世界の庭園


タシケントの日本庭園
2015.04.03
第33期  小林欣也

 タシケントといえば、その昔NHKのシルクロードという番組で見ただけの遥か遠い街だった。悠久の時を奏でる喜太郎の音楽と未知の世界の映像に、中学生の頃の僕は壮大なロマンを感じていた。中央アジアは敦煌の向こう、タクラマカン砂漠や天山山脈を越えてやっと辿り着く地域だった。僕が学生年代の中央アジアはソ連邦の一部だったため、旅行をするにも南米やアフリカよりも遠い国々であり、バックパッカーにとっては幻の領域だった。

 ウズベキスタンは1991年にソ連邦から独立したばかりの国であり、独立10周年を迎えるタイミングでウズベキスタンに駐在する商社と日本人会が中心となって日本庭園建設プロジェクトが動き出した。そして2001年、僕はその中央アジアの中心都市タシケントに日本庭園の建設と公園緑化技術者の指導のためJICAの技術派遣で赴任することになった。中央アジアに行くことなど思いもよらなかったし、シルクロードの要衝に庭園を造るなんて僕にとっては夢のようなプロジェクトだった。

右から3人目が小林さん

 タシケントの3月は雪が降る日もあるかと思えば、夏のように暑くなる日もあった。日本庭園建設予定地はタシケントの中心の一等地にあり赴任当初はアカシアやプラタナスなどの落葉樹が点在する林だった。シルクロードのオアシスでもあるため、緑は特に大切にされているため、出来るだけ既存する樹木は残して庭を造るというコンセプトだった。

 僕のもとで働く職人やスタッフはウズベク人、カザフ人、トルクメ人、ウクライナ人、ロシア人、アルメニア人、グルジア人、タタール人、タジク人、キルギス人、ウイグル人、韓国人(戦後そのまま残った人たち)そして、施設責任者はユダヤ人など、人種の坩堝とあって多種多様な民族の集まりだった。

 彼らとの会話はロシア語だった。JICAが通訳を付けてくれたので、問題はなかった。実はウズベキスタンは日本人の知らない大の親日国であり、日本語を学ぶ学生が驚くほど多く、日本語を話す優秀な学生や社会人がやたらいたのである。 土木工事は韓国人の人夫出しがメインだったので、いろいろな人種がいた中で同じ顔つきの彼らとは特に親しみを持って仕事が出来た。

ロシア人の大工達

 4月になるとタシケントはいよいよ灼熱の季節になった。日中の気温は45度を超える日が多く、金テコなどをうっかり触ると火傷するありさまだった。 現場の安全管理はひどいものだった。クレーンの運転手のカザフ人は昼飯にはウオッカを飲んでいたし、労働者は3時にもなると茶碗でウオッカを回し飲みしている有様だった。石を吊るワイヤーは粘りのない中国製の粗悪品で3t以上の石を吊るとかなりの確率で簡単に切れてしまった。その度にソ連製のクレーンがドスーンと大きな音を立てて反り返った。

 ソ連製のクレーンの調子が悪くなると日本製のKATOのクレーンが代用で来たがその安定性とスムーズな動きには関心させられたものだった。

 重機屋はアルメニア人がし切っていた。鷲のように鼻の高い人相は僕にとってガラが悪く不愉快な存在だったが、落ち付きのない神経質な施設責任者のユダヤ人とのやり取りの中で、彼らこそが僕側に付く良い理解者でもあった。人は見かけによらないものであった。

ガニエフ大臣と小林さん

 土木工事、石工事が進むと中門、舞殿、東屋の建設のためにロシア人の職人が増えて来た。その中の設備屋のアントンは僕と同じ1962年生まれだったが、彼はアフガニスタンに侵攻した時に膝にケガを負って足が不自由だった。アフガニスタン侵攻といえば僕にとっては柔道の山下選手がモスクワ五輪に行けずに涙を飲んだという程度の認識ではあったが、世界では同じ年の青年が若くして戦地に行っていたのだった。また大工の職人たちの多くもアフガニスタン帰還兵だった。歴史の証人と働いているような気がした。

 タシケント日本庭園はウズベキスタン政府も大きな期待をよせており、工事が進むにつれ、外務大臣や首相も現場に視察に来るようになった。 また当時の在ウズベキスタン日本大使は北朝鮮から曽我さんが帰国した時に タラップから降りる際寄り添っていた現、次世代の党所属の参議院議員の中山恭子先生だった。時々大使館に呼んでいただき日本料理をご馳走になったり干し柿をいただいたり、日本人が少ない国で働く者にとって、日本大使館は何よりのよりどころだと思う。

いろいろな民族の共同作業


 日本人会の中心となった三井物産のウズベキスタン事務所の所長が夕方になると僕を迎えに来ては韓国料理屋へ連れてってくれた。あまり娯楽もなく楽しみは焼肉を食べながらロシア製のバルチカビールかJINROを飲む程度だった。そうした日常でロシア人の誕生会がやたらに多く、仕事中でもかまわず呼ばれた。リビョーシュカという巨大なドーナッツ状のパンとシャシリクという中央アジア風焼き鳥などをつまみにウオッカを一気に飲むという強烈な飲み会だった。彼らは順番に小話をしてその後に乾杯と言っては一斉にウオッカを流し込んだ。胃が焼けるため多くの人はその後にファンタやコーラを飲みほした。そのパターンを知らない頃は、日本酒をおちょこで飲むようにちびちび飲んでいたので、彼らよりも飲み過ぎてしまって記憶を失ったこともあった。

  工期が迫る中、のんびりと進んでいた現場が急にあわただしくなってきた。大統領がオープニングセレモニーに来るということで、工期の遅れは全体に許されないようだった。さすがに旧ソ連邦の社会主義国家の底力なのだろうか、飛行機工場で働いていたロシア人たちもやってきて、最後の数週間で今までの3カ月分以上に工事が進んだ。

 庭園は8月に完成し、オープニングセレモニーには日本大使はもちろんのことカリモフ大統領も出席するなど国をあげて開園を祝ってくれた。

 現在タシケント日本庭園はウズベキスタン人の結婚式の後に必ずと言っていいほど写真撮影をする公園として、またデートスポットとしてタシケントの中心的な公園となっているようです。
ウズベキスタン製太鼓橋
蓮  池
カルガモと池
ロシア人とウズベキ人のカップル
結婚式後の定番の撮影
築  山
石 庭
2015年撮影の日本庭園

日本庭園にて、ウズベク式茶会



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