哲照さんの趣味 


「西部劇」と思いつくままに
2014.12.04
7組 山本哲照


  序 章
榮憲道、下赤隆信両氏の西部劇への思い入れがたっぷり詰まったお話の後を引き継ぐことになりましたが、大きなプレッシャーを感じています。私は映画好きですが「西部劇」に特化しているわけではなく、映画全般に関することに何でも関心があります。頭の中にいくつも小さな引き出しがあり、あまり整理せずにゴチャゴチャにしまいこんであるものが、一つ出てくるとそれに関連したものが際限もなくあとからあとから出てきます。「西部劇」のことを話しているうちに出演俳優のことから「西部劇」とは全く関連のない別の話に飛んでしまうかもしれませんが、そのあたりは大目に見てくださるよう、先にお願いしておきます。

1.銭湯帰りに映画を見ていた
どこから筆を起こしたらよいのか?と走り出す前にけつまずいている感じが無きにしもあらずですが、私が映画に興味を持ち始めたのはいつごろなのか?と言うあたりからお話しましょう。 私が生まれたのは1940(S15)年12月。生誕地は小田原市万年4丁目556番地(その後住居表示が変り今では浜町3丁目1-10)国道1号線が大きくカーブする地点で現在ファミリーレストラン「ロイヤル・ホスト」がある場所です。父が小田原警察署の警察官でした。父は街なかを巡回するのが主な業務だったようで、近辺でよく顔を知られていました。当時は各家庭に風呂はなく殆どの家が近くの銭湯を利用していました。私の家では旧東海道にあった「清水湯」という銭湯に毎晩行っていました。映画好きだった父に連れられて私も毎晩銭湯に行きました。帰りの時刻が大体午後7時~8時頃になり帰り道で必ず映画館に入りました。警官の家庭ですからその都度入場料を払っていたら、家計は火の車になっていたでしょう。入館する時は全て父の「顔パス」です。余談ですが当時はどこの映画館でも「今半」という料金割引のサービスを行っていました。時刻は午後8時頃でそれを過ぎると「今から半額」になるというもので、父もたまにはそのサービスを利用していたようです。

家から「清水湯」までの道には二つの映画館がありました。「復興館」(後に「国際劇場」次いで「小田原日活」。私の家から徒歩1分)と「富貴座」(同4分)です。地元では「復興館」を「フコーカン」、「富貴座」を「フキザ」と呼び習わしていました。フコーカンは邦画の上映館でしたが洋画もよく上映しました。西部劇を上映していたのは主にフキザでした。当時は他に「オリオン座」と「東宝館」という二つの映画館があり、私もこれらの映画館によく行きましたが、家からは遠いので銭湯帰りにと言うわけにはいかず、父は同行しないので「顔パス」で入場することはあまりなかったように記憶しています。「東宝館」の隣に「銀映座」というのもありましたがもう少し後のことです。

2.強烈に印象に残っている「モヒカン族の最後」
さて、銭湯帰りに父とよく行ったフキザでその頃(昭和20年代)見た映画はあまりに数多く、題名は殆ど覚えていませんがその中ではっきり記憶に残っている映画の題名が「モヒカン族の最後」(The Last of the Mohicans)です。原作はアメリカの有名な小説だそうで何度も映画化されているようですが、私が見たものは多分1936年の作品(監督ジョージ・B・サイツ)だと思います。原作が長編なので映画も確か5部作位に分れていました。主演は西部劇役者の王者、ランドルフ・スコット。1992年の「ラスト・オブ・モヒカン」(監督マイケル・マン)の主演はダニエル・デイ・ルイスでした。
フキザではなんといっても「シェーン」(1953年、監督ジョージ・スティーブンス、主演アラン・ラッド)でしょう。私が中学に進学した年でした。この頃はまだ父が存命中(1956年死去)だったのでこの映画も父と一緒に「顔パス」で入場したのかもしれませんが・・・アラン・ラッドのカッコよさと華麗なガン捌きに酔い痴れました。甘いマスクの二枚目ですが演技はあまり評価されてこなかったラッドの一世一代の名演技と言っていいでしょう。この映画の印象があまりに強烈だったのでラッドは西部劇役者と思っている方も多いようですが、出演した西部劇は「シェーン」を含めて10本前後で現代劇の方がずっと多いようです。私は「シェーン」以前に出演した「別働隊」(1950年、監督ミッチェル・ライゼン、主演アラン・ラッド)をテレビで見ました。第2次世界大戦末期のイタリアでドイツ軍撹乱の任についていたケアリー大尉が秘密が漏れてドイツ軍に追われたが辛くも脱出。戦後ふたたびイタリアを訪れ、裏切り者の正体を探っていく、という物語です。この映画自体はそれほど高い評価を得なかったようですが、映画の中で流しがうたう歌「モナ・リサ」が1950年度のアカデミー賞映画主題歌賞を獲得し、ナット・キング・コールが歌って大ヒットしました。もちろん私は封切り時に見たわけではなく、テレビで見たときに「モナ・リサ」が出てきたときはびっくりしました。

3.「サン・アントニオ」と「サム・サンデー・モーニング」
音楽の話が出たついでにこちらの方に少し寄り道してみます。先日私が加入している「小田原ケーブルテレビ」の有料オプションチャンネル「衛星劇場」で「サン・アントニオ」(1945年、監督デビッド・バトラー、主演エロール・フリン)を見ました。
戦後、「腰抜け二丁拳銃」(1948年、監督ノーマン・Z・マクロード、主演ボブ・ホープ、ジェーン・ラッセル)に次ぐカラー作品です。この映画の主題歌「サム・サンデー・モーニング」は私たちの年代にとっても耳に残っている方は多いでしょう。確か霧島昇が日本語の歌詞で歌っていました。彼のソフトな声が思い出されます。この映画を見るまではこの歌が西部劇の主題歌だったとは全く思っていませんでした。映画のプロットはかなりいい加減だし、ピストルの撃ち合いも相当間が抜けていて、思わず笑ってしまいますが、エロール・フリンが男盛りの色気に満ちていてそれなりに面白い映画でした。
映画の中で歌われたりバック・ミュージックとして流れていた曲の中で日本中で愛されたものが「黄色いリボン」(1949年、監督ジョン・フォード、主演ジョン・ウェイン)の主題歌「黄色いリボン」(She Wore a Yellow Ribbon)でしょう。アカデミー主題歌賞を獲得し、これも大ヒットしましたね。もともとはアメリカの古い民謡だそうで、他の映画にも度々登場してきますが、日本人にとってはこの映画の主題歌という印象が一番強いようですね。私は英語はどうも苦手で原語では全く歌えないし何を言っているのかさっぱりわかりませんが、「黄色いリボン」は訳詞・佐伯孝夫、歌・久慈あさみの「♪あの娘の黄色いリボン 誰に見しょとの髪飾り♪」という日本語の歌は強烈に印象に残っています。

「シェーン」の主題歌「遥かなる山の呼び声」(The call of the faraway hills)も訳詞・井田誠一、歌・雪村いづみの「♪青いたそがれ 山が招くよ 呼んでいるよ♪」という歌の方が覚えやすく、あの頃(1953年、昭和28年)は盛んに歌っていました。

ボブ・ホープとグラマー女優ジェーン・ラッセルの「腰抜け二丁拳銃」の主題歌「ボタンとリボン」(Buttons and bows)も忘れられません。映画の日本公開は1949年(昭和24年)ですから我々は小学校3年生。わけも分らずただ一つ聞き取れた言葉「バッテンボー」(buttons and bows)と声高らかに歌っていました。この歌も訳詞・鈴木勝、歌・池真理子の「♪都が恋し 早く行きましょう♪」という日本語の歌の方が記憶に残っています。ダイナ・ショアがレコード化しましたが映画の中ではホープ自身も歌っていました。この曲は「腰抜け二丁拳銃の息子」(1952年、監督フランク・タシュリン、主演ボブ・ホープ、ジェーン・ラッセル)の中でも歌われています。この映画には歌うカウボーイことロイ・ロジャースやビング・クロスビーなども出演しています。

4.いとしのクレメンタイン、ハイヌーン、テキサスの黄色いバラ
 「荒野の決闘」(1946年、監督ジョン・フォード、主演ヘンリー・フォンダ)は有名なOKコラルの決闘をフォードが映画化したもので、ドク・ホリディが撃ち合いで死んでしまうなど史実とはかなりかけ離れているようですが、ワイアット・アープがドク・ホリディの婚約者で東部からやってきたクレメンタインに寄せる思いなどロマンスの要素も織り込み、日本では人気の作品です。この中で歌われている「いとしのクレメンタイン」(My Darling Clementine)もよく知られていますね。アメリカ開拓時代の古い民謡から取ったものだそうです。金鉱掘りの娘が水死してしまい、恋人が嘆き悲しむという内容で、「♪洞穴住まいのおいらの胸に たった一人の可愛い娘♪」という日本語訳の歌を覚えています。日本では「雪山讃歌」という全く別の歌としての方が人気がありますね。

 「真昼の決闘」(1952年、監督フレッド・ジンネマン、主演ゲイリー・クーパー、グレイス・ケリー)はクーパー扮する町の保安官が結婚式をあげた直後に昔とらえた4人のならず者が報復にやってくるが、町の人は誰も助けようとせずたった一人で立ち向かうという物語です。テックス・リッターが歌った主題歌「ハイヌーン」(High Noon)
が大ヒットし、アカデミー主題歌賞を獲得しました。以前「小田高11期通信」に寄せた駄文と重複しますが、当時のアメリカの人気歌手だったフランキー・レーンはこの歌のオファーを断ってしまい、後で大いに悔しがったという事です。なお、クーパーの新婚の妻を演じたグレイス・ケリーはこの作品がデビュー作。後に「クール・ビューティ
と謳われた清楚な美貌はひときわ目立ちました。また4人のならず者を演じた役者の中には、後にテレビ西部劇「ローハイド」で牧童頭の「ピート・ノーラン」役を演じたシェブ・ウーリー、同じく後にマカロニ・ウェスタンで主役を演じるまでになったリー・ヴァン・クリーフなどがいました。「真昼の決闘」は映画のストーリーの進行と実際の時間の進行を合わせた作品としても有名です。

 「テキサスの七人」(1968年、監督ウィリアム・ヘイル、主演ジェームズ ・カーン)は南北戦争当時の1862年、バックをリーダーとする7人の若者が戦争の英雄を夢見て故郷を後にするが、戦場につく前から過酷な現実にさらされ、さらに戦争の中でも仲間が次々に死んで行き、最後に故郷に戻ったのは片腕を失ったバック一人だけだったという物語です。この中で歌われている曲が「テキサスの黄色いバラ」(The Yellow Rose of Texas)です。元々はアメリカ南部の古い民謡で、1955年アメリカの「ミッチ・ミラー楽団」によってレコーディングされ世界的な大ヒットになりましたが、この映画の中で使われていたのが同楽団によるものかどうかははっきり分りません。この曲は「拳銃稼業」(1955年、監督ハロルド・シェスター、主演ジョン・エリクスン)など他の映画でも主題歌や挿入歌として盛んにつかわれています。「ジャイアンツ」(1956年、監督ジョージ・スティーブンス、主演ロック・ハドソン、エリザベス・テイラー、ジェームズ・ディーン)は厳密には西部劇ではありませんが、この映画のエンディングでも効果的に使われています

5.端役から主役へ
 「テキサスの七人」に出てくる7人の若者の内主役のジェームズ・カーンは当時すでに主役を張れる役者でしたが、他の6人の中にも後年大スターとなった役者がいます。ハリソン・フォードです。この頃は26歳。なかなか芽が出ずくさっていましたが、「スター・ウォーズ」(1977年、監督ジョージ・ルーカス、主演マーク・ハミル、ハリソン・フォード)で主役の一人ハン・ソロに抜擢され一挙にスターダムにのし上がりました。その後は「インディ・ジョーンズシリーズ」などで活躍しています。もう一人ジャン・マイケル・ヴィンセントもこの頃はぱっとしませんでしたが、「ビッグ・ウェンズデー」(1978年、監督ジョン・ミリアス)で一躍有名になりました。その後「摩天楼ブルース」(1979年、監督ジョン・フリン)などでかなり人気のある俳優でしたが、アルコール依存症で事故を起こしたりして大成しなかったようです。

 「ヴェラクルス」(1954年、監督ロバート・アルドリッチ、主演ゲイリー・クーパー、バート・ランカスター)はクーパー、ランカスターの2大スターが火花を散らす痛快西部劇です。ランカスターが製作に関与していてクーパーに出演してもらい、彼に花を持たせた演出になっていますが、真っ黒な顔に白い歯を見せてニヤッと笑うランカスターの怪演にさすがのクーパーもすっかり食われてしまっています。南北戦争末期のメキシコを舞台にしたもので、皇帝軍と革命軍の争いに巻き込まれる無法者と元南軍将校のお話です。この映画の中で私が最も記憶に残っているシーンは、皇帝軍の嫌味なダネット大尉がクーパーに対して「私は負けたことがないから、負け組の南軍将校とは話が合わない」とか、手づかみでチキンをほおばるランカスターに対して「下品だ」とか言って、ランカスターがつかみかかりそうになった時クーパーがこれを制して「私がチビだった時、おもちゃの鉛の兵隊をなくしたことがあった」と指で小さなおもちゃの兵隊を作って見せ、「その時母が、泣くのはおよし。いつかきっと見つかるから。と言ってあやしてくれたが」と言いながらチラッと大尉を見て「見つけたよ」と言い、ランカスターが口からほおばった肉を噴き出して大笑いする、という場面です。

この映画でランカスターの仲間でハーモニカを吹くピッツバーグという男がいます。この役者の名はチャールズ・ブチンスキーとクレジットされていますが、彼こそ後世の人気スター、チャールズ・ブロンソンです。しかし、ブチンスキーと名乗っていたのはこの頃までで同じ1954年の映画「太鼓の響き」(監督デルマー・デイビス、主演アラン・ラッド)からはブロンソンになっています。同じく仲間の一人ドネガンを演じたのはアーネスト・ボーグナイン。後に「マーティ」(1955年、監督デルバート・マン)でアカデミー主演男優賞を獲得しました。その後も「ワイルド・バンチ」(1969年、監督サム・ペキンパー、主演ウィリアム・ホールデン)「ポセイドン・アドベンチャー」(1972年、監督ロナルド・ニーム、主演ジーン・ハックマン)や「北国の帝王」(1973年、監督ロバート・アルドリッチ、主演リー・マーヴィン)などで男くさい役柄で活躍しています。
 
「荒野の七人」(1960年、監督ジョン・スタージェス、主演ユル・ブリンナー、スティーヴ・マクウィーン)も後に主役を張るスターがぞろぞろ出てくる作品として忘れられない一本でしょう。黒澤明の傑作「七人の侍」に惚れ込んだブリンナーが翻訳権を買い取り、舞台をメキシコに設定して映画化したものです。7人のうちリーダーのクリスを演じたブリンナーは既にスターになっていました。そして黒澤作品では木村功と三船敏郎を合わせたようなチコという役柄を演じたホルスト・ブッフホルツはドイツから招かれた俳優で「わが青春のマリアンヌ」(1955年、監督ジュリアン・デュビビエ)で主役のヴァンサンを演じ、当時「ドイツのジェームズ・ディーン」と呼ばれたくらい人気のあった俳優でした。残りの6人のうちハリー・ラックを演じたブラッド・デクスターだけはこの頃もこの後も有名スターではありませんが、ヴィンを演じたスティーヴ・マクウィーン、オライリーを演じたチャールズ・ブロンソン、ブリットを演じたジェームズ・コバーン、リーを演じたロバート・ヴォーンの4人はこの作品の後それぞれ映画やテレビドラマなどで主役を張る大スターとなりました。大スターとなってから同じキャスティングをするとしたら出演料だけで興行収入の半分以上はなくなってしまうかもしれません(これについては正確に計算したわけではありませんから、全くのあてずっぽうです。違っていても責任は負いかねます)。

6.西部劇における女優(女性)のスタンス
「西部劇」というのはあくまでアメリカ開拓時代のフロンティア・スピリットを題材としたものですから、どうしても主役は男性(男優)となり女性(女優)は脇役になってしまいます。物語の進行上いろいろな場面で登場してきますが、やはり脇役です。こういう損な役回りの女優ですが、私が好きな女優が二人います。以後は二人の女優の登場する西部劇をご紹介します。

 「リオ・ブラボー」(1959年、監督ハワード・ホークス、主演ジョン・ウェイン、ディーン・マーティン)はハワード・ホークス監督の西部劇3部作(他に「エル・ドラド」と「リオ・ロボ」)の1作で西部劇屈指の名作の一つに数えられています。物語の冒頭から度肝を抜く展開で、初老の保安官、アル中のガンマン、足の不自由な老人、二丁拳銃の若者の4人が悪に立ち向かう物語で、西部劇のありとあらゆる要素が盛り込まれた娯楽大作です。この映画に女賭博師で踊り子のフェザーズとして登場するのが、私の大好きなアンジー・ディキンソンです。1931年生まれでテレビの美人コンテスト優勝を機に芸能界入り、「100万ドルの脚線美」で有名な美人女優で、この映画が実質的なデビュー作です。ウェイン扮する保安官がメロメロになる役を演じています。この映画以後「オーシャンと11人の仲間」(1960年、監督ルイス・マイルストン、主演フランク・シナトラ)「殺人者たち」(1964年、監督ドン・シーゲル、主演リー・マーヴィン)「ビッグ・バッド・ママ」(1974年、監督スティーヴ・カーバー、主演アンジー・ディキンソン)「殺しのドレス」(1980年、監督ブライアン・ディ・パルマ、主演マイケル・ケイン)など多数出演しています。これは全くの個人的なお話ですが、私が通っていたスポーツクラブで毎週出ていた「マットピラティス」のレッスンのインストラクターがアンジーによく似ています。もし興味を持つ方がおられたら私にこっそりご相談ください。このインストラクターのブログをお知らせします。ブログにご自身の写真を載せていますから確かめてみてください。

「大いなる西部」(1958年、監督ウィリアム・ワイラー、主演グレゴリー・ペック、チャールトン・ヘストン)巨匠ウィリアム・ワイラーが西部の新しい夜明けを格調高く描いた西部劇です。ペック扮する東部の男が牧場主の娘である婚約者に会うためはるばるテキサスまでやってきます。娘を好きな牧童頭チャールトン・ヘストンとの確執、水源地をめぐるテリル家とヘネシー家との争いなど、これも西部劇の面白さを存分に見せてくれます。この水源地の地主で後にペックと恋仲になる女教師のジェリーを演じているのが、もう一人のお気に入りのジーン・シモンズです。1929年生まれのイギリス人女優。

シモンズを初めて見て好きになったのは「黒水仙」(1946年、監督マイケル・パウエル、エメリック・プレスバーガー、主演デボラ・カー)でした。ヒマラヤ山麓の女子修道院を舞台にした物語で、日本公開は1951年でしたから私は小学校5年生だったでしょうか。デボラ・カーの美しさにも魅了されましたが、僧院で育った奔放な少女を演じたシモンズも大好きになりました。この映画の2年後には「スパルタカス」(1960年、監督スタンリー・キューブリック、主演カーク・ダグラス)でスパルタカスの妻役を演じました。

だらだらと関心のない方々にとってはくそおもしろくもない「ウンチク」を垂れ流してきましたが、そろそろお開きにします。最後にもう一つ、蛇足に靴をはかせるようなエピソードを一つ。
「未来警察」(1985年、監督マイケル・クライトン、主演トム・セレック)という映画があります。SF作家でもあるクライトンが監督したもので、未来社会でロボットとコンピュータを駆使する犯罪者とロボット犯罪担当警察官との戦いを描いています。この映画のポスターや新聞広告でキャストの中に「ジーン・シモンズ」という名前があったので、「久しぶりにシモンズに会える。50代半ばのはずだが相変らずきれいだろうか?」とわくわくしながら見ました。ところが一向に出てきません。テレビで放映したものですから、録画して何度か再生し画面の片隅でも見逃すものか、と目をこらしましたが結果は同じです。そして何度目かにやっと分りました。何とこの映画に出ていたのは、アメリカのロックグループ「キッス」のベーシストでボーカルの「ジーン・シモンズ」(Gene Simmons)でした。私が恋い焦がれた「ジーン・シモンズ」
(Jean Simmons)とは似ても似つかない悪相の男でした。しかも憎々しい犯人役でした。畜生!紛らわしい名前をつけるな!!

榮さん、下赤さん。ご期待にこたえられたかどうか、お粗末さまでした。



 



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