた形で終りとなる。ミレーが堪りかねて拳銃を振り回して止めに入ったのだった。拳銃を構え仁王立ちになっているミレーを見ながらダンスンがマットに言う「あの女をもらえ」。マット「そうするよ」

 「烙印を変える」、ダンスンが砂の上に烙印を描く。斜めに線を二本、そして右側にD、ここまでは今までの烙印だがそれに加えて左側にMを描き足す。「マットのMだ」。 ダンスンの牧場はマットへ、そしてそのまた子供たちへと引き継がれ、やがてアメリカという国を形成してゆくのだという余韻を残して映画は終るのである。

 映画の冒頭で象徴的に登場した烙印がラストシーンで再び登場し、その大写しにオーバーラップしてTheEndとなるという、なにか懐かしみをもった終幕となっている。
 数頭の牛から始めて大牧場主となるダンスン。その牛の大移動。烙印。 いまのアメリカが出来上がるまでの数々の歴史の中の、これも一つのエピソードとして、H・ホークスはこの話を描きたかったのではないか。 西部劇には、みな何か底流にそういうものが感じられる気がする。

 500円は有難い。こんどは「.大いなる西部」を買ってみよう、いや「OK牧場の決闘」がいいか。「シェーン」もいいな。いや、もっと古い「ウインチスター銃’73」なんてのはないだろうか。

                                        「完」


※ 「Native American」と言うべきところ、「Indian」という表現は、原作に従いました。


   
         
 
 

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